まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第19回中国観音霊場めぐり~第30番「長谷寺」

2021年05月14日 | 中国観音霊場

打吹地区の町並みをぶらついた後、打吹山の西側に回り込み、この日2ヶ所目の札所である長谷寺に向かう。「開山1300年」の幟が見えたところが長谷寺への上り口である。ちなみに手前には円形劇場くらよしフィギュアミュージアムがあり、これを目印にするのもいいかな。

今から1300年前というと、721年、奈良時代の前期である。元明天皇の勅命で、法道上人が開いたとされる(法道はここにも顔を出すのか)。近くには伯耆の国府、国分寺の跡があり、この辺り、国の中心である。もっとも当初は別の地に開かれたそうだ。古くには七堂伽藍を有していたようだが、はっきりしたことはわからないようだ。現在の寺は鎌倉時代に再興されたという。

長谷寺は打吹山の中腹にあるということで、まずは石段を上る。一部はコンクリートの階段となっており、後はちょっとした上り坂である。道端には地蔵像や丁石が残されている。

途中には不動堂がある。その奥にはちょっとした広場があり東屋もあるが、草生していてちょっと立ち入るのはためらわれるかな。

10分ほど歩き、まず本坊に着く。ただ先にお参りということでそのまま石段を上る。前方に、舞台造りの建物が見えてきた。先ほど「開山1300年」の幟とともにあしらわれていたのがこの本堂の舞台である。

いったん本堂を下から見上げた後、山門に向かう。改めて境内に入ると、年月を経た狛犬や石仏に交じって、真新しい狛犬が建つ。銘を見ると令和3年とあり、開山1300年ということで新たに奉納されたようだ。後でわかったが、先日の4月18日に記念法要が執り行われ、、本尊十一面観音の御開帳や絵馬堂の公開があったばかりとのこと。

こちらの本堂は室町時代に建てられ、戦国時代の兵乱で周りの建物が焼失したもののここだけが唯一残ったという。それが観音様のご利益ということでより多くの信仰を集めたそうだ。その後何度かの改築を経て現在にいたる。昔は多くの絵馬が奉納されており、絵馬の寺とも言われていた。この絵馬は本堂の奥で保存されており、見学は要予約(ただし当日でも住職の都合が合えばOK)とある。まあ・・・そこまではいいかな。

ちょうど舞台の外から吹き込む風が心地よく、椅子に腰かけてのお勤めとする。絵馬もそうだが、柱にもさまざまな札が打ち付けられている。

ここは天台宗の寺院であるが、なぜか本堂の中に弘法大師が祀られている。歴史的に何かがあったのだろうか。

納経帳ということで一度石段を下りて本坊に向かう。これで倉吉シリーズを終え、中国観音霊場めぐりも、鳥取市内の残り3ヶ所だけとなった。倉吉といえば打吹山の麓の町並みのイメージが強かったが、中腹にこうした古刹があるとは今回初めて知った。大和の長谷寺にも少し通じるところがあったようにも思う。

ここから市街地に戻るが、打吹公園の中を通って行くことにする。長谷寺の続きということで西国三十三所や四国八十八ヶ所の石仏、大山の下山大明神の祠が並ぶ。

途中に景色が開けたポイントがあり、西の方向に高い山々がそびえる。その真ん中で雪をかぶっているのは大山だろうか。

打吹公園はかつての打吹城という山城の跡地である。南北朝時代~室町時代に山名氏の守護所となったところ。後に毛利氏、南条氏が治めたが大坂の陣の後の一国一城令で取り壊しとなった。倉吉は江戸時代、鳥取池田藩の家老だった荒尾氏が町中に陣屋を置いて統治することになった。先ほど長谷寺に向かう途中にあった広い空き地は、当時の打吹城の出丸の一つだったそうだ。

公園ということもあって歩道も整備されていて、ゆるやかな下りが続き、新緑の中を歩いていく。やがて市役所や倉吉博物館などが建つ一角に出る。博物館に入ってみようかとも思ったが、実態は博物館というよりは美術館の色合いが強いうだ。この時の企画展は「片岡鶴太郎展」。タレント、芸術家として活躍されている方だが、今ここで作品を鑑賞しよう・・・とまでは思わない。

これで琴櫻の銅像まで戻ってきた。時刻はまだ13時半近いところで、当初の予定として倉吉で1日・・といった割には半日少しで札所も回り終え、実質終了である。一応、三朝温泉や倉吉の町並みも見たし、ホテルへのチェックインにはまだ早い。かといって、山陰線に乗ってどこかに出かけるには中途半端な時間だ。もう一度三佛寺投入堂にチャレンジ?・・・ないない。

ともあれ、バスで駅に戻ることにする。そもそも、昼食がまだである。私の旅では昼食を食いっぱぐれることがしばしばあるのだが、白壁の町並み地区には失礼ながら入ろうと思わせる食事処がなく、駅近辺のほうがまだ何かしらあったかなと思う。そんな中、駅前に戻るバスの中から「牛骨ラーメン」の看板が見えたので行ってみる。牛骨ラーメン、どこにもありそうだが実態は鳥取県の中でも西部、つまり伯耆の国で食べられる一品だという。

訪ねたのは「ラーメン幸雅」。「なつ旨ラーメン」の文字が書かれている。昼食のピーク時はとっくに過ぎているが客足が絶えることない。この「なつ旨」とは「なつかしくて旨い」の意味だそうだ。ラーメンにしては結構待った後に出てきたのは牛骨から取った出汁をベースにした塩ラーメン。懐かしいかどうかはともかく、あっさりした中でしっかり味が出ていた。

この一帯で牛骨ラーメンが流行したのは諸説あるそうだが、かつて大山の麓で「牛馬市」というのがあったことにも現れるように牛の流通が多く、そのため鶏ガラより牛の骨のほうが容易に手に入ったからというのが有力だそうだ。他にも、牛骨のほうが長時間煮込んでも出汁がよく取れて経済的だというのもあったとか。それなら他の牛の産地でも同様に広まってもよさそうなものだが、今のところご当地メニューとしてPRしているのは鳥取独特のようだ。

食事をするうちにそろそろホテルのチェックイン可能の時間、15時である。この日は早々とチェックインして、しばらく部屋でゆっくりすることに・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~三朝温泉と倉吉の白壁町歩き

2021年05月13日 | 中国観音霊場

第31番の三佛寺の参詣を終え、倉吉の市街地に戻る前に三朝温泉で下車する。

三朝温泉は「三たび朝を迎えると元気になる」といわれるラジウム温泉。三徳川沿いに温泉宿が並び、河原の露天風呂もある。もっとも奇数日の午前中は清掃のため入浴は不可とのこと。もっとも、入浴可といっても素っ裸で入るには結構勇気がいりそうだが。

観光案内所のバス停の目の前に「たまわりの湯」という公衆浴場を見つけたので、手っ取り早くこちらに入る。シャンプー、ボディソープの備え付けが受付で買い求める。その浴槽もそれほど広くなく、入浴客はそれなりにいるのに先客が四隅で長居していてそれほど居心地はよくない。まあ、三朝の湯にちょこっとだけ浸かったことにしてそそくさと出る。「六感治癒」にはちと遠かったかな。

再びバスに乗るのだが、ちょうど三朝温泉から打吹にある白壁の町並み方面に向かう路線があるのを見つけた。先ほどの三佛寺の方もご存知なかったようだが、やはり観光地同士を結ぶバス路線があってもおかしくない。これで多少ショートカットして打吹に向かう。

長谷寺を回る前に町歩きとする。まず向かったのはバス停の北にある倉吉線鉄道記念館。かつて、倉吉から関金を経て山守まで走っていた国鉄倉吉線の打吹駅跡地に建つ。駅とその周辺の廃線跡は打吹公園として活用され、現代アートも展示されている。

館内はかつての倉吉線の写真がいろいろと展示されている。かつては姫新線の中国勝山まで延ばす計画があったが断念、また打吹、西倉吉と倉吉の中心部を走る路線だったが、周辺の道路整備が進み、バスやマイカーの利用者が増えたことで全面廃止となった。現在でも一部区間は当時の線路が残されていて、年に数回開放してウォーキングイベントも開かれる。案内を見るとちょうどこの日(5月3日)も開催が予定されていたが、このところの感染拡大の影響で中止になったとある。

今度は打吹山の方面に向かう。かつては打吹駅からのメインストリートだったところ。

その道の突き当りに、両手を高く広げた力士の像が建つ。倉吉出身の第53代横綱・琴櫻である。現役時代は「猛牛」という愛称もあった。

すぐ近く、白壁の町並みの中の一軒の家が琴櫻記念館として開放されている。横綱土俵入りで使った化粧まわし、優勝額、トロフィーなどが数多く展示されている。私は琴櫻の現役当時の相撲は見ていないが、佐渡ヶ嶽親方・審判部長の印象が強い。親方としては琴風をはじめ数多くの関取を育てたし、審判部長として土俵下で睨みを利かせていたのもテレビで覚えている。千秋楽を終えて新たな横綱・大関が誕生することが確実になった時に、「佐渡ヶ嶽審判部長が臨時理事会の招集を要請しました」という形で放送されていたなあ。

定年にともない娘婿の琴ノ若に部屋を譲り、現在、その琴ノ若の息子が同じ四股名で幕内で活躍している。その関係か、佐渡ヶ嶽部屋の力士の3月場所の手書きの星取表も掲示されている。

