まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第22回中国四十九薬師めぐり~第33番「円政寺」(維新の志士も遊んだ神仏習合の寺院、そして後の総理大臣は・・・)

2022年12月28日 | 中国四十九薬師

12月28日、世間はこの日が「納め」で、2022年を振り返るニュース、映像がさまざま流れる。いろいろなことがあった1年。スポーツでも多くの話題があって賑わったのだが、その中にあってはプロ野球においてオリックス・バファローズの日本一が取り上げられることはなかった。

日本のプロ野球のニュースはスワローズ・村上の「村神様」、そしてマリーンズ・佐々木の完全試合だけ。いまだに、ジャイアンツ、タイガースが勝たなければ日本のプロ野球は盛り上がらないようである。バファローズは日本一になってが、所詮全国的に見ればマイナー、不人気チームであることには変わりない。ましてや関西においては毎日マスゴミがこぞってタイガース、六甲おろし、そらそうよ監督の話題で発狂しており、バファローズの日本一など他国の出来事のように報じられている。あの、朝から公共の電波で六甲おろしを叫ぬ山口県出身者の番組って今でもやっているの?

・・・話は本題へ。もう、2週間以上経過したことなので記事の新鮮味も何もあったものではないが、年内に何とかこのシリーズだけでも書き終えようと思う・・・。

東萩駅から松下村塾を経て萩の城下町まで歩く。ようやく着いたのが中国四十九薬師の第33番で、この旅のそもそもの目的地である円政寺である。江戸屋横丁という通りで、木戸孝允の旧居にも接している。

まず出迎えるのは石の鳥居である。横の立て看板には「高杉晋作 伊藤博文 両公幼年勉学之所」とあり、「金毘羅社 円政寺」とある。神社と寺が同居していることがここからわかる。

先に拝観料を払い、毛利氏の家紋の幕、提灯が掲げられる門をくぐる。かつては毛利氏の保護を受けていたのかな。

境内の突き当りが円政寺の本堂だが、その手前、右手にある建物にまず目が行く。こちらは金毘羅社である。

円政寺が開かれたのは鎌倉時代で、当初は大内氏の祈願寺として山口にあった寺である。大内氏が滅亡した後は毛利氏の祈願寺となり、毛利氏が萩に転封されたのにともない、萩に移った。さらに、明治の神仏分離令が出た際に、現在地にあった法光院と合併して現在にいたる。金毘羅社は法光院の時代からあったもので、神仏分離令の時も嘆願により、また皇室に縁があったためにいずれも存続することができた。神仏習合がこうした形ではっきり残っているところはなかなかないと思うが、神仏分離を推進した明治政府の中心であった長州出身者の本拠地にあるというのも妙なものだ。

まず金毘羅社にお参り。拝殿の入口には天狗の面が掲げられている。神社に天狗の面というのも神仏習合の現われだそうだが、高杉晋作は幼少の頃、家族に連れられてこの天狗の面を見せられ、物おじしないようにしつけられたという。

拝殿では、当時の天井絵、そして大鏡を見ることができる。この大鏡は1822年というからちょうど200年前に金毘羅社に奉納されたが、太平洋戦争中に軍に供出され、その後行方がわからなくなっていた。それが2006年にオークションに出されていたのが見つかり、無事に買い戻されたとある。

金毘羅社の横には木馬(神馬)の像が祀られている。高杉晋作や伊藤博文もこの馬で遊んだそうだ。

そして円政寺である。本堂の前に立派な石灯籠がある。江戸後期、萩の町の人たちの寄進によるもので、高さ5メートルほどは山口県下で最も大きいとされる。

本堂に上がる。寺としての本尊は地蔵菩薩だが、左手に祀られている薬師如来が中国四十九薬師めぐりの本尊である。

隣の納経所でバインダー式の朱印をいただく。その一角では、寺に残る大内氏の家紋、毛利氏の家紋が並んでいる。大内氏~毛利氏、中世以降の中国地方の盟主の流れがうかがえるところである。

萩の人たちのプライドなのか、境内の竹筒に「萩市出身の総理大臣」とある。伊藤博文、山県有朋、桂太郎、田中義一。伊藤博文の生まれは現在の光市で、あちらには記念館もあるのだが、8歳の時に萩に移ったから萩の出身としていいだろう。他の3人は萩の長州藩士の家に生まれた人たち。

