その2

2021-02-07 14:52:24 | Weblog

言葉の魔力を実感した、という話の続きね。

 

そうえば、というかローザはデビュー当時、外国・・・・確かヨーロッパ13か国ツアーに

出掛けているのだ(やしきたかじんのTV番組でもそのことを語っている)。

後から思えばそれはきっと、MIDIの大蔵さんが連れて行ったのだと思う。

きっとまちがいない。

大蔵さんはすごく海外志向、というか

日本のバンドを海外に紹介することにすごくすごく積極的だった。

我々 ばるぼら を海外に何度も連れて行ってくれたのも他でもない、その大蔵さんだ。

 

我々(ばるぼら)の海外遠征は1998年に集中してるのだが、

 

まず3月、アメリカはテキサスのオースティンでの「サウス バイ サウス ウエスト」出演。

これは「SXSW」と略される、全米最大の音楽コンベイションイヴェントである。「ルーザー」のベックもその前年、ここから出て来た。

「SXSW」はその後もずっと続いているのだが残念ながら2020年はコロナ禍で中止になった。2021年も無理かも。

1998年の ばるぼら は、ライヴは大ウケしたのだがレコード会社からのオファーは来なかった。

 

そして5月~6月にかけて、

中国の上海と北京へ。北京では現地のライヴハウスに出演した。

 

そして11月。再びアメリカ、今度はニューヨークの「CMJ」というイヴェントに参加した。

SXSWに次ぐ、全米二番目のコンベイションである。

この時のゲストはビースティーボーイズだった。

我々は「CMJ」の参加バンドとしてあの、NYパンクゆかりのライブハウス「CBGB」と、あともう一軒、出演したのだ。

この時は全然受けなかった。ははは。

 

でも、すごくすごく刺激的で有意義で、一生心に残る体験だった。

 

で、後で思ったのだが

大蔵さんが、海外進出に積極的だったのはもしかして、

あの「YMO」での大成功体験があったから・・・・・なのではなかっただろうか。

 

大蔵さんが「YMOオフィス」の社長でもあったことを恥ずかしながら、僕は知らなかった。

大蔵さんの訃報を伝える様々なニュースを通して知ったのだ。

業界では当然の事実、というか そんなこと誰でも知っていただろうに。

 

「YMO」はもちろん、海外公演で大成功を収めて、そこから全世界で有名なグループになった。

日本でも、逆輸入的な人気だった気がする。

 

でも、やっぱ「言葉」なのだ。

 

YMOは、細野さんは多分、意識的に・・・・・言葉のないイントゥルメンタルの音楽で

「世界」に勝負をかけたのだ。そして、勝った。

 

我々のような「歌」を中心に楽曲づくりを考えている歌ものバンドはどうしても、

「言葉」にかける比重が、とても高い。

我々の場合当然、その言葉は日本語である。

 

ローザもそうだった。

 

だからYMOみたいに海外で大成功・・・みたいなことにはならなかったし、

今後もなかなか、それは難しいかもしれないよな、

と思ったりもするのだ。

 

でも大蔵さんにとってはそんなこと、百も承知だっただろうし、

それでもあの人は我々のような日本のバンドを「世界」に向けて発信してくれたのだ。

 

 

大蔵さんには本当に感謝している。

 

今になって思い出してみれば、一番初めにMIDIの人と出会ったのは

ランブルフィッシュの時で、

当時マッドギャングを解散したばかりの碇健太郎バンドと対バンした時だった。

碇さんが紹介してくれたのだ、MIDIの人を。

 

碇さんにも、心から感謝している。

 

そのMIDIのS村さんは その後の ばるぼら を気に入ってくれて

社長の大蔵さんに紹介してくれた。

そして結局MIDI CREATIVEで ばるぼら は、3枚のアルバムを録音、発表した。

もう20年以上前の話だ。

今はもう、タワレコとかでも売ってないし、手に入れるのは難しいかもしれないけど

僕にとっては ばるぼら で残したCDは今でも「誇り」なのです。

思う存分、音楽的実験がやれたし、「いいもの」が録れたと思ってるし、何より・・・本当に楽しかった。

 

しかもそのレコード会社があのローザルクセンブルグと同じ

MIDIなのだ。

 

 

すごい。

 

 

 


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ローザルクセンブルグと私

2021-02-07 13:41:11 | Weblog

ローザルクセンブルグのことを僕が初めて知ったのはいつのことだったろうか。

85年に出たオムニバスアルバム「都に雨の降るごとく」かもしれない。

その中に収録されている「おしり」という曲は衝撃的だった。今聞いてもすごい。

その次は・・・当時、ずっと買っていた雑誌「宝島」に載っていた広告ページをかすかに覚えている。

1STアルバム「ぷりぷり」のものだったはず。今思えば、MIDIの広告だ。

ものすごいメイクと衣装で、それで「イロモノ」と判断してしまって、まともに読まなかったと思う。

(後日、「ぷりぷり」の音源を手に入れて聞いた。音楽は奇妙だが充分かっこいいものだった。)

