まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第5回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第91番「真光寺」(今回は北九州シリーズ・・と大相撲九州場所)

2022年12月15日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

2022年5月に始めた九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。先に始めた九州西国霊場めぐりが終わらないうちにこちらの札所めぐりも加わり、ここまで4回の巡拝で福岡県内を回って今回は北九州シリーズである。

北九州市内には、第17番・阿弥陀院(八幡東区)、第18番・徳泉寺(戸畑区)、第91番・真光寺(小倉南区)、第92番・不動院(門司区)と4つの札所がある。当初からの番号順の札所と、後に追加された90番台が同居している。今回はこれらを一度に回るのだが、それぞれ駅からの徒歩または路線バスで行くことができることもあり、どの順番にするかはいろいろシミュレーションした。クルマを使えばこうした悩みもなくあっさりと回れるのだが、鉄道、バスでアクセスできるところは最大限利用したいところである。

行くのは11月だが、11月の九州といえば大相撲九州場所が開催される。大相撲の本場所のうち、これまで福岡で観戦したことがなく、九州に行くのならせっかくなので相撲も組み合わせたい。ということで、まずは発売開始に合わせて九州場所のチケットを確保した。スケジュールとして14日目(11月26日)、千秋楽(11月27日)のいずれかだが、せっかくなら千秋楽を観ようということで11月27日のチケットを押さえた。九州場所は東京、大阪、名古屋と比べてチケットの売れ行きは芳しくないと言われているが、さすがに千秋楽は当日までに満席となった。

こうして、26日には北九州シリーズで九州八十八ヶ所百八霊場、そして27日は福岡での相撲観戦というセットになった。そして、福岡での相撲観戦の前に、九州西国霊場の第32番・龍宮寺の参詣も付け加えることにした。巴戦にまでもつれた末、阿炎の初優勝で終わった大相撲千秋楽観戦記は後々書くことにする。

ただ、26日の宿泊地はいろいろ迷ったし、難航した。全国旅行支援もあって北九州市内、あるいは福岡市内のホテルも軒並み満室、または便乗値上げもあり確保が難しかった。26日の巡拝が終われば広島に帰宅し、そして翌27日の朝に再び福岡に向けて出発したほうが安上がりかと思ったこともある(重い荷物を持って行かなくてもいいし・・)。ただ直前に小倉駅前の東横インに空きが出たのでこちらを押さえ、九州での1泊ということで落ち着いた。同じ北九州でも黒崎や八幡に泊まるとまた違った姿を見ることができたのだろうが。

26日、広島6時43分発の「さくら401号」に乗車する。まずは小倉に向かうが、この日で4ヶ所を回るので、いつもの「こだま781号」より早めに小倉に着く便にした。

7時40分、小倉に到着。まずはコインロッカーに荷物を預ける。ここからまず戸畑に向かうか、門司に行くか、日豊線に乗るか。

選んだのは、8時04分発の日豊線行橋行き。最初に下曽根まで行き、第91番の真光寺に向かうことにした。その後のバス移動を考えて、まずは路線バスの行き止まり線にあるところを押さえることにする。

下曽根は小倉近郊の駅で、南口側には商業施設も集まっている。弥生が丘営業所行きの西鉄バスに乗車する。真光寺の最寄り停留所は貫弥生が丘3丁目である。

バスは田園風景と住宅街が広がる一帯に入る。奥にそびえるのは貫山だろうか。弥生が丘はその手前に広がる住宅街で、平成になって西鉄が開発したエリアという。この弥生が丘も含めて、小倉南区は近年になって宅地開発も進み、北九州市の中でも人口が増えているえそうだ。

下曽根から20分あまりで貫弥生が丘3丁目に到着。バスはここでロータリーを使って折り返し、弥生が丘営業所に向かう。すぐ近くに東九州自動車道の高架橋が通っているが、ゆったりした一戸建ての住宅街、公園が広がる。ただ、ゆったりした住宅は広がるものの、周りにはスーパーやコンビニは見えず、買い物はしんどいだろうなと思われる。余計なお世話だろうが。

東九州自動車道の高架橋の下に階段、歩道がある。地図でこの道を見つけたから貫弥生が丘3丁目から真光寺に行こうと判断したことで、気づかなければ手前のバス停で下車してそれなりの距離を歩くところだった。

そしてやって来た真光寺。山号は貫山である。駐車場の看板には開山1239年(延応元年)とある。その一方で「お寺サロン」や「断食道場」、「お茶べり堂」などの文字も見える。800年近い伝統を持ちながら、サロンやカフェの形で親しんでもらおうというスタンスの寺なのかなと思う。

建物の周りには石仏もさまざまあり、不動明王の護摩祈祷の道場もある。「身は華と與に落ちぬれども 心は馨り将に飛ぶ」の石碑は弘法大師の言葉である。

奥の建物が本堂である。訪ねたのが8時台だったこともあるが、住職不在の書置きもあり建物は開いておらず、その前でのお勤めである。

真光寺を開いたのは全国を修行で回っていた阿聖上人で、貫山に紫雲がたなびくのを見て庵を結んだとされる。後に周防の大内氏の豊前進出の本陣となり、戦勝後に祈願寺として伽藍を再建したという。江戸時代には小笠原氏の保護を受けたが、幕末の第二次長州征伐では長州側からの反撃に遭い、伽藍を焼失した。その後は阿弥陀如来を本尊として細々と営み、現在に至っている。住宅地ができたのはもちろん後のことだが、真光寺があったから住宅地が広がったのかどうか、来た限りでは何ともいえない。

その前に、「第91番」として九州八十八ヶ所に後から加わるにいたった事情はわからないが、貫山というところに何かポイントがあったのだろうか。

ともかく百八霊場の一つを回ったということで、貫弥生が丘3丁目バス停から9時20分発の四季彩の丘行きに乗る。それぞれ「〇〇が丘」というのがどこにあるのか、地元の人でなければイメージが難しいところだが、このバスが下曽根駅を経由するということはわかる。

ただ、西鉄バスのサイトで検索すると、次に目指す第92番の不動院に向かうのなら、下曽根駅ではなく少し先にある寺迫口まで行くのがよさそうとの結果・・・。

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第21回中国四十九薬師めぐり~第35番「延命寺」(口羽の大阿闍梨)

2022年12月14日 | 中国四十九薬師

江の川鐡道のトロッコに乗車した宇都井駅を後にして、本来の目的である中国四十九薬師の札所に向かう。第35番の延命寺は口羽にある。この口羽にある札所を訪ねるところから旧三江線、江の川鐡道と来て、さらに同じ石見にある未成線としての広浜鉄道。そして益田に向かう途中で思わぬ形で出会った可部線廃線区間、入口は広島新四国八十八ヶ所めぐりの佐伯区観音寺・・・と、さまざまなものがつながった。

宇都井駅を出て江の川を渡り、いったん広島県に入る。橋梁の下で次のトロッコ列車を見送った後、やって来たのは伊賀和志駅。ホームには立ち入ることはできないが、江の川鐡道は伊賀和志、そして口羽までのトロッコ列車の運行を次の目標として活動している。

再び江の川を渡り島根県に戻る。延命寺は口羽駅に向かう途中にある。ただ、カーナビが案内したところは通りの真ん中で、確かに寺の入口はあるが階段が続いており、駐車スペースはない。後で、この手前に境内に上がる道が新たに設けられていたのに気づいたのだが・・。

通りに駐車するわけにもいかず、思いついたのは口羽駅前。以前訪ねた時、駅前にクルマ2~3台は停められるスペースがあったのを覚えていた。厳密にいって駐車してよいところなのかはわからないが、駅舎を見物に来たついでに寺に行くという体にしよう・・(新たな道を上がれば境内の駐車場に行けたので、この気遣いも無駄なことだったのだが)。

口羽駅見物は後にして、ともかく寺に向かう。閉門にはまだ時間はあるが、山の中、雲のせいで空も暗く、実際よりも遅い時間に訪ねた気分で、寺には早く行っておこう。駅前から見ると高台の上に寺があるのがわかる。

階段を上がり、山門をくぐる。本堂側には「八光龍王」「琵琶甲山」と記された額が掛けられている。

こちらが本堂の上がり口のようで、ちょうど本坊の玄関から住職らしき方が出て来た。四十九薬師めぐりと言うと、本堂の扉を開けて中に招じ入れてくれる。住職は話好きのようで、いろいろ訊いてくる。広島から来たというと、「広島?今日の午前中は法要で安芸区に行ってましたよ・・」と言われる。口羽の僧侶がわざわざ広島市内まで法要に行くとは、何か宗派の行事でもあったのだろうか。

この口羽、そして延命寺の歴史についても解説していただく。延命寺は室町時代の創建とされ、琵琶甲城主の口羽通良の祈願所であった。この口羽通良という人物、毛利元就に仕えた重臣で、元々は志道(しじ)氏の出だったが、口羽を領有したことで口羽の姓を名乗ったという。関ヶ原の戦いの後、毛利氏と家臣団は萩に移ったが、延命寺は口羽の地にて歴史を受け継ぎ、現在にいたる。

寺としての本尊は不空羂索観音で、両脇に日光、月光菩薩を配している。両脇に日光、月光といえば薬師如来が本尊ではないかと思うが、薬師如来は別枠で祀られている。他にも不動明王、延命地蔵、弘法大師もあり、不動明王の護摩供も道内で執り行われる。

