萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

讃岐・阿波を走る! 第7話 「西行庵」前編

2008年06月30日 | 自転車の旅

<我拝師山(わがはいしやま)。この辺りに「西行庵」はある。>

西行は三十歳代に高野山(開祖=弘法大師)に住んでいたこともあり、弘法大師(空海)の影響はかなり強く受けていたと思える。崇徳院の墓参後、この大師の故郷「善通寺」界隈に庵を結ぼうというのは、単なる思いつきではなく、高野山にいた頃からの夢ではなかったか。

西暦で言うと1118年生まれの「西行」と774年生まれの「空海」の間には344年という時の差がある。時代区分で言えば、空海は奈良時代末期、西行は平安時代末期の人間である。この時空間に「平安時代」がすっぽり入るというのも面白い。

桓武天皇が都を平安京(京都)に移した794年から平安時代が始まる。この時、空海20歳。奈良の大学を飛び出して、近畿の山々で修行していた頃だ。一方、平家が安徳天皇とともに壇ノ浦で滅び、源頼朝が実権を握った1185年が平安時代の“終わり”とされる。西行、この年67歳。伊勢に住んでいた頃である。

400年続いた「平安時代」の“入り口”に若き空海がいて、その“終焉”に老境の西行がいた、というのがなんとも面白い配剤ではないか。生まれたての“平安時代”には溢れんばかりの知的エネルギーを持った、空海のような若者が必要であったろうし、末期的症状の“時代の終わり”には歌人西行の“癒し”が、必要であっただろう。それぞれの時代における“役目”を見事に果たしたからこそ、両人は歴史に名を留めているのに違いない。

いずれにしても、西行から見ると、空海は4世紀も前の偉人である。小生が、信長や家康を思うようなものである。生々しい“教え”を乞うというより、同じ場所に住むことにより、神に近い存在の大師の威信にあやかるようなつもりで、この地に庵を結んだと思える。

さて、夕暮れも迫った中での「西行庵」探しの話に戻る。“時”でいうなら、「2008年5月4日16:33」である。何故、正確にわかるかというと、大楠をバックに氷川丸を撮った画像データに記録されているからだ。まことに便利な時代になったものである。弘法大師も真っ青!ですナ。

境内にある地図で曼荼羅寺までの行き方の大体はわかった。善通寺を出て西へ4キロ程行った所にある。まずはその寺を目標に走る。やがて、「四国第72番曼荼羅寺」「73番出釈迦寺」の標識が目に入る。ありがたや。標識通り左折する。500mも行くと「曼荼羅寺」の標識あり。今度は右折だ。ここからは登り。それほどきつくはない。曼荼羅寺はすぐに見つかった。

さて、ここから先が、白洲正子氏が散々迷ったとその著「西行」に書いてある道だ。寺の人か地元の人に場所を聞くしかない、と思ってそれらしき人を探していると、なんと、道の角に

「← 西行庵」

という標識があるではないか。やった。これで簡単に辿れる。安堵、安堵。思えば白洲氏がこの地を訪れたのは20年以上も前、1980年代前半である。今は2008年だ。便利で親切な時代なんだ。こういのがあって当たり前だ。

この先は舗装はされているが、山道だ。細くてくねくねしている。ゆっくりと矢印の方向に進む。小さ目の「西行庵 →」の看板がある。そこを右に行くとまもなく「← 西行庵」の指示。左に曲がると、勾配がきつくなる。まっすぐ登って行く。右手に果物の棚のある農園を横目に先へいく。しばらく行けども、「西行庵」は見当たらず、看板も無い。

さては、道を間違えたか。先程の農園に人が居たのを思い出し戻る。下りは速い。自転車のいいところだ。農作業をしていたお姉さんに聞く。

「西行庵ってどういくんですか」

「ここを真直ぐ行くと赤い屋根の家があるから、そこを過ぎてすぐの十字路を右に行くと右手にありますよ」

尋ねる人が多いのか、スラスラと教えてくれる。お礼を言って、また、登る。言われたとおりの十字路に小さい標識「西行庵 →」があった。さっきは見逃して、真直ぐいってしまったようだ。標識があってもこの解りにくさだ。白洲氏が、5、6ぺん麓まで戻って探したのも頷ける。

小生の物音に驚いたのか、右手の沼のようなところから、灰色の鷺が羽音をたてて飛び立った。鷺はゆったりと羽ばたいて、里の方へ降りてゆく。

その農道のような山道をしばらく行くと、藪の中にお堂のようなものが見えた。どうやら「西行庵」だ。なんとか日没までに辿り着けた。


<西行庵>

     つづく
コメント
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