まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

福江島~新門司港大移動

2019年05月19日 | 旅行記H・九州

1日半に渡る福江島の滞在を終えて、これから大阪に向けて戻る。またそのコースが大変なことになっており、改めて書き出してみると・・・

福江港13時40分~(ジェットフォイル)~15時05分長崎港~(タクシー)~長崎駅15時47分~(かもめ28号)~17時53分博多駅18時15分~(さくら566号)~18時31分小倉駅18時40分~(名門大洋フェリー送迎バス)~19時20分新門司港19時50分~(名門大洋フェリー)~翌朝8時30分大阪南港

ジェットフォイル、タクシー、在来線特急、新幹線、送迎バス、フェリー・・・と6つの交通手段が登場する。さらに、各駅ごとの乗り継ぎ時間がわずかしかない。往路は特急ソニックや夜行フェリーを乗り継いだが、往復それぞれで少しずつ違った乗り物ということで、ある意味たまらない。どこまでてんこ盛りなのだろうか。

また、博多から小倉の1駅だけ新幹線に乗るというのは、フェリーの送迎バスに間に合わせるための策なのだが、新大阪行きの列車なのでそのまま乗っていればその日の20時48分、つまりフェリー出航から1時間後には新大阪に着く。そこを一晩かけて戻るとは半分お笑いかと思うが、そこまで楽しませるのもクラブツーリズム流なのか。まあ、当初は長崎港から新門司港までバスで移動するプランだったし、往復で経路や交通手段が変わると、それは単なる帰り道ではなく、そこまでがある意味「往路」と言える。最後も船旅でとことん楽しもうということで、両方の船中泊を含めての「5日間コース」である。

さてこれから乗るジェットフォイルは長崎からの折り返し便で、「ぺがさす2」という船体である。手続きは済んでおり、桟橋の横にて乗船券を渡される。席の並びも男性一人参加が横並びで、乗船券を一枚ずつ引いて座る席を決めた。

13時40分の出航で、10分前には乗船開始ということでいったん解散するが時間はほとんどなく、フェリーターミナル内を散策するというわけにはいかなかった。すぐに乗船の列に戻る。

旅客定員は264名とあるがほぼ満席のようだ。大きな荷物は1階の出入口付近に置いて2階に上がる。ご一行は中央部の4~5列シートを割り当てられている。窓際ではないので外の景色を眺めるのは少し厳しい。気分は飛行機に乗ったようで、シートベルトの着用を促される。もっとも飛行機よりは開けた空間である。前方にテレビがあり、情報番組はちょうど新天皇陛下の儀式が行われた後で皇室、元号についての話をしているところ。

定刻となり、ゆっくりと船体が動く。ジェットフォイルに乗るのは初めてなので、どんな走りをするのか。前方に速度計があるので、少しずつ上がるのを見る。まず港内はじわじわと進み、沖に出ると速度を上げるようだ。

福江島が少しずつ離れるのが見えるに連れ、速度が上がる。最高で時速80キロ。速度だけ見れば高速バスのほうが速いが、海の上を浮かぶほうがスピード感を感じる。やがて、右手は水平線だけが見えるようになった。天候が穏やかだからか、揺れをほとんど感じないし、エンジン音もそこまでうるさくない。周りの乗客もちょうどお休みタイムとなる。

1時間25分のジェットフォイルも短く感じられる中で、前方に長崎市街地が見えてきた。それとともに、テレビが「水戸黄門」(それも東野英治郎版)の再放送となり、里見浩太朗・横内正版の「ああ人生に涙あり」のシブイ歌声が流れる。令和初日に昭和の水戸黄門に出会うのも面白い。伊王島大橋の下をくぐり、造船所のドックもちらりと見える。豪華客船も停泊しているようだ。今回長崎は完全にスルーなのがもったいないが、何せ大阪まで分刻みの移動なもので・・・。

ジェットフォイルを降り立ち、ターミナルも素通りする。この後はタクシーを8台予約しており、4人ずつ分乗するよう指示が出ていた。当然男一人参加4人が一組だが、「最後でええやん」との一声で8台目に乗車する。ジェットフォイルの中で添乗員Kさんから1000円入った封筒を渡されていて、タクシー代はこれで払ってレシートをもらうよう指示が出ている。

長崎駅までタクシーに乗るといってもワンメーターにも満たない距離で、個人の旅なら市電に乗るか、歩いてでも行ける距離。タクシーに乗っていたのは信号待ちを入れても10分となかったが、これもご一行が安全に乗り継ぐための手段である。