なお、目の前の話好きの住職は、寺および中国四十九薬師のサイトによると、口羽通良の子孫・秀典(しゅうてん)師という。寺のサイトでは「真言密教二大修行」、「虚空蔵求聞持法修行」をはじめて諸々の修行を行い、真言密教最高の修行位である「伝燈大阿闍梨」の称号を許されているとある。お会いした時はそうした「大阿闍梨」ぶりを見せるわけでもなく、こうしてふらりと寺を訪ねたおっさんも手厚く歓迎してくれる住職である。YouTubeで検索すると護摩供の様子の動画もいろいろ出てくるが、さすがに祈祷においては迫力を見せてくれる。

堂内に「八光龍王」と書かれた額が掲げられている。表の山門にあったのと同じ筆跡のようだ。「これは、(歌手の)橋幸夫さんからいただいたものですよ」という。わざわざ額を揮毫してくれるとは、古くからのお付き合いなのだろう。

後はどうぞごゆっくりお参り・・と、ここでようやくお勤めである。中国四十九薬師、失礼ながらローカル札所ということで寺の方が常にいるわけではないが、こうして住職に出会うとやはり個性的な方もいるもので、そこに面白さを感じることがある。

寺を後にして口羽駅に戻る。途中、三江線全線開通を記念した石碑がある。1975年のもので、揮毫は運輸大臣(当時)・大橋武夫とある。この方、当時の島根県全県区選出の議員だったそうだが、三江線の全通にも何らかの影響を及ぼしたのかな・・。

現在の口羽駅は江の川鐡道が管理しているところで、駅舎、ホームに立ち入ることができる。廃線後もほとんど変わらぬ姿で保存されている。トロッコ列車の車両基地も口羽にある。客を乗せての運転は江の川を渡ったところまでだが、車両基地が口羽にあるため、運転期間の前後には口羽まで回送運転を行っているとのことだ。いずれ定期運転ができることを応援したい。

駅舎内でもさまざまなPRが行われている。

これで今回の中国四十九薬師めぐりは終了。先ほど延命寺の住職から、広島に戻るのなら高田インターに出ることを勧められたが、国道375線に沿って三江線の姿も見たいということで、結局三次まで行くことにした。

2020年に三江線跡をたどった時は線路側の細い道を走ったが、今回は対岸の国道を行く。現在は国道も整備されていてクルマなら便利なのだが、それでも時折未整備、工事中の区間もあり、対向車との行き違いに苦労するところもある。そのまま三次まで出て駅前を通過し、三次インターから中国自動車道に乗って帰途に就いた・・。

さて、中国四十九薬師めぐりは石見の第35番まで来たが、萩にある第33番・円政寺を飛ばしていた。もっともその後で萩を訪ね、この記事を書いている時点で第35番までつながり、島根のうち石見地区はクリアしたことになる。この後は出雲へと続くが、本格的な冬に差し掛かることもあってどのような日程で訪ねることにしようか・・・。

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第21回中国四十九薬師めぐり~トロッコで三江線を走り、江の川を渡り県境へ

2022年12月13日 | 中国四十九薬師

11月20日、石見を横断して旧三江線の宇都井駅にやって来た。NPO法人「江の川鉄道」が運行する14時40分発のトロッコ列車を予約していたのだが、この前に訪ねた広浜鉄道の遺産めぐりに思ったより時間を取ったため、果たして間に合うかひやひやしたが(島根県の広さを甘く見ていた感もある)、あくまで適度なスピードで運転した結果、発車の15分ほど前に到着し、無事に乗車手続きができた。

宇都井駅周辺では11月19日、20日の夜に「INAKAイルミ」というイベントを行っており、地元の人たちがさまざまな工夫をこらして田園風景をライトアップするという。その両日は夜もトロッコ列車が運転されるとあり、予約も可能だったが、広島まで帰宅することを考えて見送りとした。また、ライトアップ直前の16時以降は周辺道路の車両通行が禁止とあった。イルミネーション見物には手前の羽須美中学校にクルマを停めてバスで宇都井駅にアクセスするようにとある。それどころか、その時間までにこの周囲から離れなければイルミネーションが終わるまで中からクルマで出ることもできない。トロッコ乗車が終わればすみやかに宇都井を離れる必要がある(まあ、この次に口羽にある中国四十九薬師の札所に行かなければならないのですぐに移動するつもりだが)。

宇都井駅に来たのは2020年11月以来ちょうど2年ぶり。そういえばその時も地元の人たちがイルミネーションの準備をしていたように思う。宇都井駅、口羽駅を管理する「江の川鐡道」の活動も広がりを見せているようで、これから乗るトロッコ列車も当初は2両だけだったのが、寄付金も集まりもう1両増設して乗客定員も10名まで増えた。

宇都井駅の階段を上がる。2年前は私のクルマについている古いカーナビのデータをもとに三次から江津まえ旧三江線に近いところに沿って走ったが、その時は宇都井駅の中には入れなかった。かつて乗った時も列車で通過しただけで、建物に入るのは初めてである。

ホームの高さは地上20メートルにあり、そこに上がるにはエレベーターもなく階段だけである。階段は116段あり、途中の踊り場には「あと〇〇段」という手作りの応援メッセージも出ている。高さ20メートルは建物の6~7階に相当するそうで、こうして観光で来る分には面白いかもしれないが、三江線が走っていた当時、日常的に利用していた地元の人たちにとっては難所だったことだろう。もっとも、宇都井駅の1日平均利用人数はもっとも多い年でも9人、廃線前の10年間では1人もしくは0人だったが・・。利用者の少なさは階段のせいではないだろう。

さて、ホームに上がると架け替えられた駅名標もあり、スタッフが駅員よろしく列車の案内、そしてトロッコ列車入線のメロディーも流す。

やって来たトロッコは前の便の折り返し。思ったよりも小ぶりである。トロッコの屋根の高さがホームから少し顔を出す程度のものである。この車両、かつて三江線を走っていたレールバスタイプの小型車両をイメージしたデザイン、塗装である。乗車するのはホームの先で、ステップを降りて線路上に出る。こういう乗り方も貴重である。

この便は10人の定員が満員となり、席割は当日の予約状況でスタッフが決めるようである。家族連れ、グループができるだけ同じ車両、同じ並びになる配置とした結果、私は運転席横の席となった。おひとり様の消去法で決まったのだろうが、運転席横で前面展望も楽しめるのでラッキーだ。その運転席もミニバイクのような造りだ。トロッコなので足元もスケスケで、持ち物を落とさないよう注意が必要だ。

車掌役のガイドも乗り込み、後方からアナウンスが入って出発進行である。この時はガイドの音頭にのって前方を指さし、「出発進行!」。

まずは時速5キロ程度で宇都井駅のホームを通り過ぎる、スタッフ、見物客の見送りを受ける。見る角度では、京阪電車やJR東日本の2階建て車両の階下席からの眺めに近いように感じた。

駅前方のトンネルに入る。しばらくは暗闇の中、ヘッドライトだけが頼りだ。風も容赦なく入るのがトロッコならではだ。

そして後半には、イルミネーションとは一味違うが、トンネルの壁画に影絵を映すイベントがある。手元のカメラでは上手く撮れなかったので画像はないが、さまざまな動物やキャラクターがトンネルの壁に映し出され、独特の面白さである。

トンネルの出口が見えて来たが、手前でいったん停止する。車掌役のスタッフが車外に出て何やら調べる。風速計があるそうで、これから江の川に架かる橋梁を渡るのだが、一定の条件をクリアしなければトロッコ列車が渡ることはできないそうである。幸いこの時は外はほぼ無風で、条件はクリア。これから改めて江の川を渡ることにする。トロッコ列車の運転も好き勝手にできるものではなく、関係各所の理解があってのことである。

そして「第三江川橋梁」を渡る。二層構造になっていて、下層は歩行者は渡ることができるそうだ。この橋の上をゆっくり走るのだが、私、あまりこうした場面は得意ではない。下を見るのも恐る恐るである。

橋の真ん中で停車。ここが江の川を介した島根県と広島県の境で、この先が広島県である。トロッコで県境を越えるというのがこの「鐡道」の一番の売りである。ただ、県境を越えるにあたっては行政をはじめとした各方面への働き掛けも尋常ではなかったそうである。現状として「やっと県境を越すことができた」というところのようだ。

橋梁を渡り、次のトンネルの手前の陸地に停車する。トロッコはここで折り返しとなる。いったん全員下車し、周囲の観察や記念撮影のしばしの時間となった。画像は公開しないが、私も運転手、車掌役のスタッフにて橋梁、トンネル、車両をバックに珍しくスマホのボタンを押してもらった。普段、お願いされることはあっても自分から撮影は頼まないのだが、この時ばかりは特別な感じだったと思う。

スタッフによるガイドもある。よく見ると鉄橋には線路の外側にもう2本線路がある。ガイドレールというもので、もし強風などで列車が脱線しても外側のレールで受け止めることで横転を防ぐという。他にも車両の解説などもあり、かつて三江線に乗っていただけでは知ることのなかった話も聞くことができた。

ここで折り返しとなる。座席は先ほどと同じで、今度は最後尾から車窓を見ることになる。意外にも運転手も同じ席で、後退での運転となる。再び、第三江川橋梁を渡る。さすがに復路は先ほどと比べて多少は落ち着いた気持ちで橋の上の時間が過ぎる。トンネルに入り、影絵の区間を過ぎるとスピードを時速15キロほどに上げて快走する。

宇都井駅に戻って来た。次の便を待つ客の出迎えを受ける。往復で30分ほどの時間だったが、廃線跡をこうしてたどることができて貴重な経験である。1回の運行で10人の座席がいずれもほぼ満席・・・何なら、現役当時の三江線の利用人数より多いのでは?とも思うが、そこはあくまで切り離して考えるべきだろう。こうした廃線跡の維持活動も各方面の理解があってのことで、さらに継続するには多くのエネルギーを必要とするところだろうが、トロッコ乗車、そしてグッズの購入で少しでも力になれたかなと思う。

NPO法人で活動する有志以外の、いわゆる地元の一般の人たちがどのくらい理解・協力するかにもよるが・・。

イルミネーションの時間も近いし、私もこの先もう1ヶ所札所めぐりをしなければならないので、宇都井駅を速やかに出る。先ほどとは反対の場所から駅舎を遠く見る。

そして江川を渡り、国道375号線に出る。先ほど渡った江川第三橋梁がある。しばらく待つと、次のトロッコ列車がちょうど橋梁に差し掛かり、中央にある県境のスポットで停車した。さすがに、トロッコの中から私の姿は気づかないだろうな・・。それでも、橋梁をトコトコ渡る姿を見るのは面白いものである。

こうして、現在の地元NPO法人の活動を間近に見ることはできたが、長い目で見るとどうなのだろうか。ここまで可部線、広浜鉄道、そして三江線と廃線跡、未成線跡をたどって来たが、地元の温度差もあるだろうし、「江の川鐡道」の数年後は現在のように右肩上がりになっているかどうか。また時を置いて見に来たいものである・・・。

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第21回中国四十九薬師めぐり~幻の広浜鉄道跡を行く

2022年12月12日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりは浜田から邑南町に向かうが、クルマで横断するのならということで、「広浜鉄道」の跡地をたどりながら行くことにした。前日の可部線の三段峡までの区間、そしてこの後の三江線のトロッコ列車と合わせて、今回の薬師めぐりは鉄道廃線跡めぐりの要素が強い。

ここで「廃線跡」と書いたが、これから行く広浜鉄道の路線は、建設工事そのものが途中で中止されたから正確には「未成線」である。その遺構があちこちに残っており、浜田市では「幻の広浜鉄道今福線」として観光向けにもPRしている。

広島と浜田を結ぶ鉄道を建設しようという構想は明治時代の半ばにはあったそうで、広島から敷かれたのが後の可部線、そして浜田側から戦前に建設が進められたのが山陰線の下府から分岐する今複線である。石見今福まではトンネルや橋梁も含めて大半が完成したが、戦時下による鉄の拠出のために肝心の線路を敷くことができず、また水害により路盤も流出したこともあり工事は中断された。

戦後、改めて広浜鉄道の建設となったが、戦前に建設された区間はカーブや勾配がきつい箇所が多く、浜田から新たなルートで建設することになった。なお、新たなルートは高規格路線として計画され、広島側からも可部線に代わる新線を建設し、広島~浜田間を最速55分で結ぶ構想があった。そして浜田から石見今福までの建設が進められたが、結局国鉄の財政悪化によりこの構想もなくなり、工事も中断された。広浜鉄道は二度にわたり建設がとん挫した形である。

時代は流れ、現在、広島~浜田間を最速で結ぶのは中国道~浜田道を通る高速バスである。それでも所要時間は2時間あまり。これを速いと見るか時間がかかると見るかはそれぞれだろうが、もし広浜鉄道の高規格路線が実現していたら、陰陽連絡の交通事情もまた変わったものになったことだろう。

これから目指す遺構は主に戦前に建設された「旧線」の区間で、途中で戦後に建設された「新線」と合流する。観光スポットとして紹介されているのもほぼ「旧線」のところである。県道をたどればそのほとんどはカバーできるようだ・・。

さて、旧線の起点である下府駅である。現在は対向式ホームであるが、向かい側のホームのその奥に「幻の3番線」があるとのこと。ここから、広浜鉄道跡めぐりのスタートだ。

下府川に沿いながら、県道50号線~県道301号線へと入っていく。これあら目指すスポットは県道沿いに点在しており、訪れやすい。

突然、川の真ん中にコンクリートの橋脚が現れる。ここから鉄道遺産の始まりか・・ということで、見えたのがカーブの途中だったので、100メートルほど先の路肩にクルマを停め、歩いて戻る。橋脚が2本あり、その先には有福第三トンネルが顔をのぞかせている。戦前に建設されたところなので、線路が通らないまま80年以上放置された形だ。これが「廃線跡」なら、少なくとも列車が走ったことはあり一応の役目を果たしたと言えるのだが・・。

続いて、先ほどよりもさらに高い橋脚が現れた。こちらは路肩を拡げた駐車スペースがあり、案内板も設けられている。今福第一トンネルと、トンネルを出た後の橋脚が4本見える。

路盤のところまで遊歩道があり、上がることができる。安全確保のためトンネルの中には入れないが、トンネルを出てすぐに橋を渡る様子が想像できる。広浜鉄道跡の展望台として紹介されている。この辺りは川が蛇行し、道路は急なカーブも多いが、鉄道はトンネルと鉄橋で最短ルートをたどろうとしている。

この辺りは佐野・宇津井地区で、地形を利用した棚田も広がる。

続いては今福第三トンネルと、5連アーチ橋。トンネル跡は目の前にあり、路盤跡もコンクリートで舗装されている。トンネルの中には入れないが、遥か先に出口が見える。しかし、アーチ橋はどこに・・。

もう少し先に進み、振り返ってみると5連アーチ橋が見える。たった今走り抜けた県道の1車線は、5連アーチ橋をそのまま使用している。こちら側の車線は5連アーチ橋、奥の車線は山の擁壁を利用している。道路化するにあたっては当然補強が行われたのだろうが、戦前の橋脚がこうして活用されるのも珍しいのではないだろうか。この5連アーチ橋をはじめ、広浜鉄道のコンクリート橋は土木学会推奨の土木遺産に認定されている。

続いては4連アーチ橋。先ほど見た今福第三トンネルの反対側である。ここは歩いて渡ることができる。戦前の鉄不足の影響で、コンクリートが多用されたという。

今福第五トンネルがある。ここまでのトンネルは安全確保のため立入禁止だったものの、物理的には看板と単管バリケードで仕切られているだけだった。ただここはガチガチのフェンス、有刺鉄線で物理的に入れなくしており、「JR西日本」の看板が出ている。幻の広浜鉄道で、国鉄を通り越してJR西日本とは。トンネルの中に横穴を掘ってJR西日本の地震計が設置されているとあり、トンネルの中で唯一活用されているものだという。

こんなところにJRの地震計?と思うが、大きな地震につながる初期の微動をキャッチすると、緊急警報を発動して必要な区間の新幹線を緊急停止させる役割があるという。

ここまでは県道沿いにあるトンネルや橋脚の跡を見てきたが、石見公民館佐野分館から先は、路盤跡そのものを行く。市道に転用されてウォーキングコースになっているが、クルマも走ることができる。歩いたほうが楽しそうだが、ここまで鉄道遺産を見る中で思ったより時間が押してきて、次の邑南町まで結構な距離を移動するとなると少しでも短縮する必要が出て来た。まあ、クルマで走るとちょっとした気動車(レールバス?)の運転士気分になれるのだが・・。

途中、4連アーチ橋を渡る。いったん手前でクルマを降りて、橋の下に向かう。この橋の下のある一点に立ち、手を打つと大きく反響する。アーチの構造によるものだが、ここには「おろち泣き橋」の名がつけられている。アーチ橋をおろちの胴体に見立て、広浜鉄道が開通しないことが決まっておろちが泣いている・・と地元の人たちがそう呼んだそうだ。

この先、地元の人たちが設けた休憩所を経て(途中駅に見えなくもない)、ここまでの旧線と浜田からの新線の合流地点に出る。ここでクルマを降りて、この先は歩いて行くことにする。轍があるのでクルマでも行けそうだったが・・。

そしてやって来たのは第一下府川橋梁、4連アーチ橋である。まっすぐトンネルに向かうのが新線で、4連アーチの旧線が分岐している。新旧両線の橋梁が見られる遺構は全国的に珍しいという。

「未成線」がここまで残されているのも不思議なものである。途中まででも列車が走ったことがあれば、少なくともその期間は公共交通の役割を果たしたわけだが、建設途中でほったらかしにされたわけだ。それも二度も。その当時でも税金の無駄遣い、負の遺産として記憶されたことだろう。

そして時代が下り、各地の廃線跡、未成線跡にも脚光が集まるようになった。コンクリート橋も土木遺産に認定され、歴史的、土木的にも価値が認められた。地元でも地域活性化、観光のきっかけとして広浜鉄道を後押ししているようだ。

見学ができるのはここまで。引き返して次の目的地である旧三江線の宇都井駅を目指す。私のクルマのカーナビは古いので、廃線前の三江線の線路、駅がそのまま掲載されている。そして宇都井駅を入力すると、到着予想時刻はトロッコ列車の時間を過ぎていた。

到着までに時間は短縮されるとは思うが、まずは金城スマートインターに向かう。ここから浜田道に乗る。

いったん広島県に入り、大朝インターで下りる。宇都井は広島県と島根県の県境に近く、大朝インターからまた島根県に向かう。気づけば到着予想時刻も早まり、14時40分発のトロッコ列車には十分間に合いそうだ。

そして遠くにコンクリートの高架橋が見えて来た。ようやく「天空の駅」・宇都井に到着である・・・。

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第21回中国四十九薬師めぐり~第34番「長福寺」(山陰線の撮影名所と、アンパンマンの寺)

