札所めぐりが多重債務の状態となっているが、今回は中国四十九薬師めぐり(記事が「広島新四国八十八ヶ所めぐり」となっているが・・、まあ聞いてください)。
中国四十九薬師めぐりは11月3日に長門市の第32番・向徳寺を訪ね、次は萩の第33番・円政寺の番だが、あえて順番を入れ替えて、島根県に入り浜田にある第34番・長福寺、そして邑南町にある第35番・延命寺に向かう。これらはいずれも公共交通機関では不便でクルマで行くことになる札所だが、冬になると私の軽自動車では装備がないため中国山地越えができないので、その前に行っておこうと思う。
冬といってもこの記事をアップしている12月初旬ならまだ間に合うところだが、今回のお出かけは関西から戻った翌週の11月20日とした。20日にした理由は後に触れるとして、また広島からクルマなら日帰りで行けるが、あえて19日に前泊とした。
その場所に選んだのは浜田ではなく益田である。中国四十九薬師での中国地方一周のコマは一応萩まで進んでいるが、萩から東へのエリアを少しでも押さえておこうと、萩と浜田の中間にある益田まで行っておくことにした。19日は午前中に所用があるため、午後からの出発で夕方に到着できればと思う。
さらにその前段として、広島新四国八十八ヶ所の続きである第51番・観音寺に立ち寄ることにする(ようやく、カテゴリーとのつじつまが合った)。
広島新四国は南区の第50番・地蔵寺まで来ていて、次の第51番は一気に佐伯区まで飛ぶ。そして第52番からは再び南区の札所が続く。次の番号がいきなり離れたところに現れるのは広島新四国ではよくあることで、そこには「さまざまな事情」があるようだが、この観音寺にも何かありそうだ。
昼食を済ませた後、西広島バイパスで五日市に向かう。広島市植物公園に向かう道の途中から分かれ、住宅地が広がる観音台に入る。観音寺と観音台、何か関係ありそうだ・・・と思うが、以前に広島新四国の極楽寺や圓明寺を訪ねた時、極楽寺山の麓にあるこの一帯の村が明治時代に合併した際、極楽寺の本尊・千手観音にあやかって観音村と名付けられたという話を思い出した。古代の山陽道である「影面の道」にも近い。
住宅地を上り詰め、最後は介護施設、坪井公園と過ぎてさらにその上に観音寺があった。木々に隠れるものの広島市街方向の景色も眺めることができる。また、寺のすぐ上には山陽自動車道が走っている。
観音寺の本尊である十一面観音は平安時代、坂上田村麻呂の守り本尊とされており、源平の戦いでは源範頼が平家追討の時にこの仏を持っていたが、宇品島近海で見失ってしまった。後に漁師の網にかかって引き揚げられ、島で祀られるようになった。戦国時代には毛利輝元や小早川隆景も拝む寺となり、江戸時代の浅野氏の広島入りの際に現在の観音寺として開かれたという。
だから、観音寺は宇品島にある寺である。その一方で佐伯区にも別院があり、それが今私が訪ねている観音寺である。こちらのお堂は新しい感じだが、2001年に奈良の仏師から原爆慰霊のために高さ2メートルの十一面観音像が寄贈され、本尊として祀られている。
観音寺のホームページによると、「元宇品観音寺」と「佐伯区観音寺」の2つが存在し、広島新四国の札所としては当初元宇品だったのが、現在は佐伯区に移ったということのようである。観音台に観音寺が引っ越してきた形だ。島が手狭だから郊外に移転したとか、そういう理由があったのかな。
番号順となるとまた南区である。次に第52番に行く前に、せっかくなら元宇品の観音寺にも行ってみようと思う(この記事を掲載する前に実際に行ってきた。その時のことは改めて書くことに・・)。
さてこちらの境内は「山陽花の寺」の第24番満願札所で、あじさいや椿といった四季の花を楽しむことができるのだが、ちょうどこの時季はといえば・・・ちょろっと紅葉があるくらい。「花の寺」の札所めぐりというのもあるのだが、さすがに花が見頃の時でなければ味わいも半減してしまうだろう。
時季外れなのか他に参詣者もおらず、寺の扉、納経所も閉まっている。朱印はケースに収められていたので無事にいただく。
佐伯区に立ち寄った後で改めて益田に向かうわけだが、高速には乗らず、佐伯区の湯来町を経由することにする。結構な山の中に入っていくが、これでも広島「市内」である。
国道433号線から国道191号線に入る。後は国道191号線をひた走ればちょうど益田に着くのだが、途中、ある物を目にして思わずうなり、そちらへの寄り道となった。それはまた次からの話にて・・・。