みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

自己とは?

2018-07-30 09:51:56 | 仏教
異様な猛暑のためもあってか、日頃親しくしている友人が脳梗塞で倒れたり、同世代の身近な人が脳内出血で急逝したり。御家族の心痛は如何ばかりか・・・

心身ともに弱い私が、未だに倒れずにどうにか生きている方が不思議なくらいだ。明日死んでも今日死んでもおかしくはない私なのに、(自分の)死は怖い、自己が無になってしまうなんて受け入れられない、なんて駄々を捏ねている。

この厄介な「自己」に、どう始末をつけたらいいのか?

本多弘之(1938~ 親鸞仏教センター所長)氏の記事に目が止まったので、覚書として引用しておく。

       

他力門とは、自己がいわば自己の外側の力や外側からのはたらきの中にあることを受け止めて、自己自身はその他力との関わりを生きるものであると認める立場であろう。

他力の信念とは、この自覚を呼び起こす力をも、自己の内に認めるのでなく、自己の外、すなわち自己にとって自己の内側とは認められないはたらき(仏教はこれを法性とか真如という)に見いだす立場である。このことは、自我意識を自己とする迷妄の中からは、容易には(というより絶対に)気付けない事柄なのである。

清沢満之の言葉に、「無限他力、いずれのところにかある。自分の稟受(ひんじゅ)においてこれを見る」というのがある。

いわゆる自己は、自我と同じことであると、一般の文脈では受け止められてしまう。しかし清沢のいう「自分の稟受」と言う場合の自己は、明らかに他力の信念内容としての「自己自身の受け止め」であって、決して誤解されがちな「自我」と同質の自己ではない。いわば「究明された自己」とでもいうべき無明の晴れた自己である。

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