2022年12月10日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりは益田から浜田に向けて、国道9号線を行く。思わぬ形で雪舟関連の見学をしていたので、益田を出発したのは10時前である。ここから浜田に向かい、広浜鉄道跡の散策、宇都井にて江の川鐡道のトロッコ乗車、そして口羽での札所めぐりと、石見地方を横断していく。こう並べると結構スケジュールが立て込んでいるように見える。

国道9号線は山陰線に沿う区間でもあり、日本海に近いところも行くのだが、このところは最短ルートで結ぶ山陰道の整備が順次進んでおり、遠田~三保三隅間の「三隅・益田道路」も2025年度の開通に向けて工事が進められている。三保三隅から先は浜田まで続いており、益田、浜田両市のアクセス向上につながるという。

これから目指す長福寺は浜田市街の手前にあり、三保三隅から山陰道に乗ればそのぶん早く着くのだが、そのまま在来の国道9号線を走る。

立ち寄り地としたのは、「道の駅ゆうびパーク三隅」。名前にもあるように夕日のスポットであるが、山陰線の列車の撮影スポットとして知られる。折居~三保三隅間、日本海を背景として走る列車の写真をどこかでご覧になったことがある方も多いのではないだろうか。

ちょうど道の駅には展望スペースが整備されており、撮影目的でなくても列車を見物するには絶好の位置である。この場所の列車通過予定時刻も示されている。これによると、間もなく10時29分、益田行きの「スーパーまつかぜ1号」がやって来るとある。せっかくなのでその走りを見ることにしよう。

江木蒲鉾店の赤天などを土産で買い求め(全国旅行割引でついてきたクーポンはここで使用)、展望スポットにてしばらく待つうちに浜田方面からエンジン音が少しずつ聞こえてくる。「スーパーまつかぜ1号」益田行きである。鳥取から益田までの長距離運転だが、2両編成。

「スーパーまつかぜ1号」から間もなく、後続の益田行き鈍行が10時42分にやって来た。こちらはキハ120の1両編成。本来ならあの列車の中に身を置きたいのだが、こうしていい景色をバックに走る列車を外から見るのもいい感じである。これらの写真は今や珍しくなったコンパクトデジタルカメラによるもので、スマホのほうがより鮮明な画像になるのだろうが、天候に恵まれた。こうした一瞬をカメラに収めたくなる撮り鉄の気持ちも、多少わからないでもないな・・。

その数分後の10時49分、今度は益田方面から「スーパーおき2号」がやって来る。ちょっと角度を変えようと、道の駅から下の集落へ続く道に出て、先ほどより低い位置で列車を間近に見ることにする。こちらの道端で三脚を立てる撮り鉄がいて、その人の視界の妨げにならないと思われるところに陣取る。単線区間で予定より数分遅れたようだが、通過を見届ける。

道の駅で時間を過ごした後、国道9号線を進み周布駅近くの交差点から県道に入る。浜田市の美川地区というところである。

カーナビの案内で長福寺に到着。ただ、駐車場が見当たらない。その中で、寺の門前に美川保育園の建物があり、寺の案内板などからそこも含めて寺の境内だと思われた。そこで保育園の敷地の隅にクルマを停め、山門をくぐる。

そこは本堂前の境内でもあり、保育園のグラウンドでもあった。遊具がここかしこに置かれており、アンパンマンやバイキンマンもいる。保育園は寺が経営しているのかな。さすがに日曜日ということで園児の姿は見なかったが、平日だと境内で園児たちが元気に過ごしている中を訪ねることになったのかな。まあ、美川地区にあって心安らぐ場所であることには違いないだろう。

お参りということで本堂の扉に手を掛けると開いたので中に入る。書き置きの朱印も置かれている。

長福寺が開かれたのは鎌倉時代、周布兼正によるとされる。当初は天台宗の寺として護国院という名前だったが、室町時代に大通和尚が招かれて臨済宗に改められた。護国院という名前から、安国寺の意味合いもあったのではないかと言われている。

寺を後にして、山陰道に合流。バイパス道であり、浜田駅近辺を迂回する。これから広浜鉄道跡を経由して宇都井に向かうが、その前に、浜田から1駅出雲市寄りの下府駅に向かう。以前、中国観音霊場めぐり(第22番・多陀寺)で訪れたところである(その時は列車ではなく路線バスだったが)が、広浜鉄道の跡地めぐりとしてはここが起点でもある。

さてこの先、走ったことのないルートが続くがどのくらい時間がかかるだろうか・・・。

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第21回中国四十九薬師めぐり~益田、雪舟ゆかりの地

2022年12月09日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりの石見シリーズ。その前泊ということで広島からクルマで益田まで来た。途中、かつての芸備線跡に出会ったり、益田でいい雰囲気の居酒屋での一献とあったが、11月20日は中国四十九薬師めぐりの当日である。

それでも、札所以外の要素が満載された1日になったのだが・・。

居心地のよかった益田グリーンホテルモーリスを出発。次に益田に泊まる機会があればまた利用したいなと思う。さてこれからまずは浜田に向かうのだが、その前に、益田に来たのだからどこか1ヶ所だけでも見物しよう。そこで思いつくのは医王寺。室町時代の画家・禅僧である雪舟ゆかりの寺として以前にも訪ねたことがあるが、この機会、改めて訪ねてみよう。

山門がある。益田城の大手門を移してきたものだという。医光寺は室町時代に開かれた崇観寺の塔頭寺院で、戦国時代に荒廃した崇観寺の後を継ぐ形で益田宗兼により再興された。

益田は他にも益田氏が築いた中世、近世の遺産がさまざま残されており、それらは日本遺産にも指定されている。市としても日本遺産をPRしている。

医光寺は庭園が有名である。雪舟が益田に滞在していた時に造られたものとされる。雪舟四大庭園の一つでもある。

池の形は鶴をイメージしていて、その中に亀島を配している。鶴亀で吉兆を現している。他の石などと合わせて須弥山や蓬莱山を表現しているという。雪舟といえば水墨画のイメージが強く、白黒で表現する人という印象だが、もちろん当時の世の中は白黒だけで成り立っていたものではなく、禅の世界を庭で表現するとなると石の他に四季の色合いも入ったことだろう。夏の緑もあれば秋の色づきもある。

鑑賞順路として後になるが、医光寺の本堂に出る。臨済宗の寺として、「医光」という名前から察せられるように薬師如来を本尊とする。現在中国四十九薬師めぐりの途中ということで、ならばお勤めをしなければ・・。

その奥にある開山堂では釈迦如来が祀られている。崇観寺の本尊だったとされる像で、戦国時代の荒廃を受けて医光寺に受け継がれていることの現われである。

医光寺を後にして、もう1ヶ所訪ねてみよう。訪ねたのは「益田市立雪舟の郷記念館」。雪舟や益田氏といった、益田の歴史文化にゆかりのある人物について紹介する施設である。

企画展として、「京都・室町幕府と益田氏」が開催されている。一番の目玉が洛中洛外図屏風で、屏風絵じたいはいくつもあるが、今回展示されているのは現存する最古のものとされ、国立歴史民俗博物館所有の国の重要文化財とある。史料保護のために照明が暗く設定されているが、都の賑わいの様子が伝わって来る。また、13代将軍足利義輝の肖像画もある。

別の展示室では雪舟の足跡が紹介されている。雪舟は備中の生まれで、少年の時に総社の宝福寺で修行し、後に京都の相国寺に入り、山口、明国など周り、石見に滞在したのは60歳頃のことである。医光寺、萬福寺の庭園を築いたのもこの時である。

雪舟は晩年期は山口で過ごしたが、最晩年には益田に入り、東光寺に入山したが、83歳で亡くなった。

この記念館は雪舟が亡くなった東光寺跡に隣接して建てられている。東光寺は現在大喜庵という名前であり、雪舟の石像や墓所も残っている。

中世の益田は、中国大陸や朝鮮半島に近い地であることと、中国山地からの材木や鉱物などで日本海の交易が盛んで、益田氏も積極的に交易を進めていた。そのためにさまざまな文物が入り、独特の文化が発展した。それが雪舟を呼ぶことになり、雪舟もまた自らの余生を過ごす地としてこの地を気に入ったことだろう。

ここまで来たところで、そろそろ浜田に向けて移動しよう・・・。

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第21回中国四十九薬師めぐり~益田にてコロナ禍のことも思い出しつつ、一献。

2022年12月08日 | 中国四十九薬師

中国四十九薬師めぐりの前泊として、11月12日の午後、広島から益田に向けて移動。途中、広島新四国八十八ヶ所の札所にも立ち寄り、可部線の廃線跡に出会ったことから三段峡のミニ散策までついてきた。

国道191号線は三段峡の先は県境区間に入ることもあり、周囲の建物も少なくなってきた。景色はそれなりに雄大で、広島県にこうしたところがあったのかと改めて感心するばかりである。広島県の観光といえば瀬戸内側が取り上げられることが多いが、県の大部分は山地である。

