萬蔵庵―“知的アスリート”を目指すも挫折多き日々―

野球、自転車の旅、山、酒、健康法などを徒然に記載

讃岐・阿波を走る! 第4話 「白峰御陵」

2008年06月08日 | 自転車の旅

<崇徳院が荼毘に付されたという稚児ヶ嶽。この奥に御陵がある。>


<長い階段が続く。>


<階段の沿道にはこの様な歌碑が並ぶ。写真は西行の「かかる世に」の歌。>


<静かな佇まいの御陵>


白峰寺までの道は九十九折(つづらおり)の登りがつづく。時々、クルマは通るが自転車で登っている奴はいない。「瀬戸内海国立公園」という看板が目に入る。そうか、ここは国立公園内だったんだ。と思っているとそれを証明するかのように、眼下に瀬戸内海と島々の景色が広がる。苦しい登りの気休めとしては、余りある景観だ。

さらに登りは続く。いい加減くたびれたところで、白峰寺への参道の分岐に出る。ここに自転車をデポして、歩いて寺まで行くことにする。寺までは1キロほどだが急な階段を登らねばならない。ここは役小角(えんのおづぬ)や空海が修行したとも伝えられる場所だけに険しい。自転車降りてすぐこの登りにとりかかったので汗がとまらない。息もあがったままだ。が、近頃立てられたものか沿道に崇徳院や西行の歌碑があり、階段登りの辛さと単調さの助けとなってくれた。

登りだしてすぐ、正面に稚児ヶ嶽と言われる崖が目に付く。この崖の奥に「崇徳院陵」はある。崇徳院が亡くなると(暗殺説もある)この崖の上で荼毘に付されたが、その煙は1ヶ月間麓の村に漂ったという。この道を歩いていると800年経った今でも森の奥の葉影にその煙の残党が漂っているような物恐ろしい趣がある。

長い階段を登り終えると崇徳院陵にやっとたどり着いた。白峰寺の隣に位置するこの御陵は大きな杉の林に囲まれていた。汗が止まらず、身体は熱いままだ。こんな状態でこの場に立っているのは崇徳院に対し、申し訳なく不謹慎な気がしたので一礼して早々に立ち去った。

仁安二年(1167年)、西行法師もここを訪れた。院没後4年のことである。この年、平清盛は武家として初めて太政大臣に任命されている。

小生、2年ほど前から「西行」という歌人に興味を持ち出し、関連書籍を数冊読んだ。彼が生きた時代や彼の歌の意味を知れば知るほど魅せられた。今回の讃岐の旅の動機付けの一番は「西行」にあった。彼がここを訪れた時の年齢は50歳。今の小生と同じ歳だ。

西行は平清盛と同年の生まれで、崇徳天皇よりは一歳上だ。1118年生まれで1190年没。72年の生涯である。鎌倉幕府成立はご存知「いい国作ろう」だから1192年。まさに、公家政権から武家政権への移り変わりを一部始終見ていたことになる。

出家する前の名は「佐藤義清(のりきよ)」といい、鳥羽院警護の北面の武士だった。北面の武士とは上皇の警護をする、近衛兵のようなものだ。若き日の平清盛も北面の武士として上皇警護にあたっていた。義清とは同僚の関係だ。もっとも清盛の方は父忠盛が武家の中では実力者であり、しかも白河法皇の御落胤というウワサもあり、出世頭であったろう。

佐藤義清は武士としての能力も優れ、流鏑馬(やぶさめ)や蹴鞠(けまり)も得意で歌人としても一流だった。いわば、運動神経抜群のスポーツマンで文学にも精通したイケメン。というのが若い頃の彼のイメージだ。

彼が武士としての将来を嘱望されていたにもかかわらず、妻子まで捨てて出家したのは23歳の時。清盛のように武士としての出世を選ばずに、法師姿で旅をし、時には庵を結び歌を作る、という人生を選んだのだ。

崇徳院とは身分こそ違え、歳も近いし、歌でつながっていたようだ。
これは想像だが、義清が出家せずに武士として生きていたら、保元の乱には崇徳院側についたと思える。そこで、討ち死にしていたかもしれない。保元の乱直後にこんな歌を詠んでいる。

  かかる世にかげも変わらずすむ月を
  見るわが身さへ恨めしきかな

世の中は大変な騒ぎになっているのに、月は相変わらず煌々と夜の闇を照らす。その月を戦死もせず、牢に入ることもなく、眺めている自分を悔いている、歌だ。

仁安二年(1167年)、白峰の崇徳院陵を訪問した折には、

 白峯と申しける所に 御墓の侍りけるに まゐりて

  よしや君昔の玉の床とても
  かからん後は何にかはせん

と詠んでいる。
この歌はわかりにくいので、白洲正子著「西行」から解説を引用する。

<玉座が永遠のものではないと知りながら、なぜ心静かに往生をとげられなかったのか、今まで口をすっぱくして申し上げたことは全部無駄であったのかと、わが身の至らなさをも顧みて、口惜し涙にかきくれたのではなかったか。>

西行は院が讃岐に流されたと聞いて、慰めるつもりで院宛に都度歌を送っていたようだ。その慰めも効かずついに亡くなってしまったことへの悔恨の歌だった。

西行はこの地を訪れた後、失意の念を持ったまま、弘法大師(空海)の生誕地「善通寺」に向かって行く。小生の旅も当然ながら、その後を追う。

             つづく
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする