萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

「インドを走る!」連載開始

2007年01月30日 | 自転車の旅「インドを走る!」
・はじめに

インドを走ったのは1980年の2月下旬から5月初旬にかけ
てであり、もはや27年前のことです。その時の旅行記を基に
勤め先の会社社内報に『インドを走る!』を連載したのが
1982年4月からですから、それすらも25年前になります。
なんと・・・・・・か!(・・・・・・に入る言葉は余りに月並み
なので書かない。ご想像にお任せします。)

『インドを走る!』は第14回「仏陀の生誕地を尋ねて」までで
中断となりました。理由は筆者がその本業であるサラリーマンに
つきものの異動のためです。環境に慣れ、落ち着いたら再開し
ようと考えていましたが、なかなかその気になれず、「あの話の
続きはどうなった。いつ書く。」と何人かに聞かれたこと
もありましたが、そのうち、うやむやになってしまいました。

 このたび、ブログ「萬蔵庵」を立ち上げるにあたり、
 恥ずかしながら、復活する次第です。とりあえず、第1話から
 第14話までを連載し、15話から新たに書き足そうと考えています。
 1~14話までは社内報連載当時の文章をほとんどそのまま載せます。
 今読み返すと恥ずかしい部分もあるのですが、下手に加筆して当時の
 雰囲気を壊しても面白くないので、あえてそのままとします。
 予めご了承願います。

 いささか時代物にはなってしまいましたが、長期サイクリングや海外サイ
 クリングを考えている方の参考になれば、幸いです。

         2007年1月31日    望ノ萬蔵(もうの まんぞう)

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『インドを走る!』

  第1話「旅立ちの前に」

 「インドヘサイクリングで行ったことがある」などと話すと大抵
の人は「ヘエー」と言う。その「ヘエー」は驚きとも聞こえるし、
何か漠然としすぎていて不思議だという意味にも聞こえる。中には私の
風貌と照合して(やっぱり、こいつは化物だったか)と、領きながら
「ヘエー」という奴もいる。

インドを知らぬ人には、一口に『インド』と言ってすぐに思い浮か
ぶのは『カレー』ぐらいのものだと思う。私も実はインドへ行くま
ではその程度の認識しか無かった。特にインドに興味があったわけ
ではない。ただ、学生時代に一度、どこか海外を走ってみたいとは
考えていた。最初はヨーロッパ一周を考えたが、
欧米諸国は日本人が大挙して行くので、帰国してからの自慢話の最
中に「俺も行ったことがあるぜ」などと横ヤリを入れられてはかな
はないのでやめにした。

『あまり日本人の行かない所』が私の行くところだと決めて、カナ
デイアンロッキーとかアンデスなどの地図をながめ、やがてわが愛
車が走るであろう道や町をあれこれ想像して楽しんでいた。

 丁度その頃、サイクリング仲間二人が、「インドとネパールを走
ろうと思うが、どうだ」と切り出してきた。私はカナデイアンロッキー
とアンデスに未練はあったが二つ返事で了解したのである。

 インドに行くという事になって国外サイクリングが実現される見
通しがつくと新たな期待と不安が湧いてきた。一体、インドとはい
かなる所であるのか、私は全く知らなかったのである。そこで私は
インドについての本を読むことにしたのだが、そこで、はたと気が
ついた。インド専門家ともいえる学者などが書いている本は確かに、
いろいろ研究した結果のものであり、参考にはなると思う。しかし、
その知識が返って先入感となり、実際に自分の目で見たものとは
違った形で解釈してしまうのではないか。つまり、せっかくインドに
まで行って、『自分の目』を信ぜず、「あっ。これはあの本に書い
てあったっけ。なるほど本当だ。」などと簡単にかたづけてしまっ
てはもったいないと思ったのである。