島根県に入る。このルートで陰陽連絡したのは初めて。平成の大合併もあり、この先はずっと益田市である。里山風景の中をずっと走る。

益田の市街地に入って来た。ここまで今一つすっきりしない空模様だったが、海岸の方向には夕日が出ているようだ。翌日は晴天が期待できそうだ。

益田駅に到着。山陰線、山口線が接する駅で、夕方の時間帯は各方面へのローカル列車も出発する頃合いだ。ふと列車に乗ってみたくなるが、帰って来るのが大変である・・・。

益田といえば、今年の7月に5日間ほど出張で滞在したことがある。今だからそのことに少し触れるが、私の職場で出張のため益田に来ていた従業員が新型コロナに感染し、同行していた者も濃厚接触者に認定されたことがあった。そのため、各方面への対応と感染者、濃厚接触者の経過観察ということで私が広島から出向くことになった。彼らは宿泊していたホテルのご厚意もあってそのまま留め置きとなっていたが、感染した従業員は保健所の指示で江津にある島根県立少年自然の家での療養となり、保健所のクルマで移送された。そして濃厚接触者はそのままホテルでの経過観察となり、コンビニでの食事の買い出しくらいならOKだが、ホテルの大浴場やレストランの使用はNGとなった。

私はといえば、もし感染者、濃厚接触者が重症化でもすれば・・ということで益田に来たのだが、感染者も少し熱があるもののそのほかは異常なく、また濃厚接触者は自覚症状も何もなしである。一応何かあった時の備えとはいえ、何もなければやることはそれほどなかった。私も清掃時間をのぞけば日中も同じホテルの自室にいたが、そりゃ、テレビもつけるし夕方はちょうど場所中だったので大相撲中継を観ながらパソコンでできる範囲の仕事をしていた。私とすれば、益田にてリモートワークを行っていたようなものである。

最初の頃は夕食も近くのコンビニで買ったもので済ませたが、後半には益田駅前の居酒屋でも一人で一献やったし(留め置きの皆さんには申し訳ないが)、東萩までローカル列車で往復したりもした。結局、その週が終わると濃厚接触者も解除となり、感染者も療養先から自力で戻れる目途がたったので、私も広島に帰還した。

2022年夏は世間もまだまだコロナに対して敏感に反応していた。そして冬、第8波に入ったとも言われていて感染者数も増加しているが、世間の受け止めはそれほどでもない。それだけ、これまでの経験で得られた知見が現実に反映されているということだろう。

この夜は、駅前にある益田グリーンホテルモーリスに泊まる(ちなみに、夏にコロナ対応で宿泊したホテルは駅の反対側に立地するところ・・)。クルマは駅に隣接する市営駐車場に停めるよう案内される。フロントで駐車券を提示すると1泊330円で割引利用ができる。

部屋からは益田駅の構内を見下ろすことができる。現在は気動車が行き来するだけの小ぢんまりとした運用だが、奥にはかつて操車場でもあったのか、空き地が広がっている。あちら側も国道191号線沿線で店舗も多く並んでいるが、駅には自由通路もなく分断されたように見える。夏の宿泊時にも不便だなと思ったのだが・・。

今回はワクチン接種による「全国旅行支援」適用プランを利用する。これで宿泊費が4000円台で済んだし、1000円のクーポン券もいただけた。

部屋でしばらくくつろいだ後、夜の一献ということで出かける。無難なところなら駅前のロータリーにチェーン居酒屋もあるのだが、駅から少し南に入ったところに小ぢんまりではあるが飲食店街が広がっている。ただ、グルメサイトではあまり情報が出てこない。また、この日は予約客のみという表札の出る店もある。まあ、適当な店がなければロータリーに戻ってチェーン居酒屋で豪快に一献としよう。

その中、18時の開店直後に入ったのが「屋台ざんまい」という店。グルメサイトで良い評価の書き込みが多かったのと、21時までの入店で2時間飲み放題1200円とあったのでこちらにする。幸いカウンターに空席あり、パーテーションで区切られているので実質2席使用できた。

飲み放題だからとメニューがそれほど制限されているわけでもなく、多少でも飲む人なら最初から飲み放題にしたほうが安くつくのではないかと思う。店の人もそのように勧めていたし。

あ、でも飲み放題のビールはプレミアムモルツではなく金麦。そこにこだわる人はご注意かな。

魚、肉、大衆酒場の定番メニューも豊富に揃っている。最初は枝豆、冷奴で。

馬刺し、地鶏たたきも。益田というよりは九州の色合いだが、ちょっと張り込んでみる。

魚の代表として、おすすめのホワイトボードにあったスズキの造り。

串焼きメニューに「江木さん」というのがある。ただし書きで「赤天」とあった。赤天といえば石見の名物の一つで、ちゃんとメニューにあったのがうれしい。鉄板でちょっとあぶると風味が増してより美味くなる。「江木さん」というのは、この赤天の生みの親である江木蒲鉾店から取ったもののようだ。

日本酒の飲み放題メニューには見慣れない銘柄が並ぶ。益田や津和野といった石見地方の地酒である。飲み放題の日本酒といえば全国的な大手メーカーのものが一般的だが、地酒が(もっともお手軽な本醸造のものだろうが)何種類もあるのもよろしい。その中で、扶桑鶴、菊弥栄、日本海といったところを味わう。

今思えば、後半サワーに切り替えるくらいならもう3種類もいただいてコンプリートしておけばよかったかな・・。

「屋台ざんまい」のおすすめメニューとしてお好み焼(広島、関西いずれもOK)もあり、店の大将が鉄板で焼くのを見るのも楽しいが、さすがにここまでの飲み食いで満腹となり、締め料理なしで会計とする。また益田に来た時に訪ねたい店である・・。

ホテルに戻り、大浴場に向かう。大浴場のある3階全体がゲストラウンジとなっていて、自販機、フリードリンクコーナーのほかに、夜のラーメンのサービスというのもある。また3000冊のマンガが置かれていて、このラウンジで自由に読むこともできるし、部屋に持ち込むこともできる。入浴後、しばらくこのスペースでリラックスした。

部屋でゆっくり眠った翌20日、ロビー横のレストランコーナーでビュッフェ形式の朝食である。和・洋・中華メニューも豊富でしっかりといただく(盛り付けが下品なので写真は撮らなかったが・・)。

中国四十九薬師めぐりとして益田から浜田を目指すが、益田に来て宿泊と夜の一献だけというのももったいないのと、益田は室町時代の画家・禅僧である雪舟ゆかりの地ということで、浜田に行く前に少しだけ益田のスポットを回ることにした・・・。

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第21回中国四十九薬師めぐり~今回は鉄道廃線・未成線シリーズ?・・・まずは三段峡へ

2022年12月07日 | 中国四十九薬師

前の記事は広島新四国八十八ヶ所めぐりで、佐伯区の観音寺を訪ねたことに触れたが、そもそもの目的としては中国四十九薬師めぐりの石見シリーズである。

順番だと萩にある第33番・円政寺が残っているが、先に島根に入り、今回は浜田の第34番・長福寺と邑南町の第35番・延命寺に行く。11月19日~20日にかけてのことである。順番を逆にしたのは、冬の凍結・積雪の時季に入る前に中国山地を越えておく意味もあったが、大きかったのは延命寺がある場所である。

延命寺があるのは邑南町の口羽。口羽といえば2018年まで三江線が走っており、現在も駅舎、ホームが保存されている。NPO法人「江の川鐡道」がその運営に当たっているのだが、活動の一環として、2つ江津側にある「天空の駅」・宇都井を出発して江の川の橋梁を渡り、広島県にちょこっとだけ入るトロッコ列車を不定期に運転している。そのトロッコ、この秋の運転最終日が11月20日とあったので、これはこの機会に乗らなければと思った。20日の14時40分発の便をネットで予約する。

前泊のため益田に行き、浜田を経由して邑南町まで行くのだが、浜田近辺といえば・・未成線である「広浜鉄道」というのがある。この建設工事の遺産が点在しており、浜田市も観光スポットとしてPRしている。今回はクルマ利用ということもあり、浜田からの移動には「広浜鉄道」の遺産めぐりも組み込むことにしよう。

中国四十九薬師めぐりで口羽に札所があると知った時、これは三江線の廃線跡めぐりが絡むかな・・と思っていたが、そこに広浜鉄道が加わるとは思わなかった。交通手段はクルマだが、鉄道の要素が強い巡拝になりそうだ。

さて、佐伯区の湯来町を抜け、国道191号線で安芸太田町に入る。国道191号線はこのまま益田も通るので、あとはこのまま走るだけだ。

しばらく走るうち、並走する太田川に鉄道の橋梁らしきものを見て思わず「!!」となった。そういえば、今たどっているのは可部線の三段峡までの廃線に沿っているところだった。可部線は、広浜鉄道の広島側のルートとして建設された線区であるが、2003年に可部~三段峡が廃止された。

その廃止区間、私は前回の広島勤務時代、廃線が取りざたされていた頃に一度乗りに行った。その時は三段峡もぐるりと回った。三段峡の駅前で、「頑張れ可部線、負けるな可部線」とギター片手に歌っていた人がいたなあ。廃止されてからもう20年近く経過するのか(その廃線区間だが、2017年に可部~あき亀山が新たに「復活」開業した)。

この後も走行中に太田川の橋梁や、駅、線路の跡地を見かけるのだが、予習なしで来たものだからそのまま通過してしまい、立ち寄ることは難しかった。

戸河内インターとも接している「道の駅来夢とごうち」に到着。休憩を兼ねて下車すると、駐車場から少し離れたところに橋梁が見えたので行ってみる。可部線の加計~三段峡が開業したのは1969年のこと。なお、前年の1968年、可部~加計は「赤字83線」の一つに挙げられ、廃止勧告を受けている。三段峡までは開業できたが、その先は結局工事が中止となった。そして、可部~三段峡の廃止・・。

