みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

真木悠介著「時間の比較社会学」 その3

2012-10-21 11:09:41 | 

未明の空から、今日も星たちが神秘の光を注いでくれていました。東の空が白み始めて、消え残った明星の、なんと優しく見えたことでしょう。

本書の第1章「原始共同体の時間意識」は、次の3節で構成されています。
 1 「聖と俗」-意味としての過去
 2 共同時間性・対・共通時間性
 3 ザマニの解体-意味としての未来

レヴィ=ストロースの「野生の思考」などを引用しながら、原始諸部族の時間意識を探った章です。私には見慣れぬ用語が多くて、もっとも読みにくかった章ですが、現代社会の時間意識の根源を問うためには不可欠の言説だろうと思います。

原始人にとって意味があるのは、繰り返すもの、可逆的なもの、恒常的なものであり、一回的なもの、不可逆的なもの、移りゆくのものはその素材にすぎない。近代人にとっては逆に、くりかえすもの、可逆的なものの方が背景となる枠組みをなして、この地の上に、一回的なもの、不可逆的なものとしての人生と歴史が展開する。

近代人がなによりも大切なものと考えているこの「私」の一回かぎりの生と、日付をもった人間の歴史とは何であろうか。それらはそこ(=原始共同体)では、永遠的なもののたち現れる場としてこそ意味をもつのだ。

この私の心身に、永遠的なものがたち現れているのだ・・と試しに!思ってみますと、なんともいい心地が訪れるようです。宗教上の「信」に類似する構造の感覚かも知れませんね。

(近代人の)<抽象的に無限化する時間関心>が、事物や活動からひきはがされた自存性として客体化された「時間」の観念を前提するということ、そして、このように物象化された「時間」の存立が、共同態の<生きられる共時性>に対して、外延的にか内包的にかこれを乗り越えて異質化する社会の構造を基盤とするということだ。

上記の説は、言われてみれば当然のことのように了解できるのですが、しかし私は本書に出会うことによってはじめて意識化できたのです。

<現在する過去>(=意味としての過去)の解体こそがアフリカに未来の発見をもたらしたことを、ムビティはその危機的な様相において生々しく描いている。

デラシネ(=故郷喪失)の代償としての未来。未来関心の基盤としての、共同体解体=過去の解体。現に存在しないもの、過去にも存在しなかったもののうちにしか、人生の意味と根拠を求め得ない人びと(サルトル!)。生きることの意味を、現在のうちにも過去のうちにも見出すことの出来ない人びと。そのような人びとこそが、意味に餓えた眼を未来に向ける。<意味としての過去>に代わる<意味としての未来>。

近代文明人には切ない言説ですが、著者の言葉の連打に何かしら胸が沸いてきてしまいます。サルトルもろくに読んだことのない私が、実存哲学の由来さえ分かったような錯覚さえ起こしてしまいます。論理だけではない、著者の感情の表出ゆえでしょうか。

~「野生の思考」の著者(レヴィ=ストロース)が示していることの意味は、不可逆性としての時間の意識の獲得が、反自然としてのひとつの文明の離陸の指標であるということだ。そして「離陸」ということが、すなわち大地からの乖離のイメージが、ア・プリオリに一つの肯定として語られていることが、我々の文明の基礎をなす固定観念である。

なるほど、なるほど、・・・あまりにも脆すぎる近代文明の位置が、明確に意識付けられたように思います。しかし、しかし、どこか断定的過ぎるような、著者の圧倒的な言葉に、却って不信感も蠢いてきます。 

 
 