山口県はこれまで全国最多の8人の総理大臣を輩出しているが、残り4人は寺内正毅、岸信介、佐藤栄作、安倍晋三。山口出身、大正時代の首相の寺内正毅はさておき、その後の岸、佐藤、安倍は明治以降の新興勢力といえるのではと思う。伊藤博文や山県有朋から見れば、同じ山口県といっても「岸? 佐藤? 安倍? あんたらどこの馬の骨?」というくらいの格付けだろうが・・。

境内を後にする。まだ東萩からの次の列車には時間があるので、もう少し町歩きとする。青空が見えたかと思うとすぐに雲が広がったり、複雑な空模様である。その中で行くことにしたのは萩博物館である。萩の町並み全体を広大な博物館「萩まちじゅう博物館」に見立てる一方で、その中核施設として2004年に開館したところである。最初の広島勤務時にはなかった施設で、訪ねるのは初めてである。

訪ねた時は企画展「江戸時代の地図」が開かれていた。伊能忠敬が手掛けた日本地図の他に、萩の城下町、長州藩全体の地図、さらに江戸時代当時の世界地図などさまざまある。こういう展示には思わず見入ってしまう。

続いては、萩の自然史とでもいうべきか、さまざまな動物の標本が並ぶ。珍しいリュウグウノツカイの4メートル以上の標本というのもある。

このコーナーの標本の多くは、明治から昭和にかけて活躍し「萩の博物学の父」と称される田中市郎が収集したものという。萩の学校教諭を務めながら、収集した標本を一般に公開する博物館を開いた。これが現在の萩博物館のルーツだという。エリアにいたボランティアガイドとおぼしき人から、「これ、一人の先生の功績ですよ」と紹介される。

その後は萩の歴史にまつわる展示。やはり、関ヶ原の戦い後の毛利氏の防長二国への転封以降が中心となる。その後250年以上の苦難を経て、黒船来航に始まる混迷の時代に入り、そこに吉田松陰が登場する。そして松陰の教えを受けた志士たちの手により明治維新・・・。

展示室の外の通路には「萩ゆかりの人びと」として、その人たちを紹介するパネルがずらりと並ぶ。中でも「政治・軍事」に分類される人たちが目立つ。首相在任日数が通算の最長記録であると紹介された桂太郎のところには、その後、安倍晋三が歴代1位になったことの紹介文が追加されている。通算在任日数で1位・安倍晋三、2位・桂太郎、3位・佐藤栄作、4位・伊藤博文と上位を山口県出身が占めていることを誇らしげに記載している。そして時代は経過するが、ここ山口県内においては国会議員の顔ぶれを見ても、まだ他県以上に旧態依然とした、藩閥政治の名残があるように思う。

高杉晋作のコーナーがある。維新の原動力となったのは当時の藩側(俗論党)を打ち破った改革派(正義党)ではなかったか。ただ、最初は改革派といっても、いざ政権の側につくと果たしてどうだったか・・・。今でも、長州では「維新」というイメージだが、現在の政治の世界ではガチガチの保守で、それこそ「俗論党」のようになっているように見えるのだが・・・。

萩博物館でいろいろ見学するうちに結構時間が経った。そろそろ、東萩駅に戻ることにする。あいにく、途中から雨に遭った。実はこの時季にも関わらず、折り畳みを含めて傘を持って来るのを忘れていた。幸い、羽織っていた上着がフードつきだったので、それを頭にかぶる。頭を覆うだけでも雨の不快感は多少なりとも和らぐが、何だか萩に来て踏んだり蹴ったりのような気持ちも多少ある。

途中のコンビニで昼食を仕入れて東萩駅に到着。ちょうど、14時13分発の「〇〇のはなし」が出発するところだった。2両いずれもそこそこ乗客で埋まっている。目の前にこうした列車がいるなら乗ってみようという人がいてもおかしくないが、その出発地の東萩では指定席を購入することはできない。事前のネット予約でも東萩で発券することもできない。それって正直どないやねん・・・。

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