まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大宰府「令和」ゆかりのスポットを巡る

2019年05月05日 | 旅行記H・九州

4月29日、この日は昭和の日である。何でもSNSでは、「平成最後の昭和の日に、JR大正駅で明治のRー1を飲む」というのが話題になったそうだ。Rが令和のイニシャルでもあり、「Rー1」と令和元年をかけているのだが、中にはさらに踏み込んで「そのR-1を飲んだ『慶応』大の学生」というのがいることだろう。もっとも、慶応の前の元治、文久、万延、安政となると投稿は無理だろう(万延なら、ノーベル文学賞も受けた大江健三郎の『万延元年のフットボール』があり、慶応大の学生がその本を片手にRー1を飲むこともありだが)。

・・で、何の話だったか。

福江島へのツアーの途中で博多駅から10時間の自由時間があり、それを利用して太宰府市まで来た。前の記事で、太宰府天満宮参詣と九州国立博物館見学について書いたが、その後で大宰府政庁跡まで歩くことにした。太宰府駅横を通る県道沿いの歩道を歩けばよい。

大宰府政庁跡の手前(東)にあるのが観世音寺。立ち寄りというのはここである。

観世音寺は九州を代表する古寺の一つ。大宰府という当時の副首都にくっつく形で存在するが、元々は、中大兄皇子が母の斉明天皇が百済救援の出兵途中で亡くなったのを弔うために建てられたとある。ただ建立が完了したのはそれから約80年後、奈良時代のことだという。往年は大掛かりな伽藍配置の構造で、唐から渡った鑑真により戒壇院が設けられた。鑑真は日本において、戒律を授けて正式な僧侶とするための仕組みをつくったが、平城京(東大寺)だけではなく、地方の僧侶に対して平城京まで来なくても戒律を授けることができるよう、西国では筑紫の観世音寺、東国では下野の薬師寺に戒壇院を造った。

しかしこうした「官営」の寺院は、平安時代以降に衰えるところが多かった。観世音寺も火災や台風の被害に遭っても復興させる者がなかなかいなかった。大宰府政庁そのものが律令政治の後に姿を消したのと通じるところがあるだろう。江戸時代に福岡の黒田氏や博多の商人たちの手で復興され、現在残っている本堂にあたる講堂や、その前に建つ金堂はその時の建物である。

観世音寺が大宰府で大きな伽藍を持っていた当時、唐から戻った弘法大師空海が滞在したことがある。遣唐使の留学生は規則により唐の国に20年はいなければならなかったところ、弘法大師は密教の正統を伝授されたとして2年ほどで帰国船に便乗して帰国した。これは規則違反ということで朝廷からの沙汰が出るまで都には戻るべからずとして、この観世音寺に2年ほど滞在したという。司馬遼太郎は『空海の風景』の中で、この観世音寺には都の情報が入りやすかったことを前提として、都に留め置かれて悶々としていたのではなく、自分の意志で滞在して経典や教義の整理をしつつ、密教の正統を持ち帰ったという自分の評判が高まるのを待っていたのではないかとしている。

かつて広大な敷地を持っていたその名残が残る講堂の前で雨の中手を合わせ、そのまま境内を後にする。ただ、知る人ぞ知る宝蔵は案内板があったものの入らなかった。今思えば残念なことをした。平安時代の作とされ、往時の観世音寺の繁栄を今に伝える仏像群が安置されているのだが、それを見ない結果になった。

いったん県道に戻り、しばらく西に進むと戒壇院がある。今は臨済宗の寺院として独立しているが、元々は観世音寺の伽藍の一角で、鑑真が開いたとされる西国の戒壇院というのはここである。

先ほどの天満宮の賑わいとは対照的に、大宰府政庁につながる歴史的スポットは他に訪ねる人の姿を見なかった。

そして、大宰府政庁跡である。奈良時代、平安時代において九州を治めるとともに大陸に対する外交・防衛の拠点として重要視されたところである。現在当時の様子を示すものは礎石の一部くらいだが、当時のスケールを少しでも今に伝えようと早くから史跡として整備されたところだ。ちょうど南から入る形でそのまま進むと「都府楼跡」の石碑が立つのが見える。都府楼は大宰府の別名で、現在もJRや西鉄の駅名にも使われている。