 二十数年間、何はともあれ生きてきた自分の目なり頭なりをもっ
と信用しようと考えたのである。とかく人間は、本なり、テレビな
り、他人のうわさなりを信じがちで、自分の目なり頭なりを信じ
たがらない習性あるようだ。特に○○大学教授の本だとか、有名な人物
の言葉だとかには弱く、それが絶対だなどと思ってしまう人もいる
ようだ。私はここで私の目や頭が名のある人達よりも優れていると
いたいわけでは決してない。
 ただ、自分の目で観て、自分の頭で考えた事を大切にしたいと思
うだけである。それが間違ってたとしても、自分で判断したのであ
るから決して悔やしくはない。自分の誤りを自分で修正すれば済む
ことである。

虎の威を借りたキツネよりも、キツネはキツネなりにベストを尽す
方が心地良いのである。そんなわけで私はインドについての専門的
な本は避け、もっぱらインドでの生活を想定し、水は飲めるのか?
とか、病気にかかった時は?インドの気候は?などという簡単な
旅行ガイド程度のものしか読まなかった。

 さて、いよいよ、面倒な手続き等を終え、出発を待つばかりと
なった頃、わが友人達が馴染みの店で壮行会を催してくれた。いい奴
等ばかりで、インドヘ二ケ月半行ってくるだけなのに、私がもう二
度と戻ってこないような雰囲気で、露骨に「もし、万が一おまえが
戻ってこなかったら云々」などという奴もいた位である。

 実際、いろいろな人々に、「インドは治安が悪いから気を付けろ。
この前、サイクリストがデリーで何者かに殺された。何か武器にな
るものを身に付けておけ」などと驚かされ、緊張した次第である。
また、インドには病気も多く、世界中の病気でインドにないものは
無いなどというぐらい様々な病気がある。「インドを旅行するものは
下痢と発熱は避けられない。」ガイドブックにも書いてあった。

そんなところを毎日自転車で走るのかと思うと、出発予定が迫って
くるにつれ不安が募って来たが、「行くしか方法はないのだ」
と自分に言い聞かせ、なんとか平静を装っていた。大体においてか
ような不安は実際に行ってしまえば何とも無い性格のものなのであ
るが、なかなか不安を消しきれないのが不思議である。

不安と期待は背中合わせのものであると思う。不安という代償なく
しては期待は得られず、多くを期待するものは多くの不安を抱く。
不安を期待で打ち消してこそ、行く手は開かれ「魑魅魍魎(チミモウリョウ)」
出でしとも恐れるに足らんのである。



第2話 「ニューデリー着」

一九八〇年二月二十三日。成田を発ち、バンコックを経由し、二十
四日晩ニューデリー空港着。その晩は空港近くのホテルに泊る。
明けて二十五日、この世に生を享けて初めての異国の朝を迎える。
快晴。ホテルの前で愛車を組む。

近所のインド人たちがゾロゾロ、ものめずらしそうに集ってくる。
同行者の松下君、遠藤君(以下、M君、E君と略す)と共に異常な
までの警戒心を抱くが、無事組みあげる。ホテルの人たちとスナッ
プを一枚撮ってニューデリーの街へと向かう。

超大型フロントバック一個、サイドバック三個、寝袋一個、ボトル二個
を装備した、わが愛車ハリマオ号は、インドの直ぐに伸びた舗装道路を
風を切って進む。異国の地の第一歩。日本を出るまでのめんどうな
手続きやら、つまらぬ不安を快感に変えてくれる、ペダルをこぐ楽しさ。
こればかりは日本でもインドでも変らない。

 しばらくすると、さすがに暑さが身にしみてきて休もうというこ
とになり、市場のある十字路でひと休みする。M君、市場へ果物を
買いに行く。その間、E君と私は赤レンガに立てかけた自転車を見
張る。M君がバナナとオレンジを買って戻ってくるころには、もう黒
山の人だかりで、M君、日本語で「ちょいとごめんよ。」と言いなが
ら、インド人達の問を縫って我々のところに辿り着く。M君、棒キ
レで、半径二メートルの半円を描き、「ここから入っちゃいけない
よ。」と言いながら座り込む。我々もそこへ座り込み、バナナとオレ
ンジで、喉の乾きを癒やす。