こうして橋梁が多く残るのは、撤去するのに費用がかかるから放置されているだけなのかな。

そのまま国道191号線を進むと、安芸太田町役場の向かいにスペースがあり、「戸河内」の駅名標が置かれている。戸河内駅の跡だそうで、現在はバス停になっている。

ここまで来ると終点の三段峡駅跡にも行ってみることにしよう。国道191号線からはちょっと寄り道になるが、三段峡自体は現在も観光スポットなので特に迷うことなく進む。三段峡駅の手前では線路跡が現れ、その下をくぐってかつての駅前に出る。

こちらも現在はバス停、交流広場となっており、片隅には可部線のモニュメントが設置されている。芸備線が廃線となって久しいが、それで三段峡の客足が減ったことになったかどうか。

ちょうど、広島行きのバスがやって来た。三段峡からは高速道路経由便も含めて1日10数本あり、一応、可部線に代わるだけの利便性は保たれているようだ。一般道経由便だと2時間、高速道路経由でも1時間半ほどかかるが・・。

せっかく来たので、三段峡を少し散策してみよう。案内板には、昨年の大雨の影響で、正面口からは1キロほど行った赤滝までしか行けないとある。そろそろ夕方近い時間帯、私もそこまで奥深く行くつもりはないので、往復するにはちょうどいい距離だろう。

三段峡といえば三段の滝、二段の滝、黒淵の渡舟などが知られ、散策路は全長16キロに及ぶが、今回はそのうち1キロの往復である。それでも、まさか中国四十九薬師めぐりの前段で三段峡を訪ねることになるとは想定しておらず、思わぬ形での再訪となった。

紅葉もそろそろ終わりの様子だが、遊歩道をてくてく歩く。散策の人もそれなりにいて、すれ違ったり追い越したり。

短い散策路の中だが、竜ノ口、姉妹滝といった見どころもある。

20分ほどで、通行可能区間の終点である赤滝に着く。微生物の珪藻類の影響で岩肌が赤みを帯びていることからこの名がついた。

この先の通行止めの標識まで行き、引き返す。思わぬ形での可部線廃線跡、三段峡訪問も含めて、中国四十九薬師めぐりに広島県北西部も加えることができた。

この先改めて益田に向けて国道191号線のドライブを続ける。三段峡のもう一方の入口からアクセスすることもできるが、さすがにそこまでの時間はなく、そのまま山間の景色を過ぎる。そろそろ、県境を越えるところだ・・・。

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第51番「観音寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(元宇品と佐伯区、2つの観音寺)

2022年12月06日 | 広島新四国八十八ヶ所

札所めぐりが多重債務の状態となっているが、今回は中国四十九薬師めぐり(記事が「広島新四国八十八ヶ所めぐり」となっているが・・、まあ聞いてください)。

中国四十九薬師めぐりは11月3日に長門市の第32番・向徳寺を訪ね、次は萩の第33番・円政寺の番だが、あえて順番を入れ替えて、島根県に入り浜田にある第34番・長福寺、そして邑南町にある第35番・延命寺に向かう。これらはいずれも公共交通機関では不便でクルマで行くことになる札所だが、冬になると私の軽自動車では装備がないため中国山地越えができないので、その前に行っておこうと思う。

冬といってもこの記事をアップしている12月初旬ならまだ間に合うところだが、今回のお出かけは関西から戻った翌週の11月20日とした。20日にした理由は後に触れるとして、また広島からクルマなら日帰りで行けるが、あえて19日に前泊とした。

その場所に選んだのは浜田ではなく益田である。中国四十九薬師での中国地方一周のコマは一応萩まで進んでいるが、萩から東へのエリアを少しでも押さえておこうと、萩と浜田の中間にある益田まで行っておくことにした。19日は午前中に所用があるため、午後からの出発で夕方に到着できればと思う。

さらにその前段として、広島新四国八十八ヶ所の続きである第51番・観音寺に立ち寄ることにする(ようやく、カテゴリーとのつじつまが合った)。

広島新四国は南区の第50番・地蔵寺まで来ていて、次の第51番は一気に佐伯区まで飛ぶ。そして第52番からは再び南区の札所が続く。次の番号がいきなり離れたところに現れるのは広島新四国ではよくあることで、そこには「さまざまな事情」があるようだが、この観音寺にも何かありそうだ。

昼食を済ませた後、西広島バイパスで五日市に向かう。広島市植物公園に向かう道の途中から分かれ、住宅地が広がる観音台に入る。観音寺と観音台、何か関係ありそうだ・・・と思うが、以前に広島新四国の極楽寺や圓明寺を訪ねた時、極楽寺山の麓にあるこの一帯の村が明治時代に合併した際、極楽寺の本尊・千手観音にあやかって観音村と名付けられたという話を思い出した。古代の山陽道である「影面の道」にも近い。

住宅地を上り詰め、最後は介護施設、坪井公園と過ぎてさらにその上に観音寺があった。木々に隠れるものの広島市街方向の景色も眺めることができる。また、寺のすぐ上には山陽自動車道が走っている。

観音寺の本尊である十一面観音は平安時代、坂上田村麻呂の守り本尊とされており、源平の戦いでは源範頼が平家追討の時にこの仏を持っていたが、宇品島近海で見失ってしまった。後に漁師の網にかかって引き揚げられ、島で祀られるようになった。戦国時代には毛利輝元や小早川隆景も拝む寺となり、江戸時代の浅野氏の広島入りの際に現在の観音寺として開かれたという。

だから、観音寺は宇品島にある寺である。その一方で佐伯区にも別院があり、それが今私が訪ねている観音寺である。こちらのお堂は新しい感じだが、2001年に奈良の仏師から原爆慰霊のために高さ2メートルの十一面観音像が寄贈され、本尊として祀られている。

観音寺のホームページによると、「元宇品観音寺」と「佐伯区観音寺」の2つが存在し、広島新四国の札所としては当初元宇品だったのが、現在は佐伯区に移ったということのようである。観音台に観音寺が引っ越してきた形だ。島が手狭だから郊外に移転したとか、そういう理由があったのかな。

番号順となるとまた南区である。次に第52番に行く前に、せっかくなら元宇品の観音寺にも行ってみようと思う(この記事を掲載する前に実際に行ってきた。その時のことは改めて書くことに・・)。

さてこちらの境内は「山陽花の寺」の第24番満願札所で、あじさいや椿といった四季の花を楽しむことができるのだが、ちょうどこの時季はといえば・・・ちょろっと紅葉があるくらい。「花の寺」の札所めぐりというのもあるのだが、さすがに花が見頃の時でなければ味わいも半減してしまうだろう。

時季外れなのか他に参詣者もおらず、寺の扉、納経所も閉まっている。朱印はケースに収められていたので無事にいただく。

佐伯区に立ち寄った後で改めて益田に向かうわけだが、高速には乗らず、佐伯区の湯来町を経由することにする。結構な山の中に入っていくが、これでも広島「市内」である。

国道433号線から国道191号線に入る。後は国道191号線をひた走ればちょうど益田に着くのだが、途中、ある物を目にして思わずうなり、そちらへの寄り道となった。それはまた次からの話にて・・・。

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神仏霊場巡拝の道~西国三十三所第3番・粉河寺(雨の和歌山におわかれ)

2022年12月05日 | 神仏霊場巡拝の道

今回の神仏霊場めぐりは、南海本線の堺駅前をレンタカーで出発し、和泉の施福寺から河内長野の2ヶ所を訪ね、橋本で1泊。そして翌日は高野山に向けて順番に訪問し、神仏霊場めぐりとしては一気に7ヶ所訪ねた。レンタカーだからということもあるが、今年4月に始めたばかりで、特別霊場の伊勢神宮外宮・内宮を含めて154の寺社のうち、すでに35ヶ所を回っている。それよりも前に始めた中国四十九薬師(現在32番まで)を追い越してしまった。まあ、関西の場合札所がある程度固まっているところが多いのだが。

さて、高野山の帰りに立ち寄ったのは粉河である。和歌山から堺へのルート上にある神仏霊場の札所となると、岩出の根来寺、泉佐野の七宝瀧寺、貝塚の水間寺といったところがあるが、今回は西国三十三所の4巡目として、神仏霊場には属していない西国3番・粉河寺を押さえておくことにした。和歌山県の内陸に入ったところでもある。

駅に来たのは、JR西日本の西国三十三所めぐりのデジタルスタンプラリーのためである。QRコードを読み取り、コレクションに加える。紙のスタンプラリーの時と同じく、集めたスタンプの数に応じてプレゼントの応募もできるし(前回はミニ観音経が当選した)、コンプリートすると記念品もいただける。ただ、期間は2024年3月末まで。1回コンプリートしているので別にいいのだが、果たして期間内に2回目の達成まで行くかどうか。

再びクルマに乗り、駅前の道を直進して粉河寺に向かう。橋を渡ってすぐのところに駐車場があり、そこに停める。料金はセルフで料金箱に入れる。この先にも駐車場はあるし、まだ雨が降っているので濡れる距離が長くなるのだが、大門は見ておこうと。

粉河寺が開かれたのは奈良時代、猟師をしていた大伴孔子古が千手観音の霊験に触れ、殺生をやめて観音を信仰するようになった言い伝えがある。その後、平安時代には朝廷や貴族の保護を得て、「枕草子」や「梁塵秘抄」などでも霊験あらたかな寺として名が挙げられている。しかし、戦国時代に羽柴秀吉の紀州攻めのため、全山が焼失した。現在の伽藍の大半が江戸時代に紀州藩の保護を受けて再建されたものである。