鳥取県出身の力士でもっとも出世したのは琴櫻と言えるが、現在では鳥取城北高校出身の力士が活躍している。鳥取県出身として番付に出ているのは父が相撲部の監督を務める石浦が知られるが、モンゴルからの留学組ではこのたび大関に復帰した照ノ富士、逸ノ城、水戸龍などがいる。国内では沖縄出身の美ノ海・木﨑海の兄弟力士も鳥取城北出身だ。さらに引退組では元大関の琴光喜、貴ノ岩などもいる。

この後は白壁の町歩き。元々は室町時代に造られた打吹城の城下町で、江戸時代には陣屋町として整備されたところ。白い壁と、赤い石州瓦の組み合わせが味を出している。

その町屋を利用してさまざまな店が開かれている。倉吉は最近「フィギュアの町」としてPRしており、関連した商品も多く並ぶ。

2003年に大きな火災が発生して焼失した一角もあるが、そこも含めて町並みが保存されている。そぞろ歩く人たちの姿も多い。

これから訪ねる長谷寺は町並みの西の外れまで歩き、目の前の打吹山を上るコースである。テクテクと歩を進めることに・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~第31番「三佛寺」(投入堂は・・)

2021年05月12日 | 中国観音霊場

5月3日、晴天の中、倉吉駅前からの路線バスに乗り込む。発車までの間、「日本遺産 三朝温泉、三徳山行きです」という案内が流れる。この両スポットは「六根清浄と六感治癒の地」として日本遺産に認定されており、サブタイトルには「日本一危ない国宝鑑賞と世界屈指のラドン泉」とある。厳しい六根清浄の修行の後、温泉で六感を治癒するという組み合わせだ。

この日は中国観音霊場めぐりの倉吉シリーズということだが、まずは札所順番で後となる第31番の三徳山三佛寺にお参りする。この三佛寺といえば奥の院にあたる投入堂が有名で、これが「日本一危ない国宝鑑賞」の地である。断崖絶壁にどうやって建てられたのか、まるで外から投げ入れたかのようだということでその名がついた。実物でなくとも、旅番組やネットなどでもその姿をご覧になった方も多いだろう。

2019年に中国観音霊場めぐりを始めるにあたり、どういった寺があるのかリストを眺めていたのだが、この三佛寺は難関だなと思っていた。麓までは路線バスで行けるのでどうということはないが、この投入堂にたどり着くのはハードルが高い。本堂から40分~1時間かけて投入堂の近くまで行くのだが(建物保全のためお堂に入ることはできない)、急な上り坂、木の根をよじのぼったり、鎖場の上り下りもある。あくまで昔ながらの修行の地である。滑落事故も発生しており、中には死亡した例もあるそうだ。

寺のほうも「観光気分では上らないように」と注意を呼び掛けており、受付では衣装や履物のチェックが行われるという。特に履物が不適と判断された場合、草鞋を買って履き替えて上るのだという。また、冬季は登山道が全面閉鎖、それ以外でも雨天時などは閉鎖するという。

これがあったので、中国観音霊場めぐりに当たって三佛寺は冬季、雨の多い夏は避けようと思っていた。そして5月の連休に照準を合わせることになった。

坂道や鎖場は何とかなるとして、私にとってそれよりも高いハードルがある。それは「一人での入山禁止」というルールである。上に書いたように死亡事故も起こるくらいだから、寺としては安全を期すために複数人での入山ルールを厳として科している。

自分の旅のスタイルとして一人で回っている中で(単に同行の友がいないだけなのだが)、これはどうしたものかと思いながらプランニングをした。なお、下の本堂までは拝観料のみで一人でも行けるし、中国観音霊場めぐりとしてはクリアとなる。

投入堂まで行くとなると、一人の場合は境内を行く人に声をかけて一緒に登らせてもらう方法がある。ただそれもきっかけが必要で、状況次第だろう。境内で長いこと待って、同じように一人で来ていた人をつかまえて道連れで登ったというブログ記事もある。

・・さて、倉吉駅から三徳山行きのバスに乗ったのは私の他に3人、そして市街地のバス停から1人乗ってきた。いずれも若い男性で、地元の人には見えない。市街地を抜け、三徳川沿いに上っていく。

途中、三朝温泉を経由する。山間の静かな温泉地で、ここで1人下車。後は町らしいところもないので、全員が三佛寺に行くのだろう。

そして寺の入り口のバス停に到着。バスはその奥の駐車場まで行くのだが、ここで私のほかに2人下車した(残る1人はそのまま乗車)。本堂に続く石段の写真も撮っていたし、明らかに寺目当てである。いや、投入堂目当てと言っていいのでは。

・・・今思えば、ここで2人に私から声をかければよかった。向こうから見れば私のほうが年上で、遠慮もあっただろう。ただ、私もこういう場面でなかなか自分から声をかけられない性分なのである。

この後どうなったか。3人がお互いにけん制しているようで、私がしびれを切らす形でそのまま先に石段を上がり、拝観の受付をした。受付で「朱印帳を預かる」と書かれていたように見えたので中国観音霊場の納経帳を出すと、「あ、それは上の輪光院さんで受け付けてもらいます」と返される。

そしてやって来た支院の輪光院。住職らしき人がタイミングよく出てきて「ご朱印の方ですね~」と声をかけられる(受付から連絡が行っていたわけでもなさそうだが・・)。納経帳を差し出すと、「中国観音、どれくらい回りました?」と訊きながらパラパラめくる。

(寺)「(第30番の)長谷寺が飛んでますね~」

(私)「この後に行きます」

(寺)「大山寺、(書き置きの)紙でしたか~」

(私)「3月で冬の扱いだったので、納経所が閉まってました」

(寺)「(第28番の)清水寺も紙ですか~」

(私)「コロナがどうのこうの、とかで」

(寺)「(表側を見ながら)すごいですね~これだけ回って。私がいいなと思ったのが、(第15番、広島市にある)三瀧寺。あの寺は風情ありますな」

(私)「ちょうど、私も近くに住んでますよ」

(寺)「ここまで来たら、今日中には全部回れるんじゃないですか。(第33番の)大雲院も、最後にふさわしい立派な寺ですよ。楽しみにしてください」

・・・などとやり取りしているうちに、先ほどバスから降りた2人が連れだって奥に向かうのが見えた。そもそも納経帳は参拝の後に出すべきところ、先に出したことでこうした流れになって絶好のチャンスを自ら手放すことになってしまった。

まあ、お二人は何も悪くないし、むしろ(私がいなくて)ホッとしているのではないかな。

朱印・墨書をいただき、次の長谷寺への道を教えてくれる。バスで移動となれば、倉吉駅に戻る途中の竹田橋あたりで下車して、市街地方面に向かう系統に乗り換えて・・と親切に教えてくれる。「本当だったら、この投入堂を見てもらいたかったんですが」と言われるが、仕方ない。「宝物館には十一面観音や、投入堂に祀られた蔵王権現もあるのでゆっくり拝んでください」と送り出される。ここまで中国観音霊場を回った中で、ここまで納経帳をいじられたのは初めてだし、歓迎していただいたのも初めて。これはこれでよかった。

さらに奥に進み、本堂に着く。靴を脱いで中に入る。ここでお勤めである。

三佛寺は修験道の開祖である役行者が開いたのが最初とされる。大山と同じように古くからの山岳信仰の修行の場であった。平安時代、慈覚大師円仁が釈迦如来、阿弥陀如来、大日如来を安置して三佛寺という名前がついた。

その後も山岳修験道の霊場としての長い歴史を持つ。役行者が法力で投げ入れたという言い伝えがある投入堂だが、これまでの研究の結果、平安後期に建てられたと推測されている。時代が下り、江戸時代には鳥取藩の池田氏の保護を受け、現在に至る。投入堂以外にも文殊堂や地蔵堂などの建物が山上エリアに残っている。

本堂の裏が山上エリアの受付で、連休中、また天気がいいこともあって多くの人が訪ねている。負け惜しみ、ひがみを言うと、その多くは、本堂を素通りして投入堂に「ハイキングに行く」ように見えた。

受付の前で次のバスで一人で来た人を待ち受けるとか、やり方はあったはずだが、もういいかなとここで引き返すことにした。もう少し私に執念とか、粘るとかいうのがあればいいと思うのだが・・。

本堂の下が宝物殿である。三佛寺の歴史が紹介されるとともに、かつて投入堂を支えていた柱の1本も展示され、手で触ることができる。思ったより細い。他にも諸仏があり、中国観音霊場としての本尊である十一面観音像もここに安置されている。先ほどの輪光院の住職の話だと、元々は十一面あったのが、頭の他の顔がすべて欠けてしまい(盗まれてしまい?)、今では聖観音像になっているとか。

他にも、投入堂に安置されていた蔵王権現の数々もこちらで祀られている。さすがに、投入堂にそのまま祀っていたのでは持たないだろう。まあ、投入堂には行けなかったが、お堂の中身に手を合わせることができたことでよしとする。他のハイキングの人たちも、せっかくなのでこの宝物殿に立ち寄ればいいのにと思うが・・。

これで帰りのバスを待つが、少し歩いて奥の駐車場に向かう。その先に、投入堂の遥拝所がある。上ることができない場合でもここからはいつでも遥拝することができ、ここもそこそこの数の人が訪れていた。双眼鏡も備え付けられている。