インド人達は一向に立ち去る気配は無い。子供から大人まで数十人は
いるであろう集団が半円を描いて我々をその大きな目で見つめながら、
ヒンディ語で何やら話し合っている。彼等にしてみわば、「のんびりと
したインドの片田舎に、突如として現われた奇怪な自転車に乗った
気妙な奴等が、それでもバナナはちゃんと皮を剥いて喰っている」と
いう事実が不思議でならないらしい。

 我々としてみれば、「なんだ、こいつ等、人が休んで、ものを喰っ
てる時ぐらいそっとしておいてくれってんだ。
大体、この暑いのに、この人垣じゃ風も通りゃしない。
全然休んだ気がしないではないか!」
と思うのである。しかし、ここはインドであり、日本の常識は通用
しない。インドでは、珍奇な我々の方が悪いのである。あえて、
ゆっくりと休みたいなら、インド人に成るより他に手はない。

 休んだ気がしないまま、人垣を押し分け出発。ニューデリーの街
なかに入る前に、腹ごしらえという事で、日本で言うならドライブ
イン、いや『水戸黄門』などに出てくる茶店と言った方が正しいか
もしれない。何しろそこで、カレーとチャパティ(小麦を練って皿
状にしたのを焼いた、パンのようなもの)を頼む。案の定、人だか
りができる。そして、汚れた木製テーブルに、無数に飛び交うハエ
達。「食事をした。」というより、「栄養素を胃に注入した。」という
感覚である。

 そこを出て、いよいよ、ニューデリーの中心へ入る。ここは、イ
ンドの首都である。デリーには、ニューデリーとオールドデリーと
があり、東京に例えるなら、ニューデリーは新宿副都心。オールド
デリーは皇居のある東京駅付近。ということになる。

どちらに安宿があるかとなわば、当然、インドの新宿、ニューデリー
である。中でも、メインバザールというところは、安宿が建ち並ぶ
という情報を得ていたので、そこを目指す。

メインバザールの入口付近でバナナジュースを50パイサ(約15円)
で売っていたので、喉の乾いていた我々は、まず、それを飲む。さ
て、宿だ。どこにしようか、立ち止って途方に暮れていると、そこ
は好奇心の強いインドの人々、あっという問に集ってくる。さすが
に都会では英語の話せる人が多く英語で、「あの宿が良い]とか、
「この宿にしろ。」とか盛んに話しかけてくる。

やっと決まったのが、一泊、三人で20ルピー(約六〇〇円)の
「ボンベイ・ロッジ」という所。
三人のインドの学生が世話してくれた。彼等の名は、「パピー」と
「シャマラ」と「シャム」そして、そのボンベイ・ロッジの経営者の
息子パリーを含めた、この四人が、ニューデリーでの我々の八日間の
生活を充実のあるものにしてくれたのである。



 第3話 メインバザールの人々
 
 二ケ月余りのサイクリングを続けようという我々にとって、イン
ドでの準備期間というものはやはり必要である。当初の計画では、
三日間ぐらいの予定であったが、ニューデリー、(注)メインバザ
ールの何人かとの国境を越えた友情が我々を、結局一週間、メイン
バザールに居すわらせた。ノインバザールの彼等下手人の人物評を
書く。

 まずパピー。彼はメインバザールの安宿「ボンベイロッヂ」を教
えてくれた仁である。年令20才、英語が話せる学生で、政治や経済
に興味を持ち、知的好奇心が旺盛である。風体は、彫の深い類たち
に、八頭身のプロポーションを持つ、「二枚目」を絵に書いたよう
な男である。彼には、メインバザールでの一過問、買物や、デリー
の観光地案内等いろいろ世話になったが、特に、インド文化の現状
について彼からいろいろ聞き出せた(もっとも英語がペラペラのM
君のおかけだが)のは、これからインドを走る我々には非常に
役立った。

