瓜生津隆真(1932~2015 浄土真宗の学僧)著「龍樹(ナーガルジュナ)~空の論理と菩薩の道」(2016年10月第1刷 大法輪閣発行)を、水戸市立図書館から石岡市立中央公民館図書室に(県立図書館経由で)取り寄せてもらって読んだ。
空(くう)とは摩訶不思議な印象が強いけれど、実は極めて科学的・合理的な概念だ、というのが、取り敢えずの読後感です。以下、抜粋引用する。
ナーガルジュナ(150~250頃)は大乗仏教の大成者であり、インド仏教においては釈尊につぐ最大の論師として尊敬されている。
ナーガルジュナは原名であり、中国・日本では龍樹といわれる。
浄土真宗の開祖親鸞(1173~1262)は、浄土真宗成立までの思想的系譜として、インド・中国・日本の三国にまたがって七人の高僧たちをあげ、そのはじめに龍樹菩薩をおいている。
南天竺に比丘あらん 龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと 世尊はかねてときたまふ
本師龍樹菩薩は 大乗無上の法をとき
歓喜地を証してぞ ひとへに念仏すすめける
龍樹大士世にいでて 難行易行のみちをしへ
流転輪廻のわれらをば 弘誓のふねにのせたまふ
生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける (親鸞聖人の『高僧和讃』より)
存在の如実相とは縁起ということであり、縁起は存在がそれ自体として生じていないことを意味しているので、この意味において、空であり、空であることにおいてすべて平等である。
ナーガルジュナが縁起をどのように説いたか、それを一口でいうと、縁起とは(1)空であり、(2)相依性(そういせい)である、ということであろう。空とは、ものはすべてそれ自体として存在するのではないこと、すなわち実体(あるいは本体)はないという否定を示している。相依性とは、ものはすべて相依相関の関係にあること、すなわち相互依存の関係性を示している。
したがって、縁起が空であるというのは、自己をはじめこの世界はすべて原因や条件によって生じ、また滅するのであって、それ自体として生ずるのでなく、また滅するのでないことを示している。また、相依相関、相互依存の関係性とは、ものはすべて相互関係や因果関係などの関係性の上に成り立っているのであって、原因や条件などが即自的に(それ自体として)成立し、存在しているのでないことを示しているのである。
このようにものやものごとは、互いに因となり縁となって成立しているのであって、深いつながりのなかに存在し、成り立っている。
事物そのものに先立って事物と事物のあいだの関係が存在し、その関係がこれら事物を決定する役割を果す。・・・
いかなる事物も、いかなる対象も、一瞬たりとも即自的には与えられていない。
(断章番号三二九五) 【ソシュール(1857~1913 スイスの言語哲学者)の手稿】
これはナーガルジュナがすでに考えていたことであって、ただその思想の意義が後に伝わらなかっただけである。
『中論』(ナーガルジュナの主著)第十八章は「我(アートマン)の考察」である。
「我」とは、アートマンの訳で、自我、自己の本質、本性、個我、自己などを意味する。
自我観念の所依であるアートマンは、実体として存在するのではなく、縁起としてあるのであって、そのものにアートマンという世間慣行のことばが用いられているにすぎないのである。
日常的なレヴェルでは、自己は心身を持った存在である、と見ている。さらに「自己の身」とか「自己の心」とかいって、心身はわれ(我)に属するものであると見ている。これを「我所(がしょ)」と呼び、我と我所へのとらわれが煩悩のもとであり、その煩悩が様々な苦を引き起こすのである。この自己及び自己のもの、すなわち我・我所への執着を断ち切る道を説き示し、その道を歩むことを勧めるのが無我の教えであって、この無我こそ仏道の真髄である。
このように無我の教えは我・我所への執着を否定しているが、日常的に用いている「われ」とか「わがもの」とかということを否定するものではない。そこに現実的にも論理的にも矛盾はないからである。
『華厳経』「十地品(じゅうじぼん)」(『十地経』)に「三界虚妄但是一心作」ということばがある。「三界は虚妄にして 但だ是れ一心の作なり」と読むが、古来「唯心偈」と呼ばれている有名な句である。
唯心偈にある「一心」とは、われわれの日常の平凡な心のことであって、この心が「われ」と思う自己へのとらわれ、すなわち我執であり、「我意識」なのである。そうしてわれわれの現実の世のなかはまさしくこの我意識、自己へのとらわれが生み出している世界にほかならない。端的にいうと、「われが」の世界であり、「わがもの」の世界である。
「三界」とは欲界・色界(しきかい)・無色界(むしきかい)という迷いの世界のことであるが、単純にこの現実の世界のことをいっていると考えてよい。したがって現実の世界は「われが、われが」と自己にとらわれる執着がもととなっている偽りの世界で、真の世界ではない。無常の世界であり、煩悩のさかまく世界であり、苦に満ちた世界であるということである。そうして、この現実の世界の虚妄性は、真実の智慧によって破られ、そこに真実の世界が現出するというのである。
『中論』の思想は、一口でいうと、空の思想であり、それは「一切が空である」ことを明らかにするものである。
空(あるいは空性)とは、自性(実体、本体)が存在しないこと、すなわち無自性を指している。無自性とは実体の否定であるから、「すべては空である」というのは、すべてのものが無自性であって、実体あるいは本体をもって存在するものは一つもないことを意味している。
戯論は分別のことばである。したがって、このことばにもとづいてわれわれの分別が限りなく展開していくのであって、そのときその分別の対象が実体化される。単に思惟の対象にすぎないものが、実在と見なされるのである。そこに思惟と存在との関係における混同が見られるのである。
大乗仏教は、すべての人々に開かれた智慧と慈悲の道を説く教えであった。
智慧は不二を知る知であるのに対して、慈悲は自他不二を体感する心、すなわち共感の心であるともいえる。一切衆生を平等にいつくしみ、あわれむ心であって、自己にとらわれていてはこの心は生まれてこない。また人間生活に欠くことのできない大切な心であって、特に苦難や悩みの多い人生にあっては、暖かいこの共感の心がどんなに勇気と力強さ、さらに明るさを与えてくれることか、はかり知れないものがある。
慈悲が真理を見る智慧と離れて別にあるのでないということは、自己および世界の真相を究め尽くすことと別に慈悲があるのではないことにほかならない。また智慧は慈悲と離れたものでなく、智慧は慈悲となってはたらくことがなければ、現実に生きる真の力とならない。
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