手持ちのデジタルカメラがそれほどズームできないので、画像ではどこに写っているのかわかりにくい。ただ、現地では肉眼でも案外大きく見えた。まあ、これで投入堂も拝んだことにする。それにしても、どうやってあそこに建てることができたのか。いずれ、さまざまな科学の力で判明する時も来るのだろうが、「役行者が法力で投げ入れた」という伝説はそのまま残してほしいという気持ちもある。

帰りは駐車場から折り返しのバスに乗る。次の参道入口で、朝一番で投入堂に登ったとおぼしきご夫婦や子供連れが乗ってくる。足元が泥で汚れていて、おそらく前日あたりの雨の残りだろうか。いいですね、お疲れ様です。

投入堂については、某ツーリズムの「ハイキング中級」で訪ねる大阪発の日帰りツアーがある。実は、今回の中国観音霊場めぐりで投入堂に行けないことも想定して、後日開催のこのツアーを申し込んでいた。これなら団体客ということで入山は問題ない。ただ、緊急事態宣言の延長を受けて催行中止となった。もっとも、仮に催行されたとしても、こうして現地に来てみると、ハイキングツアーに参加してまで行くものではないなということでキャンセルしたと思う・・。

もうええわ。投入堂に対してすっかり「投げやり堂」である。

気分を切り替えて長谷寺に向かう。投入堂への往復がなくなった分、この先は時間に余裕がある。教えていただいた竹田橋のバス停に戻る前に、せっかく来たので三朝温泉に立ち寄ることに・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~東郷温泉にて1泊

2021年05月11日 | 中国観音霊場

5月2日、宿泊最寄である松崎で下車。無人駅だが、東郷温泉、羽合温泉の玄関駅である。駅前からの道の突き当りには東郷湖の水面も見える。

松崎という駅名で思い出されるのが、宮脇俊三の『最長片道切符の旅』。この中で、翌朝、夜行列車で着く同行者と倉吉で合流する予定だった宮脇氏だが、倉吉に手頃な宿泊施設がなく、向かったのが松崎駅すぐの東郷温泉。旅館では「板前が忘年会で不在でして」と恐縮されたが、それでも山盛りの松葉ガニが供されたり、不調法ながらと番頭が柿をむいて差し出したりと、結構な夜だったようだ。

今回、倉吉にホテルがなかったわけではなく、当初は5月2日、3日と同じホテルに連泊しようと考えていたのだが、宿泊地を増やすという意味で1駅隣の松崎を選んだ。

やって来たのは、駅から徒歩すぐの「水明荘」。東郷湖畔に中国風の建物がある。東郷温泉がある湯梨浜町の町営国民宿舎。同じ湯梨浜町の旧東郷町エリアには燕趙園という中国庭園があり、この建物もそのノリの延長で建てられたのかな。もっとも、施設内はごく普通の内装で、中国モノがあふれているわけではない。

基本は温泉宿の和室なのだが、一人向けにはシングルルームもある。ただし、トイレつき、入浴は大浴場でということだが、部屋そのものは結構狭い。そこは割り切りが必要だ。

テレビをつけてみる。BSが映らないのは設備的なもので別に驚かないが、チャンネル構成が意外だった。島根、鳥取両県の民放は日本海テレビ(日本テレビ系)、山陰放送(TBS系)、山陰中央テレビ(フジテレビ系)の3局で、テレビ朝日系、テレビ東京系の放送局はない。ただここでは、岡山・高松の瀬戸内海放送(テレビ朝日系)、テレビせとうち(テレビ東京系)、さらには神戸のサンテレビが映る。

これは地元の鳥取中央有線放送というケーブルテレビでの地上波プランだそうだ。このおかげ?で、夜から翌朝にかけては、倉吉にいながら香川の天気予報を見たり、岡山で家を建てようというCMを見るということに。この日は中継がなかったが、倉吉にいながらサンテレビの阪神戦の完全中継を見ることも可能だ。

その一方で、ネット環境が整っていなかったのは残念である。パソコンを持参して、先日の日帰り乗り鉄の記事の続きを書こうと思っていたのだが、アテが外れた形になる。まあ、ここの客室においてはネットの需要がそこまでないのかもしれないな。

食事まで時間があるので先に入浴とする。2階の大浴場はそれほど広いとまではいかないが、ちょうど視線に東郷湖の穏やかな湖面を見ることができる(画像は、大浴場に近い角度で撮ったもの)。対岸に建つ旅館群は羽合温泉。

さて食事。浴衣姿で大広間に向かう。1グループずつ離れて席が用意され、隣とは衝立で仕切られている。畳の上での椅子なのでくつろげる。一人客も5組ほどいて、あとは家族連れである。このご時世なので宴会のように盛り上がる客もおらず、かといって子どもが騒いだりするわけでもなく、静かな食事会場である。

料理は季節の会席コースということで、前菜、造り、カルパッチョ、鍋物、焼き物、揚げ物と一通り揃う。どこからどこまでが鳥取の地物かという詮索はしない。

酒は、生ビールの後でおとなり琴浦町の鷹勇を徳利でいただく。夕食のボリュームの予測がつかず、先ほど倉吉駅前でいろいろと仕入れていたのだが、これだけあれば食事も満足である。買い出しした多くは翌日以降に「温存」することができた。

食後、最上階(5階)にある露天風呂に向かう。こちらは小ぢんまりとした浴室だが、風に吹かれて夜景を眺めることができる。

後はどこかに出歩くわけでもなく、部屋でのんびりする。ネットが使えないので、皮肉にもパソコンでブログの記事を書くことから解放された気分である。ケーブルテレビの鳥取中央有線放送も見てみる。湯梨浜町、琴浦町、北栄町の3つの町をエリアとしたケーブルテレビで、オリジナル局では地元のニュースやら町の人や企業の紹介なども放送されている。旅に出てホテルに泊まるとたまにこうした地元ケーブルテレビに出会うが、手作り感満載で、1泊限りで見ると一般の地上波の番組より面白かったりすることがある(あくまで、1泊での出来事。毎日こればかり見せられるとウンザリするだろうが)。

さて翌朝、5月3日。朝食が7時半開始ということで、その時点でのんびりしたものである。大浴場が5時半から開いているので早速朝風呂とする。今度は朝日を受けた東郷湖の景色である。温泉と東郷湖の眺めを楽しむことができ、この時点で宿泊地を松崎と倉吉に分けて正解だったと思う。

朝食も同じく大広間の同じ席でいただく。バイキングではなく配膳式だが、おかずの種類も豊富でご飯が進む。

支度を整えて松崎駅に向かう。乗るのは8時20分発の米子行きで、倉吉まで1駅移動する。この3日、そして翌4日は晴れの予報で、これからメインイベントとなる中国観音霊場めぐりにはもって来いの天気である。

さて、札所の順番で行けば倉吉市の中心部である打吹地区にある第30番の長谷寺が先だが、ここはあえて第31番の三佛寺を先に目指す。倉吉からバスで入った三朝温泉を抜け、さらに奥にある三徳山にある。バスがおおむね1時間に1本で、三徳山まで35分とある。先に奥地に向かい、午前中いっぱいが三佛寺、途中三朝温泉にも立ち寄り、午後からの倉吉の町並み見物と合わせて長谷寺を回り、夕方に駅前のホテルにチェックインという組立である。

倉吉駅から8時35分発の三徳山行きのバスに乗る。今回一人で向かうのだが、バスにはどういう相客がいるのか気になるところだ・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~「あめつち」で宍道湖から東郷湖へ

2021年05月10日 | 中国観音霊場

5月2日、山陰線の観光列車「あめつち」での一献で心地よい移動である。

列車は宍道湖に差しかかる。ここが見せどころとばかりに、列車のオリジナルソングである「あめつちのテーマ」が流れる。雲は出ているものの空は青く、「あめつち」の車両カラーにもぴったりである。

車内放送で「宍道湖七珍」の紹介がある。スズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマサギ、シラウオ、コイ、シジミ・・・それぞれの頭文字を取って「すもうあしこし(相撲足腰)」と覚えるのだが、現在ではいずれも高級食材である。この中でまだ気軽に手が届くのはシジミくらいかな・・。

松江に到着、ここで4分停車。駅員が横断幕を持って出迎える。出雲市では入線してすぐに発車したこともあり、まずは慌ただしいながらも列車の記念撮影タイムである。

続いては宍道湖から中海に移る区間で、安来に到着。列車待ち合わせの時間が長く、こちらでも記念撮影タイムである。安来といえば中国観音霊場めぐりでも訪ねていて、歩道や境内に雪が積もる中歩いたのも印象的だ。

安来を過ぎて鳥取県に入り、15時33分、米子に到着。出雲市から2時間近くかけて走ったことになる。特急「やくも」なら1時間、鈍行でも1時間半で結ぶ区間だが、途中直江、安来での長時間停車による。その間に車内での飲食も終え、米子で下車する人も結構いる。まあ、一つの列車に乗って楽しむなら2時間くらいが妥当かな。一方で入れ替わって米子から乗車する客もいる。この先倉吉まで1時間、鳥取まで2時間かけて走るから、実質米子で前後半が入れ替わるようなものだ。

山陰線といえば日本海に沿って走る姿がイメージされるが、「あめつち」が走る出雲市~鳥取間というのはそれほど日本海に近いわけではない。車窓として一番の見どころは宍道湖と言っていいが、それは別に「あめつち」のせいではない。