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2 コメント

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記事に触発されて、久しぶりに、「時間の比較社会... (守拙)
2012-10-21 21:14:42
記事に触発されて、久しぶりに、「時間の比較社会学」の第1章「原始共同体の時間意識」を読み返しました。
毒にも薬にもならない言い方になりますが、この章で原始共同体や未開社会に関し述べられていることは、それなりに興味深いが、一つの解釈による一つのモデルに過ぎないと考えています。一時期思想界で一世を風靡したレヴィ=ストロースの学説が一つの解釈による一つのモデルに過ぎないのと同様に。時間意識についての比較社会学的考察というテーマに絞っても、当然、別のモデルもあるだろう、と。
また、モデルである以上、一定の抽象化、すなわち単純化が要求されるわけで、明快で見透しのよいモデルほど、その代償として、現実の複雑性から生じる様々な情報を捨象(犠牲)せざるをえないということもわかります。もちろんこのことは、現実の認識・理解について競合する複数のモデルが併存する場合、それらの間で、理論的な精緻さや実証データとの整合性で説得力に優劣の差が出ないということではないでしょう。しかし、こと社会科学に関する限り、自然科学のように一つのモデルに収斂することは期待できないし、ましてや、一市民・一読書人の感想に過ぎませんが、経済学等と比較しても、様々な学者がそれぞれの立場から言いたい放題の感のある社会学や文化人類学の分野については。
総じて、この本の第1章「原始共同体の時間意識」の記述については、そういう考えもあるんだろうな、という程度に受けとめました。私自身、自分の生の問題に引き寄せて「深読み」した章ではないし、真木説の〈もっともらしさ〉については、基本的には、専門家達の議論に任せればよい、と。
ただ、私は、真木悠介(見田宗介)の著作は、古くから比較的よく親しんでいる方かもしれませんので、ファン心理(?)も含めてあえて言うと、この著者の著作の魅力は、学者としての知的好奇心という域を超えて、一貫して、現代人の生にとって切実な(と著者が考える)問題-〈実存的問題〉と言ってもよい-について、独自の観点から、総合的・体系的に論じ尽くす姿勢にあります。問題意識の本質性に共鳴するとともに、論点の抽出と整理の鮮やかさと、分析の鋭利さ、展開する論旨の明快さにはいつも感心します。しかし、論旨の明快さ(この言葉、初めての投稿以来頻出しますねー笑)ゆえに、detailの陰影に欠く、あるいは、出発点における議論の設定と方向が誤っている、牽強付会にすぎる、あるいは、そもそも原点にある著者の問題意識がピンとこない、と感じる読者も少なくないのでしょう。
断定的な口調が多いのはそのとおりですが、まあ、私などは、思想家的資質の強い社会科学者と言うのはえてしてそういうものだ、と思っています。自分が確信しているモデルに依拠して論じるので、何が言いたいのか、少なくとも主張の骨子はわかりやすいけれど、どうしてもモノトーンと言うか単純な響きになってしまうんですよね。
私が、第1章で、初読時(もう30年近く前)に虚をつかれた感を持ったのは、例えば次の様な記述です。著者は言います。

 「…『どう考えても二年以上先のことに関心を抱くことのない』 カムバ族の時空を自分の時空として育ったムビティは、キリスト教的な近代ヨーロッパに生きて、十年後の生活設計や、二十年後の社会のヴィジョンや人間の死後の運命や歴史の終末といった奇妙な問題のシャワーにさらされて当惑したにちがいない。」
 「…カムバ族(あるいはその他の多くの原始共同体)がもしその文化の中心において、異族としての近代文明を記述するならば、かれらは本来非現実なもの、つまりはるかな子孫のこと とか百年もあとの歴史の問題を客体化された『時間』の延長線上に幻視して思いわずらう奇妙に神秘主義的な文明、無限に続く『時間』の実在性というフェティシズムにとりつかれた集団として語るだろう。」

この程度の指摘に虚をつかれたのは若くてナイーヴだったからと言うほかはありませんが。





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守拙様 (korei)
2012-10-23 08:23:17
守拙様
 社会学者の著作を読むときの「心構え」について、行き届いた御教示をいただき、有難うございます。本書の著者は、並みの学者ではない、という第1印象があり、少々緊張感をもって読んできましたが、御教示を受けて、もっと気楽に!? 余裕をもって読めるようになりたいと思った次第です。
 読むのにしんどかった本章ですが、読み終わってみれば、その結論は、簡単明瞭とも言えますし、著者に対しては、なにもこんな小難しい用語の羅列で読者を脅かさなくとも、もっと平易に語ることが出来るだろうに・・という愚痴も言いたくなります。ただ、結論に至るまでの著者なりの論証の過程で、心を動かされる場面が幾つかあったのも事実です。
 毎年この季節になるとやってくるジョウビタキが、昨日から当庵のまわりを飛んだり止まったりしながら フィッツ フィッツ カタカタ という独特の鳴き声を聞かせてくれています。当地で暮らすようになってから、自然の風景も、菜園や田んぼ関係の作業も、そして人々との交流も、「繰り返すもの、可逆的なもの、恒常的なもの」が多いことを、日頃から感じていたこともあり、著者が説くところの「原始共同体の時間意識」は、十分興味深く思います。
 
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