昔のこと

2021-02-02 21:05:14 | Weblog

初期ランブルフィッシュがメンバーチェンジをした頃のことを思い出していた。

 

その事の真相は今ではもう、僕しか知らないし、

特に誰も興味を持たないことであろう・・・と思う。

だから忘れてしまう前に自分のために、ここに書き残すことにする。

 

 

 

 

高校の時結成したバンド「ネクスカ」。

ベースは岩佐で、ドラムはモ吉だった。

ヴォーカルは佐治、ギターは庄司と俺(片山道郎)、サックスは西浦三太。

高校を出て・・・・一年浪人したのは誰と誰だったかな?もう思い出せないのだけれど、

僕は大阪のデザイン専門学校に進んだ。実家は広島県だったので、学校の寮に入った。

寮の場所は天神橋筋6丁目というエライところだった。それはまあ、いいとして。

 

「ネクスカ」は高校卒業と同時に「ランブルフィッシュ」と名前を変えた。

 

モ吉と岩佐は大学生になってから、「テキ屋」のバイトにはまっていた。

各地のお祭りなどに行って、様々な出店をやるような商売。

そのバイトのせいで、バンドの練習が出来ない・・・というようなことが何度かあった。

それだけでも佐治はイライラしてたのに、バンドにとって、佐治にとって、重要な存在である岩佐が

ある時「俺は家の仕事を継ぐ」と宣言した。

時は、1986年、そして1987年である。

1986年の夏、佐治と僕は長野県の清里に「合宿免許」の旅に出て、そこで

関東の「横須賀サーベルタイガー」のメンバーと一緒になって、

全身全霊でバンド活動をやっている彼らにすごく刺激を受けて帰ってきた。

そして僕は専門学校をやめ、アメ村の古着屋での、フルタイムのバイト生活に入った。

そして寮を出て、大阪に部屋を借りた。まったく日の当たらない、角部屋のワンルームマンションだった。

 

佐治も奈良の実家を出て、大阪に部屋を借りた。我々の部屋は偶然(もしくは必然か)、

お互い歩いて15分しか離れていなかった。大雑把に言えば、天王寺~田辺近辺である。

でも僕の部屋には電話がなかった(もちろんケータイなんてない)ので、お互い連絡を取るのはなかなか難しかった。

さて、佐治も大学に入ってしばらくして、その大学ですごい強力なドラマーを見つけた。のちのMAUである。

モ吉のドラムが、だんだん気に入らなくなっていたのだ佐治は。

それはモ吉と岩佐が、ブルーズとかブラックミュージックにはまり込んでいたからで、

もちろん、我々の共通のルーツはブラックミュージックだし そのこと自体は素晴らしいことなのだが、

古いブルーズに熱中したモ吉の叩き出すドラムの音は、

どんどん「渋く」なっていっていたのだ。タイミングはタメるし、音量は控えめ。

それだってしかしもちろん、全然悪いことではない。好みの問題だ。単に佐治はもっとハードにやりたかったのだ。

そして何より佐治は、岩佐が「家を継ぐ」と宣言したことに幻滅し、腹を立ててさえいたのだと思う。

それに加え、モ吉と岩佐が嬉々として行くテキ屋のバイトの件。佐治はテキ屋を憎んでさえ、いた。

 

そして、1987年の・・・夏頃だったかな。

僕は近所のコインランドリーで洗濯が終わるのを待っていた。

すると佐治が現れて、「やっぱりここやったか」と言った。ちょっと興奮気味だった。

 

「いま、二人に電話してきたとこやねん。岩佐とモ吉に」

 

「クビやって言うた」

 

「ええええええええ」と僕は驚いた。

有り得ない・・・・・・と思ったのだが、佐治がそう決断したのなら・・・・・。

 

 

そしてドラムにMAUを入れ、ベースには高校の後輩で、テクニシャンのベーシスト、芳村を入れた。

彼らの加入はランブルの音楽を、想像もしていなかったレベルまで持ち上げてくれる要素になった。

 

だがその翌年、1988年6月

 

佐治が憎んでいたあの「テキ屋」のバイトに出かけていた岩佐とモ吉はバイトの移動中に

高速道路での玉突き事故に巻き込まれ、二人とも後続のトラックにはね飛ばされ、

岩佐は即死した。奇跡的にモ吉は、かすり傷だった。

 

テキ屋の大将も結局その事故で亡くなったそうだ。

 

 

そのことで佐治は、決定的な罪悪感を背負い込んだ。

もちろん、そんなことは俺にも、他の誰にも一言も言わなかったが・・・見ていればわかる。

 

バンドから「切ったり」せず、強引にでもあのバイトを辞めさせていれば岩佐は死なずに済んだ

 

と佐治は思っていたはずだ。

 

 

のちに「遺品」として岩佐たちの乗っていたトラックに残っていた品がご家族のもとに届いた。

カセットデッキに入っていたのは、佐治が編集してセレクトしたロックのテープだった。

 

 

 

罪悪感という点ではモ吉も同じくだった。

 

その直前、「岩佐は非常電話してくれ」と言ったのだという、モ吉は。

「おお!」と言って岩佐はそちらに向かおうとした、その瞬間に後続のトラックが突っ込んで来た。

・・・すべてはタイミングだったのであろうと思う。モ吉と岩佐の位置が違ったら、どうなっていたかわからない。

でもモ吉が罪悪感を背負うことはないのだ。

でも背負ってしまった彼の気持ちは、わかる。悲しい程、わかる。

 

 

 

 

 

 

 

この話は僕以外の誰も知らない。

 

 

 

 

 

 

岩佐はそんな風に、1988年に逝ってしまったし、

 

佐治は2007年に癌で逝ってしまった。

 

モ吉は2020年、心臓発作で逝ってしまった。

 

 

 

いろんなことが過ぎ去ってゆく。

 

記憶も、いつかあやふやになる。

 

 

だから「定点」としてここに、このことを書いておく。

 

 

 

 

 

 

モ吉が逝ってしまってから今月末で、一年になる。


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