この区間でも大山口あたりでは風力発電の風車が並ぶ景色、少し離れているが日本海と漁村の瓦屋根群を見ることができる。

山陰地方最古の駅舎が残る御来屋でも列車行き違いのため長時間停車する。扉を開けて外に出られるようにすればとも思うが、そうすると停車駅扱いとなり、指定席券の発売もしなければならなくなるからややこしいのだろう。あくまで、運行ダイヤの都合で長時間停まるだけで、車窓見学くらいでちょうどいいのかな。

駅といえば、「コナン駅」の愛称がある由良でも行き違い停車。ちょっと「あめつち」の世界観とは異なる感じだが、こうした駅で客扱いしてもいいかなと思う。

16時34分、倉吉到着。今回の札所めぐりのベースであり、宿泊のために下車する。乗り鉄を満喫するなら終点の鳥取まで行くところだが、倉吉まででも十分満足である。

さて、翌日の札所めぐりの最寄り駅ということで当初から倉吉に泊まる予定にしていたが、いったん改札口を出て、後から来る17時03分発の鳥取行きに乗り継ぐ。やってきたのは「まんが王国とっとり」ということでコナンのキャラクターをあしらった車両。

当初は、倉吉で2泊することにして駅前のビジネスホテルを連泊で取っていた。ただ、せっかくならあちこちに泊まるのもいいかなと、近場で1泊、そして倉吉で1泊に分けることにした。そこで見つけたのが、1駅鳥取寄りの松崎下車の東郷温泉。翌朝の列車で倉吉に出れば同じことである。出雲市からの乗車券も松崎まで買っていた。

そして17時09分、松崎に到着。これまでにも途中下車で訪ねたことはあるが、宿泊では初めてである。まずは駅すぐ近くの東郷湖に向けて歩くことに・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~観光列車「あめつち」にて飲み鉄

2021年05月09日 | 中国観音霊場

5月2日、出雲市から観光列車「あめつち」に乗る。今回の札所めぐりにおけるイベントの一つである。

キハ47の改造車両で、「あめつち(天地)」というのは「古事記」の書き出しの言葉である。出雲をはじめとした山陰は神話にも多く取り上げられている地域で、列車名にも奥ゆかしさを感じる。

入線から発車までは2~3分しかなく、慌ただしく写真を撮って乗車する。そして発車。

2両編成の列車は、いずれの車両も海側を向いたカウンター席、4人掛けのテーブル席、そして山側は2人向い合せのテーブル席が並ぶ。テーブル席はグループ、カップル客がいるかと思うと、1人で占領しているところもある。2両見渡して、テーブル席でも知らない客同士が会い席になっているところもなく、それぞれゆったり過ごしている。

で、私が割り当てられたのはカウンター席。これはいいのだが、目の前は縦に細長い窓。これは元となったキハ47の窓枠がそのまま反映されている。元車両で座席だったところは上下に仕切られた窓が残っていて、1両に2ヶ所ついていたドアの1つのところも座席にしている。元々ドアだったところは広い窓がつけられ、展望もよくなっている。そしてその横、元々戸袋だったところ・・・が私の割り当ての席だ。

そして、改造車両につきものだが、座席と窓枠の位置が合わないところも多い。席によって当たり外れの差が多いのではないかと思う。

それを補うわけではないだろうが、車内のいたるところで鳥取、島根両県の産品や工芸品があしらわれている。テーブルに埋め込まれたタイルは石州瓦、窓枠には隠岐の松や智頭の杉が使われている。洗面所の手洗い鉢は鳥取の岩井窯だったり。

この列車のプロデュースには出雲出身の映画監督・錦織良成氏も携わっており、車内には錦織氏による「あめつち手帖」という小冊子が置かれている。沿線の魅力について独自の視点で触れられている。この先、この冊子も読みながらの車窓である。

出雲市を出て斐伊川を渡る。まずはここで徐行。先ほどもこの川べりをバスで通って来た。ヤマタノオロチ伝説の元になったとされ、また上流の奥出雲ではたたら製鉄がさかんだったということで、出雲の歴史的な川である。この先でも車窓のいいところでは徐行運転をするという。

発車直後に車内販売員が回ってきて、一人ずつ食事の予約の有無を確認する。実はこの列車に乗るに当たり、車内での食事プランを予約していた。出雲市発の便には「山陰の酒と肴」、「松江の和菓子詰合せ」の2種類がある。これらはJRの窓口やネット販売では扱っておらず、日本旅行のサイトでの事前受付となっている。今回、「山陰の酒と肴」を買い求めており、事前に自宅に送られていた引換券を販売員に渡して、運ばれるのを待つ。

出雲市の次の直江で20分ほど停車する。山陰線は一部を除いて単線で、その中で特急も走る区間である。列車の行き違い、追い越しの合間を縫って走る「あめつち」だが、長く停車する駅でも扉は開かない。その間はじっと待つことになる。

そのタイミングで車内にはサックスとピアノの軽快なBGMが流れる。「あめつちのテーマ」という、地元島根のシンガーソングライター・浜田真理子さんの作品である。この時はボーカルなしだったが、この先の徐行区間では歌声も入る。歌詞には「駆け抜けよう」という言葉が多く使われている。山陰は山陰でも「SUN-IN」をイメージさせる感じだ。

直江を出たところで「山陰の酒と肴」がやって来た。私の乗った1号車では他に2~3組が注文していた。そして、目玉が「あめつち」のオリジナルラベルをあしらった「豊の秋 花かんざし」の1合瓶(地ビールとの選択制)。飲食店での酒の提供停止を要請している東京や大阪の知事が見たら怒り狂うやろうな・・。

器は小ぶりだが、島根牛、大山鶏、長芋、穴子、出雲そばの素揚げ、四季の野菜など、島根、鳥取両県の名物がふんだんに盛り込まれている。酒のアテが並ぶと言えるし、ミニ会席とも言える。別に飲んだからといって騒ぐわけでもなく、カウンター席の隣のご夫婦も静かに召し上がっている。

列車内での一献を楽しむうちに、「あめつち」は宍道湖に差しかかる。駆け抜けよう・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~広島から出雲市へ中国山地横断

2021年05月08日 | 中国観音霊場

5月2日、広島駅新幹線口9時00分発の一畑バスの出雲市駅行きに乗る。乗客は10名ほどである。この日は出雲市まで北上し、山陰線を観光列車「あめつち」で横断して倉吉に向かう。

続く広島バスセンターでも乗客は2~3名。初めて乗る路線なので、これがコロナ禍の影響で乗客が減っているのか、あるいはもともとこのくらいの乗車率なのかは何とも言えない。私が座ったのが進行左側の最前列の席。ちなみに右側の最前列の席はネットでも座席指定ができないようになっていた。これはコロナ対策というよりは乗務員のためのスペースのようだ。

広島バスセンター横の旧広島市民球場跡地を見下ろす。こちらでは3~5日にひろしまフラワーフェスティバルが開催される。昨年は緊急事態宣言発令中のため中止、今年は規模を縮小しての開催ということで、市民球場跡地にはメインステージが設けられ各種ショーが行われる予定だったが、結局ここでは無観客開催、ステージの様子はライブ配信のみとなった。

高速4号線を経て、大塚駅に停車。広域運動公園の一帯のエリアを抜けて、広島西風新都インターから広島道に乗る。広島から山陰方面に向かうバスの定番ルートである。山がちな一帯に入ると雨が落ちてきた。そういえば2日の天気予報も傘マークがついていたような。

広島道から中国道に入り、まずは三次インターを目指す。座席から運転席をのぞくと、時速80キロ区間で常に時速70キロをキープしている。雨が降っていてスリップ注意とはあるが、速度規制が出ているわけではない。余裕を持たせたダイヤなのかな。

特に渋滞があるわけでもなく、まずは休憩地の江の川パーキングエリアに到着。トイレ、自動販売機のほかにミニ売店がある。ちょうど、後から出発した広島発松江行きのバスがここで追いついた。

次の停車である三次インターでは、料金ゲートの外には出ずに敷地内に設けられたバス停に停まる。この路線も乗車専用、降車専用と区別しておらず、途中の乗降も可能だ。三次インターから1名乗車。予約はしていないようだが、空席はいくらでもあるので好きなところに座るよう案内していた。

三次東ジャンクションから松江道に入る。ここまで、前回の中国観音霊場めぐりで帰途に利用した松江~広島間の高速バスと同じルートである。国道54号線の改良道路という扱いで無料区間である。この道は尾道までつながっており、こうした無料道路の存在が中国山地のJRのローカル線には大きな痛手で、存続問題も出るくらいである。

2車線区間ということもありクルマが連なっており、中国道よりも通行量が多いようにも見える。その中で高野インターをいったん出て、「道の駅たかの」に停車。この間に、後から来ていた松江行きがそのまま本線を走って追い越す。

松江道にはサービスエリア、パーキングエリアがない代わりに、こうした道の駅を休憩スポットとして案内している。まあ、無料区間なのだから自由に出入りすれば済むことだが、この「道の駅たかの」駐車場には警備員が出るほど多くのクルマが立ち寄っていた。現在は合併で庄原市の一部になっているが、ここ高野町は広島県の最北部に位置する。広島県も結構広いのである。

4878メートルの大万木(おおよろぎ)トンネルを抜けると島根県に入る。中国地方で最も長いトンネルである。三段式スイッチバックもループ橋も真っ青の力業。今は高速バスのシートに身を任せているからいいものの、これだけ長いトンネルだと運転するほうは緊張するだろう。普通の追越車線がある高速道路ならまだしも、2車線区間である。2車線区間でも結構飛ばして、前のクルマとの間隔を詰めて煽るかのような運転をするのも結構いるので落ち着かないし、もしここで事故を起こしたり、あるいは事故に巻き込まれた場合、逃げ場がない。