長崎駅に到着。改札口前で集合し、特急かもめと新幹線さくらの席の割り当てが書かれた紙を渡されて、そのまま改札を通る。これは団体乗車券扱いのためで仕方がないが、改札の中には売店がなかった。往路の小倉で同じように団体乗車券で改札を通った後は、改札内に売店もあれば立ち食いのうどんもあったが、長崎はそうはいかなかった。久しぶりの長崎だし、何か長崎市街の土産になるようなものでも・・と思ったが残念。

これから乗るかもめ28号は787系車両。九州新幹線開業前は「つばめ」「有明」などで活躍したJR九州の元エースである。この車両に乗ることができるのも(普段あまり特急に乗らない)乗り鉄としてはポイントアップだ。

発車までの間、せめてもの長崎での足跡として、旧国鉄急行塗装のキハ65気動車などをカメラに収めて乗車。割り当ての車両は荷物棚がないものの、シートピッチが広く取られていてバッグを足元に置いても苦しくない。

定刻に発車。長崎新幹線の開業と市街地の渋滞対策として高架工事が進む中を走る。その中で、浦上駅を出た後に見える長崎ビッグNスタジアムを確認する。いずれこの球場でも観戦したいものだ。

長崎線は二手に分かれる。長与回りの旧線、市布回りの新線ということで、特急は新線を通る。それでも行き違い停車がある。他の客の中には「何で停まるの?」と疑問の方もいた。

諫早に着く。ここも新幹線駅の建設中である。

ここで建設中の長崎新幹線について触れておくと、現時点では長崎から武雄温泉までを2022年に暫定開業させるという。鹿児島の九州新幹線も、先に鹿児島中央から新八代まで開業したが、今回もそのやり方を取る。武雄温泉から新鳥栖のあいだをどうするか、また並行在来線の扱いをどうするかで曲折があるようで、上下分離方式をとるとかJR九州が当面運行を続けるとか、今もなお流動的なようだ。

その新幹線は大村線方面に続くので、この先の長崎線は新幹線が開業すれば完全にローカル区間となる。特急で走り抜けるのもあとわずかだ。割り当ての座席はD席で、有明海とは反対側。まあ、同じご一行だが席を替われて言えるものではなく、有明海は反対側の窓越しに見る。それだけでも旅の幅は広がった気がする。

その代わりD席からは多良岳の姿が見える。地味ながら、長崎半島に続く陸地への押さえのような感じである。

またこの日、朝から時間が経つに連れて空が明るくなっている。福江島を出る時には晴天だった。太陽が西に向かうのを見て、「令和最初の夕日を見ることができるかもしれない」と勝手に期待する。

肥前鹿島に停車する。対向列車が遅れたのを待ったので、6分遅れとのアナウンスがある。

肥前山口は通過して佐賀県の中央部にさしかかる。広々とした平野である。そこに少しずつ西日が差し込んでくる。

次の停車は佐賀。ここで遅れが9分に広がる。博多での新幹線乗り継ぎは定刻で22分だが、それが9分遅れるとは結構慌ただしくなりそうだ。鹿児島線内で車両の異常を察知したので点検をしていたとかで、特急が乗り入れる長崎線にも影響が出ている模様だ。

新幹線との接続駅である新鳥栖、さらに鹿児島線との合流駅である鳥栖では遅れが13分に広がった。さすがにご一行にもざわつきが広がる。何せ次のさくら566号に乗れなければ名門大洋フェリーの乗船が危ういという綱渡りの乗り継ぎである。「何とかするんとちゃいますか?」と隣の男性は落ち着いた様子だが、在来線と新幹線ホームが比較的近いとはいえ、これ以上遅れるようだと厳しいだろう。私は、もしフェリーに間に合わなかったら後のこだま号でも構わない、追加料金を払ってもいいから今日中に大阪へ帰ろうやという気になっていた。それでも、往路でもし「太古」が結構になったら博多から陸路長崎まで移動して一泊して、翌朝のジェットフォイルで福江島に渡る・・という荒業を見せようかという添乗員である。フェリーに乗るための何らかの一手は考えているのだろう。「とりあえず、博多駅に着いたらすぐ降りられるようにしておいてください」とだけ触れて回る。

かもめ28号から新幹線に乗り継ぐ客は他にいるようだし、鳥栖を過ぎてからのアナウンスでは接続を取る方向での調整をしているとあった。鹿児島線に入ってスピードも上がったように感じられた。

少し霞んではいるが、車窓に太陽の姿を見る。フェリーに乗るまでのところで日は暮れるだろうが、「令和最初の夕日」を一応見たことにする。

かもめ28号はそのまま13分遅れで博多駅に到着。乗り継ぎ時間は9分で、後で確認したJRの時刻表に記載されている新幹線と在来線の標準乗り換え時間は7分とあったから、何とか慌てずに乗り換えることができる形だ。別に構内を走ることもなく、新幹線ホームに上がった時は1本前の東京行きのぞみが発車するところだった。