その次は・・・埼玉に住んでいる高校時代からの盟友・西妻が突然送ってきたカセットテープ。

1987年の事だったのだろうと思う。ローザの2NDアルバム「ローザルクセンブルグⅡ」だった。

めちゃくちゃかっこよくて、どハマリした。

でもうかつにも、それが京都のあの「おしり」のバンドと同一だとは認識できなかった。

その時期・・・・行っていた大阪のデザイン専門学校で親しくなった友達の中に、

ちょっと年上の「じゅんちゃん」という綺麗な女の人がいた。彼女はライヴハウス大好きで、

既に何度も、ローザのライヴに通っていたのだ。「ローザ、すごいから今度、絶対一緒にライヴ行こうよ」と

誘ってもらっていたのに、京都にいまいち馴染みがなくて躊躇してしまった。

当時の僕は人生で一番お金のない時期だったし(悲しいくらい金がなかった)。でも行っておくべきだった。

今となっては在り得ない、貴重な、ローザのライヴ。

そうこうしているうちに、ローザ解散のニュースを何かで読んだ。すごく残念だった。

でもそれとほぼ同時に、どんとサン と 永井さん が二人で別メンバーで新バンドを立ち上げた、という

ニュースも伝わった。すごくすごくそれに期待していた。

だから、ボ・ガンボスのかなり初期のライヴを、僕は見に行っている。

たぶん・・1988年春ごろだと思うのだけれど、大阪・ミューズホールでのライヴ。

お客さんはローザの頃からのファンみたいな女の子(女の人?)ばかりで、「あなた初めてね?」みたいなことを

何人かから言われた。ミューズホール満杯・・・ではなかった。けっこう客は少なかった。

ライヴは、すごく良かった記憶がある。「ローザ Ⅱ」からの楽曲を、けっこういっぱい演っていた。

 

その3年後ってことになるのだが、僕は

1991年に、青森県六ケ所村で行われた「いのちの祭り」野外ライヴに出演した。

僕はもちろん、ランブルフィッシュのギターである。その時の出演バンドの中に

ボ・ガンボスもいた。山口富士夫もいた。南正人もいた。

ボ・ガンボスとランブルは出演順も近かったので、楽屋(というかステージ裏の原っぱ)で一緒になった。

僕は、あえて話しかけずに、静かに挨拶だけした・・・と思う。「どーもー」みたいに。

間近で どんとサン や 永井さん見れて、嬉しかった。でもこの後もきっと、こういう機会は何度もあるはず、

と確信していたのだ、その時の僕は楽観的に。

でもその後に、そんな機会は訪れなかった。永井さんとはその後にご一緒できたのだけれど、

どんとサンとお会いできたのはその一回だけだった。

1992年にランブルフィッシュは解散して

1994年、僕はボケロウ、キヨシ、マーボーと4人で ばるぼら を結成した。

いろいろとご縁があって、東京のMIDIというレコード会社とつながった

(我々はMIDIの中の、MIDI CREATIVEというインディー部門だったのだが。)

後で気付くのだがMIDIは、ローザルクセンブルグが契約していたレコード会社だった。

それだけでなく・・・MIDIの人たちはローザにいろいろと関わった人たちだった。

社長の大蔵さんを筆頭に。

 

ばるぼら のレコーディングには、ローザのドラムだった三原さんが何度も顔を出してくれて、

サウンドのアドヴァイスをくれた。一緒にお酒も飲んだ。

ばるぼら の下北沢シェルターでのライヴには一度、ギターの玉城さんも来てくれて、

打ち上げで飲みながらお話しすることが出来た。

1997年には日比谷野音でMIDIのイヴェントに出演させてもらって、

永井さんが当時やっていた「ドクターTOSH&LOVE J」と共演することが出来た。

永井さんはその後のイヴェントに我々 ばるぼら」を誘ってくれさえ、した。実現はしなかったのだけれど。

 

どんとサンは2000年にハワイで突然、亡くなった。

青天の霹靂だった。現実感が、あまりなかった。今でもそうかもしれない。

どういう状況だったのか・・・・・もちろん我々部外者には全然わからないのだけれど、

 

彼の歌詞は、そんなことさえ予見していたようにしか思えないものが多い。

 

「骨だけになって、でもでも いつも好き」とか

 

「雲の上から歌うのがちょちんちょちん」とか。その他いろいろ、いくらでもある。

 

 

 

ドラムの三原さんとは、その時の ばるぼら のレコーディングのご縁だけで、

その後お会いする機会もなかったのだがある日ツイッターで発見して

恐る恐るメッセージを送ったら幸いにも覚えてくれていて、

それからは彼のツイッターを毎回見ている。

 

何日か前のその三原さんのツイッターに、ローザがやしきたかじんのTVに出演した時の動画がアップされていて、

ライヴの映像もたっぷりある。

思わずガン見してしまった。すごい。1987年ごろだろうか。神戸の、移転前のチキンジョージである。

ランブルでもここ出たよ。二回くらい出た。音も良く、最高に雰囲気のあるライヴハウス。

キャバレーの上の通用口を通ってステージに向かうのだ。楽屋はキャバレーのお姉さんたちの横。

そのTV映像のライヴの中で「ちょちん」というテロップが流れた曲があった。

のちの「ローザⅡ」に収録される「あらはちょちんちょちん」の原型だと思う。

アレンジもまだ粗削りで何より、歌詞が全然完成してなくて、すごくすごく興味深かった。

この曲、ローザのレパートリーの中でも大好きな一曲なのだが、言葉が練られていない状態だと、

輝きが半減するのだ。あの完成品の「あらはちょちんちょちん」がいかに時間をかけて練られた言葉とイメージの

結晶であるか、ということを完成前の曲を聴いて実感した。

言い換えれば言葉の魅力・言葉の魔力である。

 

それで思ったのだが、言葉って・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

長くなるから「その2」へ行こうかな。

 

 

コメント (5)
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