萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

讃岐・阿波を走る! 第6話 「善通寺」

2008年06月22日 | 自転車の旅

<善通寺の大楠と氷川丸。樹齢千数百年だそうだ。>

真言宗の開祖、弘法大師(空海)の生誕地、善通寺に着いたのは午後3時半。瀬戸内海に面した高松市から、讃岐平野を南西に走って来ると、この辺りから段々と山が迫ってきて、そのまま阿波との国境になる讃岐山脈へと繋がっていく。

空海は西暦774年、この地で生まれた。並外れて学問に優れていたので、15歳の時に都に出て18歳で官吏になるべく“大学”で学んだ。が、すぐ大学を飛び出し、出家してしまう。近畿や四国の山で修業をしていたらしい。その後、804年遣唐使船に乗って長安に行く。

この地の山々を見ていて感じたのだが、空海は子供の時からこの山林で遊んでいたのではないか。彼の“山好き”はこの山々と決して無縁ではないと思った。

若き空海は決まりきった学問を詰め込まれて、有能な官吏になるよりも、山を駆け巡って真理を追い求めたり、危険を冒してでも長安まで行って悟りを開くという方の道を選んだ。有り余る知的エネルギーの矛先を“宇宙と生命の真理追究”に向けたのだ。それが、どれだけ自分の性に合ってるかを退屈な都の生活の中で痛感したに違いない。

3年間長安で修業して帰国後、この地に善通寺を建立したという。以下は善通寺のHPの解説。

<空海の師である恵果和尚の住した長安・青龍寺を模して建立した寺であり、大同2年(807)陰暦12月朔日に斧始めを行い、弘仁4年(813)6月15日に落慶し、父善通の名をとって「善通寺」と号した。>

境内は思っていたよりも広い。京都東寺、紀州高野山とならぶ弘法大師三大霊跡のひとつだけのことはある。高名な寺だけに寺の名前がそのまま市の名前になっている。珍しいと思ったが、香川県内には観音寺市というのもある。そういえば、東京にも国分寺市があるか。結構ありますナ。

立派な五重塔もある。この連休は特別公開ということで福袋やお菓子を二階から子供達に向けて投げていた。子供にはいいイベントで、静かだった境内がいきなり賑やかになった。

また、「弘法大師誕生の時より繁茂している、樹齢千数百年を経た大楠」という名木がある。クスノキは、暖地に多い常緑高木で、病虫害も少なく長命で老巨木となるものが多い、そうだ。氷川丸も長く活躍できるように、大楠を背景に一枚撮った。

境内をぶらぶらしていたら、時刻は午後4時半。今回の旅の最大の目的である、このあたりにあるという「西行庵」を見つけ出さないと何のためにここまで来たかわからん。

実をいうと、それだけ大事な目標なのに、はっきりとした場所は調べて来なかった。善通寺に行けばなにか手がかりがあるだろう、ぐらいに思っていたのだが、西行庵の場所を教えてくれるものは何も無かった。

頼りは持ってきた白洲正子著「西行」のみ。ページを手繰って、「讃岐の庵室」の項をみる。そこにはこう書いてあった。

 『善通寺の裏山の「曼荼羅寺」に、西行の庵室跡がある、
  ただし、はっきりしたことは現地で聞いてみないと
  解らない。』

と。そして、白洲正子氏は現地で散々迷ったと言っている。曼荼羅寺から先はクルマが入れないので、細い山道を歩いて登らなければならず、現地の人に聞きながら探したがなかなか見つからない。そのたびに麓の村まで戻って、聴きなおして、また出直す、ということを五、六ぺん繰り返したと言う。

そんな、ややこしいとこか。日はすでに傾き始めている。山里の夕暮れは短い。日が沈む前に果たして、見つけることが出来るのか。

少々ではすまない焦りが、胸の辺りをスーっと走った。

               つづく


<五重塔の二階から、福袋やお菓子を投げる人。>


<それを取る子供達。>
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