そして、さくら566号新大阪行きが到着。4列のゆったりシートに腰かけると、やはりこのまま終点まで乗って行きたくなる。個人旅行ならフェリーのチケットをフイにして新幹線の追加料金を払ってそうしただろう。ただ今回は団体ツアー。また、往復フェリーに乗るというのがツボである。

乗車時間はわずか15分で、その間にアンケート用紙の記入を求められる。泊まりがけでこうしたツアーに参加するのはほとんど初めてだっただけに団体ならではリズムやノリの違いや戸惑いもあったし、他の参加者と意気投合して・・というところまでは至らなかった(それは私のコミュニケーション力が不足していたのだろうが)。でも、初めて訪ねた福江島は面白く、今度は他の島も含めて行ってみたいし、福岡での10時間自由行動も楽しめたし、さまざまな乗り物を楽しめたのはよかった。紀行文がここまで長くなっていることにも現れている。

小倉に到着。ここも改札をそのまま出て、駅北のバス駐車場に向かう。名門大洋フェリーの送迎バス乗り場だ。そこに新しい観光バスが停まっていて、それに乗るよう案内される。これは完全にご一行のための貸切車両である。バスは北九州ナンバーの車両だが、ひょっとしたら、当初はこのバスで長崎港から新門司港まで移動しようというプランだったのかな。このまま新門司港まで直通する。

小倉駅前の交差点を右折しようとしたその時、道路の先に一瞬、真っ赤な夕日が見えた。ツアーの名前にもある「平成最後の夕日」は見えなかったが、「令和最初の夕日」のギリギリのところを一瞬とはいえ目にすることができた。添乗員含め他の方はどのくらい気づいたかわからないが、これでツアーのほうも面目を保てたと思う。

しばらくそのまま走る。遠くに関門海峡が見えるか見えないかのところだが、添乗員Kさんが関門海峡の案内をする。そこで出たのが耳なし芳一の話。新門司港までの間、その昔話の語りが入る。内容は有名なのでここでは書かないが、ナレーションだけでなく、芳一、和尚さん、亡霊の武将などの声を使い分けてKさんが語るのが堂に入っていた。「まんが日本昔ばなし」で、常田富士男や市原悦子が一つの話でさまざまな人物の声を使い分けるのにも通じる。語り終えると車内から拍手が起こる。語りの様子は、芳一がKさんで、ツアー客が平家の亡霊たち、子どもの参加者は安徳天皇かな・・・というのは、この後フェリー内での夕食で飲んだ時に酔いの中で想像したこと。

新門司港に到着。福江島からの長崎大移動を、途中ハラハラしながらもプラン通りにクリアしてフェリーに乗ることになる。「効率のよい移動」というのはこういうのを指すのだろうな。

いよいよこれから一晩かけて大阪に戻る・・・。

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福江島を出立する

2019年05月19日 | 旅行記H・九州

福江島での最後の見学スポットは石田城内の五島観光歴史資料館である。石田城の二の丸跡に城郭を模して造られたもので、平成元年の開館という。

石田城は幕末の開国の中で築城を認められた城である。やはり日本の最西端ということから、外国船を意識した造りである。今は埋め立てもあったので堀に見えるが、元々石垣の外は海に面していた。外国船の攻撃を防御する砦という意図があったという。石垣の色が途中で変わって見えるのは、潮の干潮により水位が変わることの表れだという。

資料館は平成の幕開けと共に開館した。そしてちょうど平成の終わり、令和の始まりに合わせて、ロビーでは平成の五島市の歴史を写真パネルで振り返る展示が行われていた。2002年(平成14年)に当時の天皇皇后両陛下が福江島を訪問された時の写真が一番の出来事として飾られていた。全国豊かな海づくり大会のため長崎県に来られて、合わせて地方視察として福江島の総合病院を訪問されたそうだ。

資料館は自由見学ということもあり、希望者は資料館には入らず城内にある五島氏の庭園に向かったようだ。時間が40分ほどなので両方の見学は厳しく、私は庭園より資料館のほうを選んだ。

まずは世界遺産であるキリスト教関連の紹介である。五島のキリシタンの歴史や現存する教会の紹介は前日からの復習のようなもの。また撮影禁止の札もなかった(はず)で、マリア観音像や十字架を描いた茶碗、ステンドグラスの一部などをカメラに収める。