 次にシャム。披も我々に「ボンベイロッヂ」を教えてくれた仁
で、ロッヂの真向いの家の子である。
家業はカレー屋である。よく、そこへ食べに行った。この店のカレ
ーはそれほど辛くなく、2ルピー(60円)も出せば、十分喰えた。
彼も学生で英語を話す。インドでは、英語を話す人が多い。学生で
あれば、大体英語が話せる。その辺は、どこかの国の学生とは、大
変な違いである。彼にも市内の名所旧跡を案内してもらった。彼は
パピーと比べると陽気でよく笑う男であった。

 最後にパリ。彼はボンベイロッヂの経営者の息子である。年は20
才。目も鼻も口も大きく、あご髭を伸ばし、頭にはターバンを巻い
ている。子供の頃、インド人といえば、必ずターバンを巻いている
ものだと思っていたが、インドの中でも、シーク教徒のみが巻くの
だそうだ。シーク教徒というのは、昔からの武士階級で、生まれた
時から、髪や髭を切ってはいけないらしく、その為、髪を束ね、さ
らにターバンを巻いているのだという。

 パリは先のパピーやシャムと違って、学生ではあるが英語はほと
んど話せない。その辺に私は非常に親近感を覚えた。彼は又、身か
らにじみ出るような抱容力を持っていて、誰からも愛される好男子
であった。

 さて、以上、主だった友人三人を紹介したが、我々は彼等によっ
てメインバザールを中心にデリー市内を知り、また、インド及イン
ド人の何たるかをおぼろげではあるが知ることができ、その後のサ
イクリングに大いに役立ったのである。

 メインバザール滞在中に、デリーで、「ホーリー」という祭りが
行われた。祭りの主旨は知らないが、とにかく街中で人々が、水や
色水をひっかけあったりしてさわぐ祭りである。中でも、「バルー
ン」と呼ばれる一にぎりぐらいの風船の中に水を入れた水性手榴
弾のようなものを、互いにぶつけあうのが面白く、子供の頃やっ
た雪合戦や泥合戦と似ている。

 我々三人はホーリー当日の朝、パピーの家に向かうべく、ロッジ
を出た。いつもと違いメインバザールが妙に静かである。
遠くで奇声が聞える。すでにホーリーが始まっているようだ。我々
は恐る恐るバザールの中心に出た。その途端である。どこにも人影
が無いのにバルーンが頭上から次々と飛んできて頭や背に当り破裂
した。攻撃者たちの奇声があがるが、我々は一目散にパピーの家へ
行くべく、狭い路地に入った。

ここでも格好の餌食とばかりに集中攻撃を浴び、パピーの家に着い
た時は、もう全身ずぶ濡れであった。パピーが出てきて、下に居る
と不利だから屋上に上ろうと言い上へ行く。インドでは、各々の家
に屋上がある。屋上にはパピーの弟のアイシーや彼等の友人たちが
来ており、彼等と共に他の屋上へバルーンを投げつけた。隣の屋上
から、少年たちがしきりに色水を水鉄砲のようなものでひっかけて
くる。こちらもバルーンを投げて攻撃するのであるが、少年たちは
巧みに物影に隠れては隙を見て色水を引っかける。そうこうしてい
るうちに水が無くなった。

水は共同井戸へ行かねば無い。私は外人部隊ではあるが、決死の覚悟で
バケツを両手に共同井戸へと向った。物影から、様子を伺うと、
攻撃してくる気配は無い。しかし、どうせ格好の餌食とばかりに、
手ぐすねひいて待ち構えているに違い無いと思い一方のバケツを
頭にかぶり、井戸へ二、三歩進んで見ると、案の定集中砲水を裕びた。
三、四度、バケツに水を汲もうと試みたが、その度にバルーンが私
の身のあちこちで破裂し、ずぶ濡れになるので、とうとうあきらめ
て空のバケツを持って敗走した。