雲南吉田インターで再び下車して、隣接する「道の駅たたらば壱番地」に停車。ここで1名下車。この一帯はかつてのたたら製鉄が盛んだったところ。この雲南吉田もかなり前に一度ドライブで来たことがあり、たたら製鉄の歴史スポットを回っている。また、中国山地のそうしたスポットもこれから訪ねてみたいものだ。

無料区間の最終となる三刀屋木次インターで下車して、下熊谷バスセンターに停車。国道54号線沿いにあり、ロードサイドの大型店も多数並ぶ。ある意味雲南市の中心部といってもいいところだ。1キロほど離れて木次駅があるので、そちらとの接続に使えないこともない。ここで松江道とは別れ、県道を走っていく。地図で見ると、この先斐伊川に沿って走るとそのまま出雲市まで行くことができる。

順調に走り、12時22分、終点の出雲市駅に到着。これから乗る観光列車「あめつち」は13時44分発ということで時間が中途半端にある。広島を1本早い便に乗ったとしても出雲大社まで往復するのは慌ただしい行程になるくらいだから、この時間からだと行くのは無理である。そこで、しばらくゆったりしようと、駅前の温泉に向かうことにした。ちょうど雨も止んだ。

駅南口からすぐのところにある「らんぷの湯」に入る。以前の中国観音霊場めぐりでも来たことがある。館内はランプの灯りが出迎えてくれ、ヒノキの浴槽がある浴室もランプのほのかな明るさが古民家の雰囲気を出している。

昼食ということで、駅構内の「麺家」に入る。出雲の割子そばをと思ったが、一番人気は「スサノオラーメン」とある。さらに、この両方をセットにした「出雲神話セット」というのもある。ラーメンと日本そば、どんだけ麺類好きやねんと思いつつ、面白そうなのでこのセットを注文する。

スサノオラーメンはなかなか濃厚な味噌味。このスープが好評ということでスープを1.5倍に増量したということで、出てきた時は中身が見えなかった。ほじくり出すと、卵にチャーシュー、メンマ、そして剣をかたどったかまぼこが出てきた。さすがにスープを全部飲み干すのは遠慮したが、これは美味かった。

その後は割子そばの二段。そばも悪くはなかったが、今回はラーメンのインパクトに押された形になった。やはりラーメンとそば、一食で同時にというのは欲張りすぎたかな。

入浴と食事、土産物の物色でそろそろいい時間になり、みどりの券売機で乗車券を購入して高架ホームに上がる。西出雲側から、青色に塗られたキハ47の「あめつち」が入線する・・・。

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第19回中国観音霊場めぐり~今回は鳥取県を横断

2021年05月07日 | 中国観音霊場

残り5ヶ所となった中国観音霊場めぐり。前回は3月中旬、まだ残雪のあった第29番の大山寺を訪ね、残すは鳥取中部、東部となる。そろそろ結願も見えてきた。

5月の連休に合わせて、このうちの第30番・長谷寺、そして第31番・三佛寺を訪ねることにする。今回、緊急事態宣言の発令に関係なく、前回終了後に、この連休に訪ねることに決めていた。

場所は長谷寺が倉吉の市街地、そして三佛寺は倉吉からバスで行った三朝温泉の奥にある。広島から倉吉への移動で半日かかるということもあるが、2ヶ所めぐりで1日を取り、そして次のエリアである鳥取まで前線を延ばしておくことを考えると2泊3日コースとなる。ならば、普通の土日ではなく、5月の連休に回るのがよい。カレンダーは5月1日~5日の5連休だが、前後にオフの日を設けるとして、5月2日~4日に出ることにする。

例によって、札所めぐりのエリアへのアクセスをどうするかで一つの記事となる。

山陰で一度乗ってみようという列車があった。観光列車「あめつち」である。2018年から鳥取~出雲市間で運行されている列車で、キハ47の改造である。これまで鳥取駅等での看板で見かけてはいたが、実際に乗る機会はなかった。せっかくなので今回、出雲市~倉吉間で利用することにした。乗るのは出雲市13時44分発の上り列車。

「あめつち」は全席グリーン車で、「◯◯のはなし」と同じく、カウンター席、2人席、4人席がある。グリーン車だから青春18きっぷでの利用はできず、それがこれまで乗る機会を得なかった理由とも言える。座席配置が変則的なため、ネットでは座席図を見て自分で席を選べないのだが、出てきたのは海側のカウンター席(まあ、みどりの窓口に行けば係員にリクエストできることだが)。

その出雲市には高速バスで向かう。広島から各方面に向かうバスの乗りつぶしにもなる。朝の初便は広島駅7時45分発、出雲市駅10時59分着。これなら出雲大社にも参詣できるかなと、出雲市駅からの電車、バスの時刻を調べてみた。ただ、往復はできるものの境内では駆け足になりそうだ。結局参詣は見合わせとして、次の便である広島駅9時発のバスで向かうことにした。これで2日の朝もゆっくり出発できる。出雲市駅では1時間半ほどの待ち合わせだが、さすがにその後の便だと間に合わない。

そして5月2日、広島駅新幹線口に向かう。4月29日に益田行きに乗ってからわずか3日後のことである。あの日は午前中強い雨が降っていたが、この日も朝だけ傘マークが出ていた。まあ、2日は移動日と割り切って、翌日の3日の天気がよければそれでよい。充実した札所めぐりになりますように・・。

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第18回中国観音霊場めぐり~松江から陰陽連絡バス

2021年03月23日 | 中国観音霊場

雪景色、春景色を見つつの大山寺からの帰りは、米子から松江に出る。この日(3月14日)は青春18きっぷは使わず、米子からICOCAにて松江まで移動する。11時56分発の西出雲行きは115系の2両編成。列車の短編成化にともなって中間車両に無理やり運転台をくっつけたタイプのものである。

前回の目的地だった安来を過ぎ、中海をちらりと見ながら進む。12時33分、松江に到着。

今回の復路だが、松江から広島への高速バスに乗ることにした。前回、1月の中国観音霊場めぐりの安来シリーズで、雪のために結局往復ともに乗れなかった路線である。松江市内がどうこうということではなく、途中の奥出雲、雲南地域の積雪の影響だった。

この日は松江駅14時発の便を予約していた。がっつりと山陰を楽しむなら夕方の便でも広島に戻れるが、この時に限っては、なるべく早く帰宅しようと思っていた。まあ、日曜の夜を家でゆっくり過ごしたいというだけのこと。バスの発車まで1時間半近くあるので、ここを昼食~昼飲みに当てる時間配分としていた。

松江駅の高架下に「大衆酒蔵」という心くすぐる看板がある。まあ、その中身は「よろこんで!」の「庄や」である。このところ松江に来るたびに店構えが気になっていたのだが、タイミングが合わずに初入店である(正しくは、何年も前のリニューアル前に一度訪ねているのだが)。

時間としてはランチタイム。店内は定食の人と昼飲みの人が半々というところで、昼飲みメニューはおそらく通常メニューの半分以下である。その中でいろいろ頼んだが、郷土料理という点でいえば、第15回(WEST EXPRESS銀河からつながる出雲の札所めぐりで訪ねた回)の帰途、松江でのちょい昼飲みに入った「はなの舞」のほうが充実していたように思う。別に「庄や」が悪いわけではないのだが。

駅前のバス乗り場に向かう。やって来た広島行きのバスは窓側の席がほぼ埋まるくらいの乗車率。

まずは宍道湖のほとりを走り、山陰自動車道に入る。

玉造、宍道といったところに停車して乗客を拾い、無料の松江道に入る。写真を撮り損ねたが、先日乗った木次線の線路を大きくまたぐ。陸上交通にあっては、線路の上をまたぐのは(歴史的に見て)先輩路線に対する後輩路線の礼儀とされているのだが、こうした廃止も取りざたされているローカル線と、地方自治体のおかげで無料区間として開通した自動車道だと、どうしても自動車道がローカル線をあざ笑うかのように走っているように感じられる。

それならば高速バスは途中エリアの人たちが大いに利用しているのかとなると・・・それは別の話。この先、木次線の線路からやや離れたところのいくつかのバス停に立ち寄るが、乗客はなし。まあ、沿線の人たちにとってはJRのローカル線も高速道路を行くバスも移動の選択肢には入っていないのだろう。最初からクルマで移動したほうが早いし、何かと便利だ。

・・にしても、「無料区間」ねえ・・・。

バスはいつしかトンネルを抜け、島根県から広島県に入る。もっともこの辺りは広島県でも奥深い地域。

その後はウトウトしてしまったようで、気づけば三次東で中国自動車道に合流し、三次を通過して江の川パーキングエリアでの休憩のアナウンスだった。ここまで来れば広島への道も見えてくる。

その後は西風新都インターから広島高速4号線を経て、広島市街に入る。バスセンターを経て、まだ日があるうちに広島駅新幹線口に到着した。このまま帰れば日曜夕方の「サザエさん」に間に合うタイミングで、それほど移動の疲れを残さずに月曜からの仕事に臨めそうだ。

・・さてこれで鳥取県西部まで来たことになり、中国観音霊場めぐりは残り5ヶ所。倉吉・三朝シリーズ、そして鳥取市内シリーズということで、満願も見えてきた。もっとも、三朝にはあの難所も控えていて、アクセスも含めてどのように仕上げるかであるが・・・。