また、五島の伝統芸能や産業の紹介もある。江戸時代には捕鯨も盛んで藩の収入源になったともいう。

2階展示室では、五島の先史時代からの歴史を順に追っている。弘法大師や遣唐使のことももちろんあるが、その中にこのような手形が展示されている。

「天長六年七月七日 於江島弁天法秘密護摩一万座修行 以其灰此形像 作者也 空海」とある。弘法大師の手形とされている。天長6年は西暦829年、弘法大師55歳の頃で、高野山で入定したとされる5年前のことである。その頃には東寺も高野山も開かれており、超有名人だったことだろう。この手形は、黄島にある延命院という寺の本尊である弁財天を刻んだ板の裏面にあったそうで、展示されているのはレプリカだが、指の間に、弁財天の護摩修行を一万回行ってできた灰で像を造ったとある。

弘法大師と福江島といえば、遣唐使としての「辞本涯」と、帰国後に虚空蔵菩薩の求聞持法の修行を行った明星院に接したが、他にもさまざまな伝説があったのだろう。それが五島にも八十八所めぐりがあるのにつながるのだが、もし弘法大師が実年齢の年に実際に改めて五島を訪ねていたとしたら、それはそれで面白いと思う。若くして苦難の末に唐に渡った時のことを懐かしみつつ、島の人たちのために弁財天の修行を納めようとか。あるいは自分が空海であることを秘密にして、一人の老僧として島の人たちと接したのかもしれない。

五島氏の治世下のこともあるが、伊能忠敬も福江島の測量に来たと紹介されている。その時、五島氏の家臣・坂部貞兵衛という人物が忠敬の助手として、あるいは分隊長として測量を助けたが、病のためにこの世を去る。忠敬は大いに悲しんで手厚く葬ったという。その測量図が展示されているが、今の地形図とほぼ変わらない。五島の測量に来た時には、藩内でも助手や分隊長ができる人材がいたくらいだから相当技術が浸透していたのだろう。

五島盛光。産まれは越後の新発田だが、五島氏の養子として家を継いだ人である。現在本丸跡に建つ五島高校の設立者でもある。その盛光の後継者の盛輝という人も横で紹介されていたが、年譜を読むと長崎の原爆で命を落としたとある・・。え?五島氏はその後どうなったのかな。まさか原爆で家系を断たれたとか?

福江では1962年に大火があった。福江の市街地の大半が焼かれたというが、死者が一人も出なかったのもすごい。大火から復興した町並みというのが現在の福江中心部の姿だという。

さまざまためになる資料館だった。今回は旅の最後、おそらく昼食へのつなぎに入れたと思う。福江島をざっくり回った後のおさらいという点ではよかった。逆に、資料館が最初だったらどうなっていたか。最初に五島の歴史を学んでいただいて・・というのはわかるし、私がプランナーならそんな行程にしたかもしれない。ただ、2夜続けてフェリーに揺られ、その後に「五島灘」でのウェルカム朝食バイキングやサザエの競り体験の次に資料館を持って来ていたら、参加者の反応はどうだっただろうか。

今回ご一行の31名の人たちは、何を目当てに、後は何がポイントとなってこのツアーに参加することを決めたのか。それはバラバラだと思うが、そうした人たちを最大公約数的に満足させる行程を組んだ添乗員Kさん、現地ガイドのSさんの配球にうなるばかりである。

五島にいるからか、資料館の記事までも長くなってしまったが、昼食時間が近づいたので資料館からほど近いカンパーナホテルに向かう。五島でもっとも格式のあるホテルとのことで、広間を仕切っての昼食である。

さすがに豪華とまでは行かなかったが、アゴを材料としたさつま揚げや、汁物代わりの五島うどんがある。また米は五島産のミルキークイーン。朝食の幾久山米といい、島でこだわりの米が栽培されているのに感心する。

少し時間が空いたので、ホテルのロビーで新聞を見る。そういえば朝コンネホテルでは朝刊を見なかった。やはり島となると時間差があるのかな。福江島でそうだから、ここからさらに船に乗らなければならない「二次離島」となるとさらに遅れるのだろう。船が週1便という黒島の年寄り母娘となると、そもそも新聞を見ることができるのかどうか。

5月1日、手にしたのは長崎新聞だが、当然話題は改元である。ローカル面では県内の様子も書かれていたが、バカ騒ぎをするわけでもなく、淡々と、粛々とその時を迎えた様子である。その中で地元企業が改元祝いの広告を連名で出すのは地方紙ならではかと思う。

時間となり、そのまま福江港に着く。前日からここまでさまざま案内していただいたガイドSさんともここでお別れである。いろいろ福江島や五島のことを語っていただいたおかげで得たものが多かった。今回上陸できなかった他の島も含めて、またいつか五島は訪ねてみたい。ありがとうございました。

さてこれから大阪に戻るが、往路に負けじと怒濤の移動である。添乗員Kさんがご一行を見渡してニヤリとしたところで・・・。

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