「望ノ萬蔵は死んでもバケツを離しませんでした。」と後世に語り継
がれるかどうかは知らない。



(注)「メインバザール」は、ニューデリーの片隅にある、上野の
アメ横のような所。安宿やインドの産物、衣類等の店が並んでいる。



第4話 デリーからアグラへ

一九八〇年三月三日、メインバザールを発つ。八日間の問、我々と
遊んでくれたパピー、シヤム、パリ。それからホーリーで我々をいた
ぶったガキ共。生涯会うことは無いかも知れぬが、達者デナ。

日本に比べれば、生きることの難ししい国である。大人よりも子供
がやたらと多い国である。それは、生まれてから成人まで生き抜く
人間が少ない事を意味する。多種多量の病気、カースト制による貧
富の差、食糧難等、様々な要因のもとに人々が死んでゆく。私が知
り合った人達も無事であるとは限らない。しかし、これは仕方無い
ことである。一旅行者の感傷でどうなるものでもない。感傷は確か
に行動の源泉になるものだとは思うが、所詮、源泉にすぎない。感
傷にどっぶりとつかることは自分を納得させ満足させるだけにとど
まることが多い。特に旅先の感傷というものはそうだ。よく、「旅
の恥はかき捨て」というが、旅の感傷も「し捨て」なのである。

十一時半頃、メインバザールの人々に見送られ、ニューデリーを東
へと向かう。首都デリーも少し出ると郊外であり、広々とした田園
が続く。ちょっと見には秋田県の八郎潟あたりの田園似ている。
ソテツや南国風の木々を除けば、もっと雰囲気的には近づく。
 サドルに股がるとやはり、落着く。根っからのサイクリストな
のかもしれぬ。

 途中昼食をとる。案の定、村人が集ってきて、我々の回りに三重
の輪をつくる。彼等のパターンは、最初自転車に好奇の目を向け、
ヒンデイ語で自転車談議を始める。
決まって、一人か二人物識りと思われる人間がしゃしゃり出て他の
人間に何やら説明する。他の者はうなずいて聞くものあり、質問す
るものありで、我々にかまわず勝手にやっている。

 注目の的は、
 ①チェンジギアの構造放びチェンジレバー。
 ②ボトルかポンプ、 
 ③ハンドル、
 ④トウークリップ及びストラップ
 といったところ。

時には、チェンジレバーがどうも解らないらしく、英語で、
「これは、自動車のサイドブレーキと同しか。」などと聞いてく
る者もいる。一しきり自転車談議が終わると好寄の目は我々に向け
られる。我々が、昼めしを喰っていようとバナナを喰っていようと
おかまいなしに我々をじっと見つめている。M君曰く、「日陰に
なってちょうどいいや。」

しかし、風は通らぬし、こう見つめられては、休んだ気がしない。
あぐらをかいている数センチ先には、彼らの黒々とした裸足があり、
M君の顔の横には、下半々まる山しの子供が立っている。ここまて
接近して見なければならぬはど、日本人がバナナを喰う姿は珍しい
というのか、エエ、オイ!

 今後休憩の時に、果物を買ったらなるべく村落を離れた所まで
行ってから休もうと、誰れが言うとも無く決まった。

 我々の行程は、デリーを出て、二泊三日でアグラ到着というもの
であった。アグラは、遺跡建築物の多い、インドでも有数の観光地
で特に、タージマハールは有名である。アグラの前の晩はマトウー
ラという町に泊まる。宿には他に泊まり客はいなかったが、我々を
大歓迎してくれた蚊がいた。無数にいて、この時とばかり我々の血
を吸いやがる。

インドで買った蚊取り線香は姿形は日本のそれにうりふたつである
のだが、まったく役に立たぬ。ヒンドウー教で殺生は固く禁じられて
いるためか、蚊取り線香は、蚊が嫌がるという程度にしか効力が無く、
蚊の思うがままである。おかげでろくろく眠れず、早朝発つ予定で
あったがM君、E月共起きない。しかたないので、一人起きて、南欧風の
白い壁に囲まれた中庭に座って煙草を吸い、しばし、朝の気だるさを
楽しむ。