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第18回中国観音霊場めぐり~第29番「大山寺」

2021年03月22日 | 中国観音霊場

朝8時半、バス停から大山寺へ続く参道を歩く。ちょうどこれから大山登山をしようという人、前夜宿泊したロッジや旅館から帰ろうというクルマが行き交う頃である。

参道の途中には地蔵像が目立つ。その中で「弘化の大地蔵」というのがある。弘化は西暦に置き換えれば1845年から1848年に当たる。

10分ほど歩いて山門に着く。中国観音霊場めぐりの中で最も高い場所に位置する札所である。

山門の下に断り書きがある。朱印の書き置きの用紙がケースに収められている。冬期は日中でも諸堂を閉鎖している場合があるとのことで、大山寺のホームページでも告知されている。これが出ているということはお堂にも人がいないのだろうなと、先に書き置きを受け取る(代金はケースの中へ)。すでに中国観音霊場でもいくつかが書き置きのものを朱印帳に貼っているから、別にこだわりはない。

中国観音霊場めぐりの本尊は、石段を上がったところの下山観音堂。白鳳時代の作という十一面観音像で、現在は宝物館にあたる霊賓閣に安置されている。こちらの霊賓閣も3月いっぱいまで閉館中。まあ、それも承知のうえでのこの時季に来ているのだが。まずはここでお勤めとする。

さらに石段を上がると大山寺の本堂に出る。こちらは1951年に再建された建物で、本尊は地蔵菩薩である。鐘があったので打ち鳴らして、ここでも手を合わせる。

大山寺は元々山岳信仰の場として開かれたところで、寺として開かれたのは奈良時代、金蓮上人によるとされる。金蓮は元々猟師で、ある日大山で鹿を弓で射たが、近づいてみると、鹿だと思っていたのが実は地蔵菩薩だった。殺生が罪深いことだと悟り、出家して金蓮と名乗り、お堂を建てて地蔵菩薩を祀ったのが大山寺の始まりという。

平安時代になると天台宗の寺となり、別格本山として西日本の天台宗の一大拠点となった。多くの塔頭寺院が周囲にはでき、多くの僧兵も抱えていた。鎌倉時代の末期、後醍醐天皇が倒幕に失敗して隠岐に流されたが、伯耆の武士である名和長年の手により脱出した。その長年の弟が大山寺別当の信濃坊源盛という人で、僧兵を引き連れて各地を転戦したという。

また、大山は古くから牛や馬の守り神としても信仰されていて、全国から牛や馬を売買する人が集まり、市もできた。そのため、牛や馬の霊を慰める石碑や、撫で牛も祀られている。現代とはまた違った町の様子だったことだろう。

戦国時代には尼子氏、毛利氏の保護により多くの造営がなされ、江戸時代も幕府から寺の領地を認められた。ところが、この後で明治の神仏分離、廃仏毀釈が起こる。

現在はこの本堂や先ほど手を合わせた観音堂などの一帯が大山寺であるが、元々はもっと広い境内を有していた。それが神仏分離で大神山神社と大山寺に分けられた。本尊の地蔵菩薩も元々はこの奥にある大神山神社にて祀られていたもの。大山にもこのような歴史があったのである。

ということで、この奥にある大神山神社奥宮に向かうことにする。大山寺の本堂の横からも道があるようだが、雪に閉ざされている。試しに一歩足を踏み入れたのだが、膝の下まではまってしまった。さすがに雪中行軍は無理で、いったん石段の下まで戻り、改めて鳥居をくぐる。

かつての神仏習合の名残かなと思うのは、鳥居から内側にも地蔵菩薩像があり、石畳の参道の途中にも奥宮までの距離を示す丁石として地蔵菩薩が立てられている。また、磨崖仏のように彫られた阿弥陀如来像もある。神仏分離とはいってもこちらでは廃仏毀釈はそれほど行われなかったようだ。

銅の鳥居があり、かつての本坊である西楽院跡を過ぎる。そして「後向き門」を通る。最初に見た感じでは「どこが後向き?」と思ったが、門の閂が奥宮の外側に来るように扉が取りつけられたことからその名がついたそうだ。なぜそのようにつけられたのかは諸説あるようだ。

そして到着した大神山神社奥宮。大山は修験者の修行の場であったが、大山寺はその遥拝所でもあった。神仏習合の考えとして、大山の山岳信仰の神である智明権現を祀り、その本地仏として地蔵菩薩があった。神仏分離において、地蔵菩薩が切り離されて現在の大山寺の本堂(かつては別の名前のお堂だったようだ)に移され、大神山神社の祭神は大己貴神(大国主神)となった。なお、ここは「奥宮」と呼ぶが、さすがに冬の大山は今よりも雪深く、お勤めが厳しいということで麓の尾高にもう一つ社を立てて「冬宮」と呼んだ。現在の「本社」はそちらにある。

奥宮の現在の社殿は江戸時代の再建で、権現造り。中には入れなかったが、天井画の花鳥風月が有名だという。大山寺は無人だったがこちらには係の人もおり、お守り、朱印その他も受け付けている。

大山寺で訪ねたいスポットがあった。金門と賽の河原。大山の北壁を望み、かつての僧兵たちの修行の場であり、現在もパワースポットとして人気という。神社や大山寺の本堂奥から標識が出ていて道は続いているようだが、根雪に阻まれている。これが冬の姿で、石畳の参道だけ参詣者のために除雪されているのかなと思う。仕方なく、大山寺の境内下からその河原の下流だけ眺める。

これで大山寺、大神山神社と回って今回の中国観音霊場めぐりの目的は達成。参道を下り、土産物を物色したり、大山自然歴史館を見学してバスの時間を迎える。

10時45分発の米子駅行きで大山寺を後にする。やはりこちらが大山観光の表玄関で、観光道路沿いにレジャー施設も点在する。駐車場にも多くのクルマが停まっていて、春の自然を楽しんでいるようだ。もっとも、バスの窓から振り返る大山はあるところから上は雲に覆われて、2日間通してその姿を仰ぎ見ることはできなかったのだが・・・。

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第18回中国観音霊場めぐり~大山で1泊

2021年03月21日 | 中国観音霊場

3月13日の夜は大山で宿泊。夕方のバスで大山寺に到着して、ロッジやレンタルスキー店が並ぶ中、この日の宿である「ホテル大山しろがね」に到着。建物の前の駐車場には普通にクルマが停まっていたが、積雪がある時季は駐車場は閉鎖されるという。クルマの人はバス停がある大山ナショナルパークセンターの駐車場にクルマを置き、ホテルの雪上車で送迎するのだとか。

チェックインを済ませて向かった部屋は、10畳の和室にシングルベッドが2台備えられているツインルーム。もちろん、ベッドのない純粋な和室タイプの部屋もあるのだが、ネット予約した時にツインタイプしかなかったのか、あるいは私がよく見ずに選択したか。

この日は2食付とした。ホテルとしては地元食材を売りにしているし、また周辺に夜開いている飲食店、コンビニ等がないこともある(フロント横の売店で、土産物以外にカップラーメンや菓子くらいは買えるが)。レストランでの食事の時間は選べたが、早い時間の18時からとした。

部屋番号が書かれたテーブルに着くと、すでに前菜その他がセッティングされている。まずは生ビールをつけるとして、お品書きを見ながらそれらを楽しむ。

前菜は「紅ズワイ蟹みぞれ和え」、「あみ茸旨煮」、「春菊胡麻和え」、「白蕪田楽」、「鯖寿司」、「大山あけまの森ベーコン エリンギ巻き」。また刺身はアジ、イカ、ブリ、甘海老。野菜は大山の恵み、魚介類は境港からのものである。

鍋物はアマダイと豚ロース。また大山鶏の茶わん蒸しもある。

着席してから調理するという焼物は「境港銀鮭のタルタル焼き」、「海老のココット」。恥ずかしながら、「ココットとは何ぞや?」とスマホで検索してしまった。なかなか普段の自炊、また居酒屋メニューでは出てこない一品たちである。

大山の地ビールもあるのだが、ここは地酒の飲み比べセットに目が行く。純米セットの「鷹勇強力」、「八郷」、「自然紀行」が並ぶ。いずれも飲みやすくて料理によく合い、美味しくいただく。共通するのは、大山の水と大地の恵み。

1時間ほどかけての夕食を終え、部屋に戻る。浴衣に着替えて大浴場に向かう。こちらの浴場は温泉ではないが、大山の天然水を沸かしているという。大山はブナ林が豊かで、ブナの葉に集められた雨や雪がおよそ20年かけて腐葉土の地層を経て濾過され、地下水として蓄えられる。そのため大山の天然水はミネラルがバランスよく含まれていて、なめらかな「超軟水」。湯冷めしにくく体の芯までしっかりと温め、肌を潤すとある。ここにも大山の恵みである。

湯上りに、米子で買っていたチューハイなどを飲みながらくつろぐ。BSも映るのでチャンネルをいろいろ切り替えると、BS朝日でオリックス対巨人のオープン戦中継をやっていた。そういえば野球のオープン戦もちゃんと見ていなかったなと、試合途中からではあるが画面に注目する。

