言葉の魔力を実感した、という話の続きね。
そうえば、というかローザはデビュー当時、外国・・・・確かヨーロッパ13か国ツアーに
出掛けているのだ(やしきたかじんのTV番組でもそのことを語っている)。
後から思えばそれはきっと、MIDIの大蔵さんが連れて行ったのだと思う。
きっとまちがいない。
大蔵さんはすごく海外志向、というか
日本のバンドを海外に紹介することにすごくすごく積極的だった。
我々 ばるぼら を海外に何度も連れて行ってくれたのも他でもない、その大蔵さんだ。
我々(ばるぼら)の海外遠征は1998年に集中してるのだが、
まず3月、アメリカはテキサスのオースティンでの「サウス バイ サウス ウエスト」出演。
これは「SXSW」と略される、全米最大の音楽コンベイションイヴェントである。「ルーザー」のベックもその前年、ここから出て来た。
「SXSW」はその後もずっと続いているのだが残念ながら2020年はコロナ禍で中止になった。2021年も無理かも。
1998年の ばるぼら は、ライヴは大ウケしたのだがレコード会社からのオファーは来なかった。
そして5月~6月にかけて、
中国の上海と北京へ。北京では現地のライヴハウスに出演した。
そして11月。再びアメリカ、今度はニューヨークの「CMJ」というイヴェントに参加した。
SXSWに次ぐ、全米二番目のコンベイションである。
この時のゲストはビースティーボーイズだった。
我々は「CMJ」の参加バンドとしてあの、NYパンクゆかりのライブハウス「CBGB」と、あともう一軒、出演したのだ。
この時は全然受けなかった。ははは。
でも、すごくすごく刺激的で有意義で、一生心に残る体験だった。
で、後で思ったのだが
大蔵さんが、海外進出に積極的だったのはもしかして、
あの「YMO」での大成功体験があったから・・・・・なのではなかっただろうか。
大蔵さんが「YMOオフィス」の社長でもあったことを恥ずかしながら、僕は知らなかった。
大蔵さんの訃報を伝える様々なニュースを通して知ったのだ。
業界では当然の事実、というか そんなこと誰でも知っていただろうに。
「YMO」はもちろん、海外公演で大成功を収めて、そこから全世界で有名なグループになった。
日本でも、逆輸入的な人気だった気がする。
でも、やっぱ「言葉」なのだ。
YMOは、細野さんは多分、意識的に・・・・・言葉のないイントゥルメンタルの音楽で
「世界」に勝負をかけたのだ。そして、勝った。
我々のような「歌」を中心に楽曲づくりを考えている歌ものバンドはどうしても、
「言葉」にかける比重が、とても高い。
我々の場合当然、その言葉は日本語である。
ローザもそうだった。
だからYMOみたいに海外で大成功・・・みたいなことにはならなかったし、
今後もなかなか、それは難しいかもしれないよな、
と思ったりもするのだ。
でも大蔵さんにとってはそんなこと、百も承知だっただろうし、
それでもあの人は我々のような日本のバンドを「世界」に向けて発信してくれたのだ。
大蔵さんには本当に感謝している。
今になって思い出してみれば、一番初めにMIDIの人と出会ったのは
ランブルフィッシュの時で、
当時マッドギャングを解散したばかりの碇健太郎バンドと対バンした時だった。
碇さんが紹介してくれたのだ、MIDIの人を。
碇さんにも、心から感謝している。
そのMIDIのS村さんは その後の ばるぼら を気に入ってくれて
社長の大蔵さんに紹介してくれた。
そして結局MIDI CREATIVEで ばるぼら は、3枚のアルバムを録音、発表した。
もう20年以上前の話だ。
今はもう、タワレコとかでも売ってないし、手に入れるのは難しいかもしれないけど
僕にとっては ばるぼら で残したCDは今でも「誇り」なのです。
思う存分、音楽的実験がやれたし、「いいもの」が録れたと思ってるし、何より・・・本当に楽しかった。
しかもそのレコード会社があのローザルクセンブルグと同じ
MIDIなのだ。
すごい。