こういう時の煙草はうまい。普段は惰性で吸っているが、時々うま
い時があるからやめられない。

 十時頃、宿を出る。今日も道に落ちている馬糞、牛糞、ラクダ糞
を避けながらのサイクリングが始まる。インドでは自動車よりも、
馬車、牛車、ラクダ車などが多いようだ。馬車は大体人間を乗せて
いる。人数は5人~15九人ぐらい。

馬は辛そうにしているが人間は楽しそうにしている。スピードは自
転車の方が速いが、我々の方は、自転車も人間も辛そうである。牛
車は、大体二頭立てで、主に荷物を運んでいる。ラクダはさらに大
きな荷物を積まされて歩いているが、ラクダのしぐさを見ると、そ
の大荷物がノミの糞ほどにも感じていないのか、悠悠閑閑としてい
る。実に大したものである。人生万事ラクダの如くありたいものだ
と感じ入った次第である。

 またインドには、烏が多い。あくせくペダルをこいでいると、
サッと目の前を青く輝く小鳥が横ぎったり、道端で数十羽のハゲタカ
が、アメラグの選手よろしく肩をいからして、牛だか馬の死骸をつ
いばんでいたりする。カラスにも何種類かあって、首のあたりがグ
レーで、あとは全身紫色という上品なのにお目にかかったことも
あった。

 こうして、我々は、茫漠たるヒンドスタン平原の平坦な道を、暑
さにも負けず、蚊にも負けず、村人にも負けす、時にラクダに感心
したり、烏に驚かされながらも、第二の目的地アグラへ到着したの
である。
                          つづく

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「インドを走る」を読み始めました。 (ドラゴン)
2007-08-19 04:40:17
「インドを走る」を空港の待合室で読み始めました。
25年前のこととは思えないおもしろさですね。
でも氏が根っからのサイクリストとはいささかどうかなという気もしますが。

やはり古いものから順番に表示されるとありがたいです。
ちなみに何話までの予定なのでしょうか。
無事帰国 (萬蔵)
2007-08-19 12:58:06
「インドを走る!」で空港での待ち時間を過ごしていただくなんて!筆者としては本望です。今のペースで行くと40話近くになってしまうかも知れません。

話は変わりますが、無事家に着きました。「中欧の旅」中はお世話になりました。日本は蒸し暑いです。

税金還付の件、なんとかゲットしました。(17.5ユーロ)小生の英語力というかボディランゲージ力では結構大変でした。結局、ウィーンでは手続きできませんでした。どうやら、ユーロ圏の場合は最後の空港でもらう、というようなことでヘルシンキでようやくゲットしました。おかげで空港での待ち時間を潰すことができました。
なつかしい!!! (M君)
2008-01-05 17:02:40
いっしょに行ったMです。以前、社内報をもらって読ませていただきましたが、今回は20年ぶり(それ以上?)の連載ですね。

それにしてもどこから、このような古い記憶、記録をもってきたのかな?驚きです。

いっしょに走ったインドとネパール。あの自転車の旅から得たものは、お互い計り知れないものだったと思います。

仲間と協力して、前を向いて走る。なんとかして目的地にたどり着く。苦境にうまく対処する。力を抜くときは力を抜く。がんばるときはがんばる。

ありがとう (萬蔵庵亭主)
2008-01-05 18:36:27
さっそくのコメントありがとうございます。こういうコメントをいただくと励みになります。

当時書いた手書きの旅行記をパソコンに入力する作業を続けていると、当時の情景や気分に浸ることができます。非常に懐かしく感じるとともに若返ったような気もして、小生の密かな楽しみになっています。

今、ポカラの話ですが、これからE君は日本へ。M君はトレッキングでカラパタールへ。小生は再びインドへ。という展開になります。

小生の一人旅の模様はM君も詳細はご存知ないと思います。乞うご期待!

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