この試合、バファローズは開幕2戦目先発予定の宮城が5回まで好投、6回からは開幕3戦目先発予定の山岡が調整登板(翌日が開幕カードの西武戦ということで、あえて対戦を避けてこの日登板した模様)。打線は佐野が先頭打者本塁打を含む2打点でアピールし、3対1でバファローズの勝利。プロ野球も3月26日開幕、今季は広島から声援を送ることになったが、ぜひ大阪、神戸での観戦も計画したいものである。

外はそれなりに冷え込むようだが、暖房もほどよく効いておりゆっくり休める。10畳の部屋とはいいながら、実質使ったのは窓側の半分だけだったが。

翌朝。前日とはうって変わって明るい空である。この日は目的地の大山寺への参詣、11時前のバスで下山する予定である。寺にはそんなに早い時間に行かなくてもいいから、多少はホテルでのんびりできそうだ。天然水の朝風呂に入った後、正統派の旅館朝食で腹ごしらえとする。

チェックアウトして、いったんバス停がある大山ナショナルセンターに向かう。

前夜は暗闇と霧のために気付かなかったが、ホテル手前のリフト乗り場の近くにこのような石碑を見つける。「大関荒岩亀之助碑」とある。明治時代の大関で、大山の生まれという。建立されたのは昭和に入ってからで、石碑の揮毫は当時の時津風理事長、あの双葉山である。この荒岩は小柄ながらあらゆる技をこなす名人という評価があるそうだ。鳥取県出身の力士というのもそう多くなく、琴櫻が唯一の鳥取県出身の横綱であるが、「鳥取城北高校出身」なら現役力士含めて多士済々である。

この無料のリフト乗り場の向こうにはだいせんホワイトリゾートがある。ただ、訪ねた3月14日がシーズンの営業最終日ということで、大山にも春の訪れが見られる。

ナショナルパークセンターに着くと、登山客らしい人の姿もちらほら見る。室内は単なる観光案内所にとどまらず、シャワー室や小上がりの休憩スペースもある。大山登山をする人たちの支度部屋といったところだ。その大山だが、頂上(弥山)までは往復6時間という。この時季だとまだ冬山という認識でいいのかな。いずれにしても、素人が軽い気持ちで登るところではない。

コインロッカーに荷物を預け、これからいよいよ大山寺に向かう・・・。

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第18回中国観音霊場めぐり~大山口へ

2021年03月19日 | 中国観音霊場

大山寺を目指す今回の中国観音霊場めぐり。それと中国地方のローカル線大回りを兼ねる旅の途中で、山陽線で岡山に来てから津山線~因美線と乗り継いで智頭に到着。この日は日本海側では雨の予報で、智頭でもホームに退避して列車を待つ人が目立つ。

折り返しとなる12時56分発の鳥取行きは、智頭急行の車両の2両編成。先ほど1両の中に収まっていた乗客も2両に分かれてゆとりを持って乗車する。同じく津山から鳥取を目指しながらもいったん離れていた国道53号線と、千代川に沿って走る。昼食の後ということもあり、ボックス席でウトウトするうちに鳥取に到着。

鳥取には1月に西国四十九薬師めぐりの但馬シリーズの帰途に立ち寄った。その時は列車からバスに乗り継ぐために1時間近くいたが、今回は列車の乗り換えだけである。17分の接続で14時01分発の快速「とっとりライナー」米子行きに乗り換える。まあ、鳥取については中国観音霊場めぐりの満願の地であるし、また来ることになる。今の見通しでは間に倉吉シリーズを挟んで夏までには来ることができるだろう。

「とっとりライナー」は、アニメ「名探偵コナン」のキャラクターが描かれた車両。鳥取県は境線を走る「鬼太郎列車」が知られていて「まんが王国」をアピールしている。こちらの「コナン列車」も、ドアの横に「パシャッ」と書かれ、ちょうど列車に乗る前に記念撮影でもできそうなスペースがある。

快速といっても、鳥取近郊の青谷までは各駅に停まる。この辺りも海岸に近いが列車はやや内陸を走る。松崎を過ぎると、東郷湖に面した燕趙園の建物が見える。次の倉吉シリーズを回るにあたり、この辺りで泊まるのもいいかなと考えているが、なかなか手頃な宿がない。結局は倉吉の市街地に泊まることになりそうだ。

下北条に到着。「ようこそ 名探偵コナンに会えるまち 北栄町へ」ということで、コナン君のパネルがお出迎え。

その中心となるのは隣の由良。「コナン駅」の愛称もある。ここで下車する人、あるいはクルマで駅までやって来て「コナン列車」を撮影する人も何人かいる。少し前に山陰線のこの区間に乗った時には、大陸の人たちがこの駅で結構降りていたのを覚えている。ちなみに、中国語で「コナン」は「湖南(省)」ではなく「柯南」と書くそうだ。どうでもいいことだが。

雨は鳥取を出る頃には止んでいた。ただ曇天は続き、左手には大山が広がるはずだが見えず、右手に日本海からの風を受ける風車群を見る。

15時47分、米子に到着。大山寺へのバスは16時50分発ということで時間がある。かといって、鳥取から後の鈍行では間に合わない。また、先ほど通過した大山口からも16時50分発のバスが出ている。大山寺へは大山口からのほうが近いので、大山口発のバスに乗れば米子発より20分ほど早く着く。ただ先ほどの「とっとりライナー」で大山口に下車すると時間を持て余すので(地図で見たところ、駅周辺で1時間以上の待ち時間をつぶせそうなスポットは見当たらない)、いったん米子まで出て、次の列車で大山口に行くことにした。青春18だからこそできることだ。

米子駅前のコンビニで、この日の夜食その他を仕入れた後、16時15分発の「とっとりライナー」に乗る。先ほどの「コナン列車」が折り返す。鳥取からの便では通過したが、こちらでは停車する大山口を目指す。

ログハウス風の大山口に到着。下車したのは私ともう一人で、その人は迎えのクルマで駅を後にした。駅前で少し外れたところに大山寺行きのバスが停まっているので乗れるのは間違いないが、このタイミングでは米子方面に向かう列車もなく、バスに乗るのは私だけのようだ。

果たしてそうで、最後部の座席に陣取る。16時50分発だが大山寺への最終便である。途中、昔ながらの格式ある家が並ぶ佐摩の集落を抜ける。この辺りは坊領道と呼ぶそうで、かつての大山寺への参詣道で、またその名前から察するにかつて大山寺が所領としていた一帯なのかなと思う。

集落を抜けるとバスもスピードを上げ、周囲は大山の自然林に入る。外も暗くなってきた。そんな中17時20分、大山寺のバス停に到着。霧というか靄の中で、視界が効かない。最初は眼鏡が曇ったのかと思ったが、眼鏡を取っても同じである。そんな中、案内板を頼りに車道を歩く。ただ通りの店は軒並みシャッターを下ろしていて、外を歩く人もいない。一瞬、この先大丈夫かなと思ってしまう。

5分ほどで着いたのが、この日の宿である「ホテル大山しろがね」。幸い、駐車場には何台もクルマが停まっていて、ちょうど家族連れもチェックインするところ。ようやくホッとする。まずは翌日14日の参詣に向けて、ゆっくりした一夜を過ごすことにする・・・。

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第18回中国観音霊場めぐり~みまさかスローライフの道へ

2021年03月19日 | 中国観音霊場

広島から米子に向かうのに、降り立ったのは岡山。別にここから特急「やくも」に乗るわけではなく、向かったのは津山線ホーム。実はこの先、津山線~因美線~山陰線という大回りルートを取る。

そこに停まっているのは、津山線9時47分発の快速「ことぶき」。そして運用されるのはキハ47の「ノスタルジー」塗装である。内装を「ノスタルジー」に仕立てた車両は数年前から走っているが、その時から塗装が変わっている。以前は赤色の車体の窓の部分がクリーム色だったのが、今いるのはクリーム色の車体の窓の部分が赤色という、国鉄の急行色である。2020年の2月に塗色が変更されたそうで、かつて津山線~因美線を走っていた急行「砂丘」をイメージさせる。

また、「ノスタルジー」要素としては、かつての青色のシート、栓抜きのあるテーブル、「JNR」の扇風機(もっとも、据付型の冷房装置もついているが)といったところ。以前は「みまさかスローライフ列車」に代表されるように、岡山県内を中心に、昔懐かしい列車、そして田舎の風景を楽しむためのイベント列車としても運行されていたが、現在はコロナ禍の影響で中止となっている。まあもっとも、イベント専用にしてしまうのではなく、こうして定期列車として運転したほうが車両も活きるのではないかと思う。

青春18の客もちらほら見かけるが、地元の人のほうが多い様子で出発。座席も程よく埋まったが、次の法界院で結構下車する。岡山駅からバスも通っているところだが、所要時間でいえば津山線のほうが有利だ。法界院はこの中国観音霊場めぐりで二度参りした札所で、この先には特別霊場の誕生寺もある。岡山から鳥取を経て米子に向かうことで、先に列車等での中国一周ルートは完成する。

旭川沿い、そして田園が広がる中を快走する。快速のためスピードを感じるのはよいが、途中で列車の行き違いによる数分停車というのがないので、途中の駅で国鉄急行色の姿を見ることができない。まあ、これは乗り鉄では仕方のないことだ。

1時間あまりで津山に到着。津山の駅ホームじたいも昔ながらの風情が残っており、この塗色も駅によく似合っている。いったん改札を出るために連絡階段を下りるが、姫新線、津山線、因美線に今も残る古い駅舎の写真パネルもあり、見る人を楽しませる。またホームの端から扇形の機関庫も見える。今回は時間の都合で「津山まなびの鉄道館」は訪ねないが、またいずれ、姫新線あたりの乗車と組み合わせて来たいものだ。

