みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

「信」とは?

2019-03-17 10:25:21 | 仏教
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益(りやく)にあずけしめたまうなり。(「歎異抄」の第一章より)

親鸞聖人の語り掛ける言葉に私は心酔してしまう。しかし、「往生をとぐるなりと信じ」ることは出来そうにない。「信心」を得ることが出来ない・・・これが私の大いなる苦悩だ。

ところが、この「信心」という言葉をどう解釈するかが実は大いなる問題だということを、信楽峻麿著「親鸞とその思想」(当ブログ3/4付け記事参照)によって気付かされた。

サンスクリット語の【sraddha】および【adhimukuti】そして【prasada】が、何れも漢訳において信または信心と訳されたことに、混乱の発端があるらしい。

親鸞聖人は、その著書『「教行信証」信文類』において、この信の字を字訓して、「信とは即ち是れ、真なり、実なり、誠なり、満なり」としている。

・・・その『信文類』に『涅槃経』の文を引いて、「真実と言うは即ち是れ如来なり。如来は、即ち是れ真実なり。真実は即ち是れ虚空なり。 虚空は即ち是れ真実なり。真実は即ち是れ仏性なり。仏性は即ち是れ真実なり」と明かす。

・・・求むべき究極としての如来とは、「阿弥陀は如より来生」(證文類)すといわれる如く、つねにこの現実に向かって到来しつつあるものであり、またそれは「この如来微塵世界にみちみちてまします」(親鸞聖人著「唯信鈔文意」)ともいわれる如く、つねにこの世界に遍満したもうものであった。

すなわち、親鸞における信心とは、この虚妄なる世俗のただ中にたたずみつつも、また同時に真実なる出世の世界にふれて生きつづけてゆく、私の生命の在りよう、その日々の生きざまを意味しているのである。
(信楽峻麿著「親鸞における信の性格」より)

八郷の哲人であり修行者ともいうべき筧次郎さんは、「人間のものの見方に現れる世界はすべて迷いである、と(阿弥陀仏の教えによって)気付かされることを、『他力の信心をいただく』と言う」のだ、と。

また筧さんは、「仏教では、教えの言葉をそのまま信じてはいけない」ともおっしゃる。たとえブッダその人の教えであっても、と。教えの言葉は真実を『表現』しているのではなく、真実に『導く』もの、真実を『気付かせる』ためにあるものだから、と。

「月」を指さす指を見て、その指は月そのものではない、ということは分かる。「真実」は言葉で表現することが出来ないということも、一応分かるような気がする。しかし、「分かる=分別できる」ことと、身を以て「気付かされる」こととの間には、絶望的な距離感がある。




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