大雨で風もあるのでここは突き抜けるにとどめ、その先に進む。なおこの翌々日である5月1日には、政庁跡にて「令和」の人文字を作るイベントがテレビで中継されていた。

そこにあるのが坂本八幡宮。これまでは普通の氏神さんということで参詣するのもおそらく地元の人くらいのものだっただろうが、正にこの1ヶ月で全国的に有名になったところと言えるだろう。奈良時代には大伴旅人が大宰帥だった時の邸宅があったとされ、邸宅に役人たちを招いて「梅花の宴」を開いたとある。その歌会の序文の「初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫背珮後之香」から「令和」がつけられたということで、大勢の人が訪ねるスポットとなった。雨にも関わらず拝殿には行列ができている。

地元の人たちがテントを設け、パンフレットを配っている。これも急遽作成したものだろう。これによると現在の坂本八幡宮は、平安時代に寺院があったが廃れたところに村の鎮守として戦国時代に勧請されたと推測されている。

「令和の歌碑ってあるんですか?」とテントの人に尋ねる観光客がいる。上記の序文ではないが大伴旅人の歌碑はある。「わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩の 花嬬問ひに 来鳴くさ男鹿」という歌で、赴任後まもなく妻を亡くした旅人の妻を思う気持ちを歌にしたものという。ここ以外にも旅人の歌碑というのはあり、いずれ上記の序文も歌碑になるのではないかと思う。この令和ブームはしばらく続くのかな。

パンフレットをもらった時、「よかったら写真撮りませんか?」と声をかけられる。そこには額縁に入った「令和」の文字がある。つまり、新元号を発表した時の菅官房長官みたいに・・・というわけだ。そうするなら両手で額縁を掲げなければならない。大雨だが「パッと撮れば大丈夫でしょう」と言われ、スマホで何枚か撮ってもらう。後で画像を見て目線がうつむき加減なのは雨を我慢していたから。これはこのブログに載せるほどのこともないので、自分のお宝にしておく。

ここで折り返し、大宰府展示館に向かう。天皇陛下退位、新天皇陛下即位を祝う記帳所も設けられており、私も記帳させていただく。

こちらの展示館は以前からあり、大宰府の歴史を紹介するスポットなのだが、新元号「令和」に関する特別展示が展示室の中央を占めている。万葉集の一節もいろいろ展示されているし、その「梅花の宴」を再現した博多人形も飾られている。正面に座っているのが大伴旅人で、他の役人たちとともに梅花の下で官人が舞うのを楽しんでいる様子である。日本の元号で国書が出展元になるのは令和が初めてだが、こうしてビジュアル化されるというのもイメージが残り、親しみを感じられるように思う。

それにしても太宰府市では「令和」ブームである。かつての大陸との玄関口でもあり、文化的に先進性を有していたところの歴史を改めて見直すきっかけにもなっていると思う。この熱気がいつまで続くかだが・・・。

そろそろいい時間となり、太宰府駅に戻ることにする。歩いてもいいのだが雨が続いていたのでバスで戻る。

時刻はそろそろ16時。添乗員Kさんの指示とおりに携帯あてに電話する。通話中だったが折り返しの着信があり、五島列島行きのフェリーは予定通り出航するとの案内があった。ここで直接博多埠頭に向かう旨を告げると、21時45分の乗船開始に合わせて集合するよう指示される。

16時10分発の二日市行きに乗る。かつての特急車両を改装した「旅人」という観光車両が使われている。太宰府市の名所や四季の花を描いており、太宰府への旅を演出している。乗車が5分だけというのがもったいない(朝は天神まで乗り入れているようだ)。

二日市で急行に乗り換えて天神に戻る。博多埠頭の集合まで結構時間ができたので、福岡夜の部を楽しむことにする・・・。

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