また雨が強まって来て、とりあえず本堂にだけは行こうと境内を足早に過ぎる。これも江戸時代の再建である中門をくぐる。

本堂前の庭園の石垣も雨に濡れてちょっと冷たそうに見える。

本堂に到着。西国三十三所の寺院の中でも最大級の本堂ということで、屋根下のスペースも広く、ようやくほっとする。

粉河寺の本尊は千手観音像だが、これまで絶対の秘仏とされ、公開されたことがないそうである。本尊を模した像や絵はあるがそれが本物を元にしたものか証明することはできず、写真もないそうである。本尊が秘仏として厨子に収められ、その代わりのお前立ち像が祀られていたり、あるいは何年、何十年に一度公開される・・というのならいくらでもあるが、粉河寺の本尊だけは世に出たことがない。火災を避けるため、本堂下の地中に容器に入れて埋められているとされているそうだが・・。

ここで朱印をいただく。西国三十三所のおまけもついたところで今回は終了である。

粉河寺からは、京奈和自動車道の紀ノ川東インターが近い。大和高田までJR和歌山線とモロに並走しているが、国道24号線のバイパスの扱いでもあり、無料で走行できる。そりゃ、こちらを利用すれば圧倒的な速さで和歌山、大和高田方面に抜けることができる。

根来寺のすぐ横も通るが、こちらは他の和歌山近郊、和泉エリアの札所とともに訪ねることにしてそのまま通過する。雨でなかったら向かっていたかもしれないが・・。

岩出根来インターから有料区間となり、深い霧が立ち込める中、和歌山ジャンクションから阪和自動車道に入る。

大阪府に入ると雨もやみ、少しずつ視界も開けてくる。そのまま関西空港自動車道、阪神高速4号湾岸線と走る。このルートも大阪勤務時代にはよく乗っていた。相変わらず飛ばすクルマが多いのだが・・。

大浜で下車し、給油のために一度堺駅近辺をぐるりと回った後、無事にレンタカーを返却。そういえば、雨の金剛峯寺でクルマについた落ち葉だが、それなりの数がそのままボディや後ろの窓に張り付いたままである。係員が思わず「どこに行ってたんですか?」と聞いてきたくらいだ。

そのまま急行でなんばまで移動し、帰りの新幹線まで時間がまだあったので、立ち飲みの「赤垣屋なんば店」に立ち寄る。昼食に精進料理をいただいたばかりだが、大阪に戻ったから精進落としと言わんばかりである。

ちょうどカウンターが満席で、テーブルに落ち着く。こちらのほうが、カウンターで隣の客の肩に触れることなくゆったりできる。赤垣屋も歴史が長い居酒屋で、100周年までのカウントダウンの表示がある。店を訪ねてからこの記事に至るまで半月以上経過しているから、このカウントダウンも進んでいることである。100周年となると何かイベントでもやるのかな。

まずはホッピーと、湯豆腐、刺身の盛り合わせ。

熱燗に切り替える。燗酒は今季初めてで、そろそろそういう時季になったかと思う。限定メニューのブリかま焼き、そしておでんである。定番の他に季節限定のメニューがあるのも、四季を通してたまに来たくなる店である。

すっかり心地よくなり、新大阪に向かう。後は「こだま」でのんびり戻るだけである。

神仏霊場巡拝の道、これまで大阪南部・奈良南部・和歌山北部と京都市内を行ったり来たりしている。結構いいペースで来ているが、あみだくじでそろそろ他のエリアが出てもいいところで・・・。

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神仏霊場巡拝の道~高野山奥の院に詣でて今後を祈る

2022年12月04日 | 神仏霊場巡拝の道

金剛峯寺の参詣を終えて、奥の院に向かうことにする。これまでは参道を歩き、途中の塔頭寺院を訪ねることもあったが、今回はそのままレンタカーで向かう。雨も依然として降っており、ちょうど濡れずに済むこともできる。

そして奥の院も、正式には一の橋から参道を歩くところだが、そこも省略して中の橋から入ることにした。その途中の路肩に無料の駐車スペースが続く。奥の院の参道には戦国武将、江戸時代の大名家の墓や、企業の物故者の墓が並ぶが、一般の人たちの墓地も広がっている。そこに少しでも近いところに駐車できれば便利だろう。

中の橋に到着。弘法大師御廟に近い入口とあって多くの参詣者が見られるが、駐車場も特に待つことなく入ることができた。以前何回か来た時は一の橋から歩いて弘法大師御廟に行き、帰りに中の橋まで出て高野山駅行きのバスに乗るルートをたどったが、中の橋から入るのは初めてである。

まずは比較的新しく開かれた墓地を過ぎる。この辺りも企業の物故者の慰霊のための墓が並ぶ。私は、例えばその企業の工場や現場などでの不慮の事故災害で亡くなった方の慰霊かなと思っていたのだが、それにとどまらず、企業の創業、発展に力を尽くした方々が広く含まれているという。

企業を「家」、社員を「家族」に見立てると「先祖代々の墓」であると言える。日本の企業らしいといえばそれらしいが、昨今では「社員は家族」という言葉が、働き方においてブラックの根底だったり、ハラスメントの温床だと指摘する声も挙がっている。雇用のあり方も変わりつつある。いやその前に、「家族」の形も時代とともに移り変わるのだが・・。

一の橋からの参道と合流する。ここからでも古くからの参道の雰囲気は十分感じられる。

御廟橋に到着。この先は高野山の聖域中の聖域で、やはり入る前には一呼吸して気持ちを整える。

燈籠堂に入り、さらに裏に回り込んで御廟の前に出る。ここでもう一度お勤めとする。ちょうど、四国八十八ヶ所を回り終えて、お礼参りに高野山を訪ねてきたグループもいる。四国か・・・現在はその写し霊場ということで地元広島新四国、そして四国よりもエリアが広い九州八十八ヶ所百八霊場にも着手しているが、やはり本場の四国八十八ヶ所には特別なものがある。

さて、今回の神仏霊場めぐりは目的地の金剛峯寺まで来たことで、次の行き先を決めるあみだくじとする。先ほどの金剛峯寺や根元大塔でくじをやらなかったのは、やはりここは弘法大師の前で決めようという思いからである。

まずは候補となる6ヶ所のくじ引き。

・泉涌寺(京都41番)

・中山寺(兵庫15番)

・赤山禅院(京都27番)

・赤穂大石神社(兵庫11番)

・藤白神社(和歌山7番)

・元興寺(奈良30番)

やっと兵庫県の札所が選択肢に出てきた。いろんな種類の札所を兼ねる中山寺はまだしも、赤穂大石神社とは神仏霊場めぐりでも最西端であるが、こういう神社が霊場めぐりに名を連ねているのも意外である。一方、高野山と同じ和歌山の藤白神社もあるが、さすがにこの時間から訪ねるとなると遠い。

そしてあみだくじの結果は・・泉涌寺。ここは弘法大師、自分のところの宗派の寺院を選んだようだな。次回はおそらく年始になるだろう京都の東山編ということで、少なくとも泉涌寺と、その塔頭である今熊野観音寺は参詣するとして、どこまで行くか。正月の京都なんて大混雑だろうが・・。それにしてもこの神仏霊場めぐり、京都と奈良以南とを行ったり来たりしている感じである。

そして、奥の院でも神仏霊場めぐりの納経帳に朱印をいただくことにした。納経帳の後ろに何ページか空白があり、そのうちの1ヶ所を奥の院で埋めることにした。同じ金剛峯寺ということでこの納経帳でも問題ないだろう。この先、この空白ページを埋める寺社は出てくるだろうか。

ちょうど午前中で高野山を終えたことで、今回はちゃんと昼食を取ろう。中の橋会館の「はちよう」に入る。うどん、そばがメインの店だが、メニューに「はちよう御膳」というのを見つける。精進料理である。高野山らしいもの・・・となるとどうしてもそうなるな。

こちらは野菜の煮物、ナス田楽、天ぷらのほかに高野山名物のごま豆腐もちゃんと入っている。精進料理とはいえそれぞれしっかり味つけがされていて、美味しくいただいた。

さて、堺でのレンタカー返却時間まではまだ余裕があり、戻る途中にもう1ヶ所くらいは立ち寄れそうだ。雨の中、再び国道480号線を下る。上りより下りのほうが、雨でスリップしないかひやひやものである。先ほど丹生都比売神社から上った時に合流したポイントを過ぎると、多少道路にも余裕ができてようやく安心する。

国道24号線まで戻り、立ち寄ったのはJR和歌山線の粉河駅。選択したのは、神仏霊場巡拝の道には入っていないが、西国三十三所の4巡目としての粉河寺である・・・。

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和歌山13番「金剛峯寺」~神仏霊場巡拝の道・35(壇上伽藍にて)

2022年12月03日 | 神仏霊場巡拝の道

11月13日、橋本を出発し、慈尊院、丹生官省符神社、丹生都比売神社を経て、高野山金剛峯寺の大門を通過。自分でクルマを運転して高野山に入るのは初めてである。カーブが連続するうえ雨に見舞われたものの、南海高野線~ケーブルカーで来るのとはまた違った感覚で楽しかった。ならば次は高野山町石道を歩いて・・はちょっとね。

壇上伽藍の中門前の駐車場に空きがあったので停める。壇上伽藍、金剛峯寺は徒歩で回り、その後クルマで奥の院に向かうことにする。それにしても、高野山の一帯に何ヶ所も駐車場があるが、いずれも無料である。コインパーキングの要領で1回100円でもいいので徴収すればかなりの上がりになると思うが・・。