次に乗るのは11時35分発の因美線の智頭行き。この前の列車は6時台、次の列車は14時台と、これも閑散とした区間である。鳥取と岡山、関西を結ぶ鉄道は智頭急行が中心となっており、岡山~鳥取を結ぶ特急「いなば」も、わざわざ兵庫県の上郡まで行った後で、智頭急行を走る。そのため、因美線の東津山から智頭までの区間は県境越えもあって閑散としている。まあ、その辺りが「スローライフ列車」の舞台にもなったところだが、あの手の列車は乗客も多く、また途中停車駅のイベントもごった返して、「スロー」ではなく「ラッシュ」だった印象もある・・。

駅内のコンビニで昼食を仕入れて乗車。早めにホームに入っていたので、単行のキハ120のボックス席に陣取ることができた。他にはロングシートも少し埋まる程度だったが、ちょうど隣のホームに新見からの姫新線の列車がやって来た。こちらからの乗り継ぎ客が意外に多く、ロングシートもほぼ埋まるくらいの乗車で出発。

市街地に近い東津山まで走り、ここから因美線に入る。沿線には菜の花や梅などが見ごろで、穏やかな景色の中を走る。ただその中でもやはり出てくるのは中国山地でおなじみの時速25キロの標識。文字通りのスロー列車となる。

美作滝尾に到着。映画「男はつらいよ」にも登場する木造駅舎で知られる。1928年の開業当時の建物がそのまま使われている。因美線の智頭までの区間はこうした昔ながらの建物が残る駅が多く、それもスローライフ列車の演出にも一役買っている。

この先も時速25キロ区間を挟みながらゆるゆると進み、同じく木造駅舎が残る知和、美作河井といったところを過ぎる。そろそろ鳥取県が近いが、ここに来て窓に雨粒がつくようになった。この日(3月13日)の天気は山陰側は曇り、雨の予報。どうやらその境界に差しかかったようだ。

県境の物見トンネルを通過。3000メートル余りの長さで、因美線の中では最難関のところ。現在のキハ120は勾配そのものはそれほど苦にはしないので、トンネルの中は快調に飛ばしていく。

鳥取県に入ると雨の景色となり、外も少し寒そうだ。広島では暑いだろうなと思いつつ、この先大山まで行くのだからと雨避けも含めて多少厚着をしてきたのだが、鳥取県に入ると服装の選択ははずれではなかったなと思う。

12時43分、智頭に到着。列車の乗り継ぎはまだまだ続くが、それはまた次の記事にて・・・。

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第18回中国観音霊場めぐり~いよいよ最終・鳥取県へ・・・の長い道のり

2021年03月18日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりも、いよいよ最後の1県となる鳥取県に入る。鳥取県の札所は6ヶ所で、大山に1ヶ所、倉吉・三朝に2ヶ所、鳥取に3ヶ所分布している。宿泊を含めて順調に行けば残り3シリーズで満願ということになる。

今回は札所順として大山を目指す。前回、島根の安来を訪ねたのは1月の積雪が多かった時で、アクセスで予約していた高速バスが運休して(ちなみに木次線も運休)急遽伯備線で往復したり、現地でも境内が雪に埋もれて歩くのに難儀したこともあった。まあ、冬の山陰を少しだけでも体験することができたのはよかった。

では大山にはいつ行くか。さすがに1月や2月に訪ねるのは厳しそうなので、3月の青春18きっぷの時季に焦点を当てていた。3月ともなれば麓の米子辺りは普通の景色だろうが、標高800メートルほどのところにある大山寺辺りは冬の風情が残っているかもしれない。そこで中旬の3月13日~14日を当てる。

大山寺へのアクセスは米子、もしくは大山口からバスである。13日の夜は麓の米子に泊まるのが便利だが、前回は米子に泊まっているし、初めてとなる大山寺周辺で泊まるのも面白そうだ。登山客、スキー客向けの民宿・旅館、あるいは大山寺の宿坊というのもあるが、ここは大浴場つきのホテルを選択する。13日の昼過ぎに大山寺に入って、参詣後に宿泊するか、夕方に大山寺に入って宿泊、翌朝に参詣するかの選択となる。その中で、こういう場所なら朝方にお参りするほうが気持ちよさそうに思い、米子、もしくは大山口から夕方のバスで上がることにする。いずれのルートも到着は18時前、日が暮れるぎりぎりのところだろう。

さて、例によって近くまでどうやって行くか。往路は青春18を使った鈍行利用で米子まで向かうことにする。広島から山陽線で倉敷、倉敷から伯備線で米子、場合によっては山陰線で大山口・・がまともなルートだが、ここはもう少しローカル線を巡っても面白そうかなという選択肢を含んで向かうことにする。

帰りは、前回雪による運休のため乗れなかった松江~広島の高速バスに乗ってみよう。こちらは14日の午後の便をネットで予約した。

3月13日早朝、駅舎改築が進む西広島から山陽線の糸崎行きで出発する。このたびJRグループのダイヤ改正が行われ、この日から新しいダイヤでの運行となった。ただ広島地区にあっては、新しい列車が走るとか新車が入るという明るい話題はほとんどなく、列車の減便に関するものが多い(まあ、他の地方でもこうした話題が目立つのだが)。

中吊り広告がモノトーンなのも暗さを感じさせる。山陽線の快速・普通の減便、各線の終電の繰り上げが行われる。路線によっては最終の広島着の「のぞみ」が接続しないところもあるという。

糸崎で福山・岡山方面の列車に乗り換える。糸崎発7時57分というのは同じだが、前のダイヤでは岡山の先の和気行きだったのが、この日からのダイヤでは和気の手前の瀬戸行きに変更されている。この列車を含めて、山陽線の岡山以東でもこれまで和気行きだった列車が瀬戸行きに短縮されることになった。

普段利用する区間ではないので、まあ「そんなもんか」と、出かける時に時刻表を確認して行程を組めばいいだけだが、普段その列車を利用していた人にとっては厳しいことだろう。別の意味で「新しい生活様式」を考えなければならない。

9時13分、倉敷着。普通に米子または大山口に向かうなら、倉敷から伯備線に乗ればよい。ただ、今回はこのまま乗り続け、岡山で下車する。

今回、同じ米子に行くにあたって遠回りすることにした。岡山から津山線~因美線で鳥取に出て、山陰線に乗り継ぐ。この中でキモになるのは因美線の津山~智頭間。この区間も大概なローカル線で、この機会に乗ることにする。復路が松江~広島の高速バスということで、広島~岡山~鳥取~島根という中国循環ルートにもなる(山口が外れているが・・)。

9時31分、岡山着。この次に津山に向かう列車は・・・こちら。

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第17回中国観音霊場めぐり~2月から「やくも」の本数が半減

2021年01月23日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐり、安来の2ヶ所を回り終えて米子12時26分発の「やくも16号」に乗る。指定席を買っていたのだが、座席位置と窓枠が合わず、座ると目の前が窓枠という位置。これでは面白くないので自由席車両に移る。ちょうど、窓が合った位置の席を見つけて座る。残念ながら大山の姿は雲に隠れていた。

昼時の特急列車ということで、ビールと奥大山の天然水をいただく。つまみは、まあ適当に。

11日も昼になって寒さも緩んできたようである。前日通った伯備線だが外も明るい感じだ。根雨で行き違い停車となり、ちょっとホームに出てみる。

この後、山深い区間に差し掛かるが前日よりも雪が減っているように見える。地元の人たちもほっとしていることだろう。新見まで来ると雪は完全になくなり、岡山に向けてスピードを上げる。

さて、これはこの旅から帰った後、1月22日付で発表されたことだが、JR西日本はコロナ禍の状況を踏まえ、2月1日から山陽新幹線、在来線特急の一部減便を行う。まあ、新幹線は臨時列車の運転を取りやめるのが中心だが、在来線特急の中でも「やくも」は現在15往復30便のところ、8往復16便まで減らすという。実に半減だ。現在の利用状況を見てということだが、現在1時間に1本走っていたのが2時間に1本になる。

現在のコロナ禍の中では仕方ないのだろうが、仮に落ち着いたところで、JRとして今後元に戻す考えはあるのだろうか。「やくも」で使われている国鉄型の381系もそろそろ老朽化で次の車両への置き換えが言われているが、それも理由として半減状態が定着することにならないか気になる。

現在一部地域で発令されている緊急事態宣言だが、飲食店が主なターゲットになっている。その中で鉄道会社も終電の繰り上げやこうした減便が行われることになるが、これが全国的な鉄道の衰退につながらないかが気になるところである。

「やくも16号」は岡山に到着した。ここからは15時16分発の「こだま857号」で広島に戻る。少しでも早く帰ろうという割には「こだま」に乗るのだが、あれは雪で遅れや運休が出ないうちに早く安定した山陽側に出ようということだった。

駅ごとに通過待ちの停車があり、岡山から1時間半で広島に戻ってきた。まだ夕方の早い時間で、連休最終日の夜はゆっくり休めそうである。

さて、これで中国観音霊場もいよいよ鳥取県の6ヶ所を残すだけとなった。エリアとしては大山、倉吉、そして鳥取市内となるが、これもまた季節の移り変わりを楽しみながら回りたい。また、広島からどのような方法でアクセスするかを考えるのも楽しい。満願に向けてあと一歩・・・。

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