そこは高野山真言宗の考えだそうで、これらの駐車場は(実態はともかく)「高野山の参詣者用」の扱いだからという。また、高野山が駐車場を無料で開放することで、「参詣者」は域内を気軽に行き来することもできるし、違法駐車、迷惑駐車も少ないという利点があるとも言われている。

2015年、高野山開創1200年を記念して再建された中門である。同じく再建された四天王に手を合わせて伽藍に入る。

まずは薬師如来を本尊とする金堂へ。元々は高野山の総本堂として建てられたもので、現在は7度目の再建で昭和の建物である。まずはこちらでお勤めである。

そして根本大塔へ。こちらでは靴をビニール袋に入れて中に入る。今はこちらが金剛峯寺のシンボルと言える。中央に大日如来が鎮座し、周囲には金剛界の仏像が祀られ、柱には堂本印象の筆による十六大菩薩が描かれる。建物の四隅には弘法大師につながる真言八祖が描かれている。建物全体で立体曼荼羅を構成している。ここでもお勤めだ。

雨の中、伽藍の諸堂を見ながら歩く。紅葉もまだ見頃のようだが、この雨と風で落葉も進むことだろう。同じところでも違う季節に訪ねると印象も変わるもので、札所めぐりの飽きないところである。

正門にやって来た。こちらは紅葉は終盤だろうか、落ちた葉が参道の脇に集められ、そちらはそちらで紅葉のじゅうたんのように演出している。

こちらには何回か来ているが、これまで訪ねた中で寺というよりは書院の襖絵や庭園の印象が強い。祈りの場としては金堂や根本大塔があり、こちらは寺務の中心という役割があるのだろう。高野山といえば古来からさまざまな人がお参りする中、高貴な身分の方もせっかく来たのならどこかで接待もしなければならなかったことだろう。そうした時に活用されたのがこちらである。

今回、中の襖絵や庭園の見学は省略し、入口の受付で神仏霊場の朱印をいただく。ともかくこれで、前日の堺から河内長野、橋本を経てやって来た神仏霊場めぐりは目的達成である。

帰りは車道沿いに歩き、霊宝館は今回は見送る。そういえばこの日(11月13日)は、愛媛県美術館にて「国宝  高野山金剛峯寺展」の最中だった。運慶・快慶作の展示が見どころというが、仏像メインで高野山を回るのならむしろ広島から近いところに集まっていたわけだ(なお展覧会は11月20日で終了)。

中門に戻りクルマに乗ろうとするが、先ほど歩いている間に雨風の影響で落葉が進んだようだ。クルマの窓、屋根、ボンネットにいくつも葉が落ちている。払うのも面倒なので、このまま走ることにする・・・。

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和歌山12番「丹生都比売神社」~神仏霊場巡拝の道・34(弘法大師に高野山を授けた神の社)

2022年12月02日 | 神仏霊場巡拝の道

高野山に上る途中、和歌山12番。丹生都比売神社に向かう。国道480号線から県道4号線に入り、どんどんと山奥に入っていく。神仏霊場巡拝の道の札所の中でもアクセスが難しいところではないかと思う。紀伊山地の奥深くに来たなと感じるが、紀伊半島の地図をよく見ると、この辺りは和歌山県のほとんど北端に近く、大河である紀ノ川からちょこっと奥に入ったにすぎない。

トンネルを抜けると辺りが開けてきた。この辺りは天野盆地という。世界遺産の文字も見えて、駐車場も広く取られている。先ほど訪ねた慈尊院、丹生官省符神社は時間が早いこともあって他の参詣者の姿を見なかったが、こちらでは何台かクルマが停まっており、七五三の祈願に来たらしい家族連れも見られる。

駐車場にバス停がある。地元かつらぎ町のコミュニティバスのほかに、観光シーズンには橋本駅~丹生都比売神社~高野山を結ぶ臨時バスも出ている。こうしたバスを使えばアクセスは楽だが、次の便まで神社での滞在時間がちょっと長すぎるかなと思う。途中の高野山町石道歩きとセットで使うのもいいかもしれないが、いずれにしても1日がかりとなる。私の場合、遠方から来たことを理由にして、クルマで一気に回る手段を選んでしまう。

鳥居をくぐって参道に入る。鳥居、太鼓橋と紅葉がよく映えているが、予報通り雲が広がっていて、今にも雨が降るかという空模様なのが残念である。あ、ちょっとパラッと来たかな・・。

丹生都比売神社が創建された年代は定かではないが、丹生都比売神が紀伊山地のあちこちを回った後、最終的にこの天野盆地に落ち着いたという説もある。この神仏霊場めぐりでも、吉野の地に丹生川上神社というのが登場しており、歴史的なつながりもありそうだ。

弘法大師が高野山を開いた際、猟師に扮した狩場明神の導きにより、2匹の犬に案内された言い伝えがある。また、これと合わせて、地主神である丹生都比売神社から神領を譲られたという説もある。丹生都比売神社のホームページには「弘法大師に高野山を授けた神の社」という表記もある。後に、神社は高野山に帰属するようになり、高野山の荘園には丹生神社が建てられるようになったという。その一方で、丹生都比売神社には多宝塔や護摩堂などが建った。神仏習合の景色がごく普通に存在していたのである。

明治の神仏分離で丹生都比売神社は独立した神社となったが、高野山との結びつきは変わらず、慈尊院と金剛峯寺の中間に位置することもあり、徒歩で上る場合は途中の丹生都比売神社に参詣するのが習わしとされる。現在は神仏霊場めぐりもあることから、高野山の僧侶がここに立ち寄り、般若心経を唱えることもあるそうだ。拝殿に張られた幕も、これを寄贈したのは「高野山別格本山 本覚院檀家一同」とある。

境内をぐるりと回り、授与所にて朱印をいただく。

紅葉のスポットであるのは間違いないが、ここに来てやはり雨となった。クルマまで早足で戻る。

そして高野山を目指す。カーナビは先ほど通った県道4号線で国道480号線まで戻るルートを示すが、現地の標識では県道109号線を示す。確かに狭い箇所もあるが、走行するには問題ない。途中、丹生都比売神社を経由する路線バスともすれ違う。

そして国道480号線に入るが、ここからは上り坂、急カーブが連続する。そしてここに来て雨も本降りになって来た。まだクルマを運転して濡れないで済むだけマシである。雨雲のため、周囲の山々の景色も霞んでほとんど見えない。途中、何台かのクルマに道を譲りつつ、そこは自分の運転しやすいペースで進む。

途中工事のため片側交互通行の区間もある中、大門に到着。ようやくホッとした。高野山金剛峯寺の入口として、本来なら一度クルマを降りて、改めて大門で一礼するところなのだろうが、道なりにそのまま参道に入った。近くに駐車スペースがないし、雨が強いこともあって・・・。

紅葉の時季、高野山の中は渋滞が発生し、駐車も困難という記事があったので心配していたのだが、この日は雨だったのが幸いしたのか、クルマの通行には支障はなかった。そのまま道なりに進み、金剛峯寺の金堂前の駐車スペースに到着。神仏霊場めぐりの札所は金剛峯寺ということで、まずはクルマを置き、壇上伽藍を経て総本山に向かうことに・・・。

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和歌山11番「丹生官省符神社」~神仏霊場巡拝の道・33(高野山の神仏習合)

2022年12月01日 | 神仏霊場巡拝の道

高野山へ向かう道すがら、まずは女人高野として信仰を集めている慈尊院に参詣。その後で境内に続く石段を上がり、その上にある丹生官省符神社に向かう。高野山への町石道でいえば起点の180丁から179丁に進む形である。この神社も世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産の一部である。

弘法大師が真言密教の道場となる場所を探して紀伊山地に入った時、猟師の姿に扮した狩場明神に高野山の存在を教えられ、その使いとして2匹の犬に導かれて高野山に入った。後に弘法大師は高野山の地を賜り、そのお礼として狩場明神とその母である丹生都比売大神を祀る丹生高野明神社として開かれた。高野山は神仏習合の先駆けであり、丹生高野明神社は天と神に通じるところとして、慈尊院とも一体の関係であった。

明治に神仏分離となったが、「丹生官省符神社」という名前になったのは戦後のことである。「官省符」とは「官省符荘」という高野山が持っていた荘園からつけられた名前だという。もちろん戦後は律令制や荘園といった制度はないのだが、名残ということだろう。

拝殿にて手を合わせる。奥の本殿は10月に20年ぶりの修復作業を終えたばかりだという。

朱印をいただく。「奥の本殿が世界遺産ですよ」と案内してくれる。ちなみに、朱印は「一部の格式高い神社価格」の500円(どうでもいい情報だが)。それにしても、石段で境内がつながっているものの慈尊院とは別扱いである。最近でこそ、こうした神仏霊場巡拝の道が発足したおかげで、高野山の町石道に沿った寺社も同じ歴史をたどってきた同士ということで一つのルートになることができたと言える。

玄関口である慈尊院、丹生官省符神社を後にして、これから高野山への上りである。しばらくは紀ノ川沿いの富有柿の木が両側に広がる一帯を過ぎる。さすがに11月中旬となると収穫も終わっている。

地図ではもう少し東側の道から上れそうだったが、カーナビが案内したのは東渋田交差点から国道480号線のルート。コンパクトカー1台くらいなら通れない道ではないだろうが、何か事情があるのだろう。そのまま国道を上がることに。それでも結構急な上りが続く・・・。

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