まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第16回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~特攻基地・知覧へ

2024年07月06日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

6月30日、日曜日。鹿児島の朝は「さつま狂句」から始まる(始まるというのも変だが)。今月の入選の句の紹介だが、文字で見るから一句の意味がわかるが、これ、選者の先生の鹿児島弁でのコメントも含め、耳で聞いたらさっぱりわからないぞ。

前日の夕方、夜、そして今朝と地下の大浴場に計3回入り、バイキング形式の朝食をいただく。こちらも地元のものを含めて種類は豊富である。

身支度を整えてチェックアウト。この日はトヨタレンタカーのお世話になる。同じ県内、一定のエリア内であれば乗り捨て無料ということで、夕方に川内駅前での返却である。乗るのはコンパクトカーのヤリス。8時半に出発。

これから目指す札所があるのは本土の端の枕崎だが、せっかくの薩摩半島なのでいくつかのスポットに立ち寄りながらである。指宿温泉は前回に札所と合わせて訪ねており、また指宿枕崎線にも(いろいろハプニングはあったが)乗車している。そこでまず向かうのは半島の中央にある知覧。

市電と並走し、鹿児島大学の横を過ぎる。もう少し海側に行けば鴨池公園があり、前回の九州めぐりで残念ながら雨天中止となった鴨池公園の中央リース野球場がある。かつてロッテが長くキャンプ地としていたところだ。

市電の線路と別れ、国道225号線に入る。そして市街地が途切れる五位野あたりから、薩摩半島を斜めに横切るルートに入る。ちょっとした峠越えもある。

無料の南薩縦貫道に入る。こういうところにも自動車専用道があるとは、そりゃ、指宿枕崎線も苦戦するだろう。

文化会館、ミュージアム知覧、そして今回立ち寄りスポットとした知覧特攻平和会館がある知覧平和公園に到着する。

知覧は中世から島津氏の分家である佐多氏が所領とした地で、かつては山城も存在していた。江戸時代にはそのまま薩摩藩の外城の一つとして、上級武士の住居と外敵からの守りのため武家屋敷が築かれ、現在も歴史的な町並みとして残されている。明治維新後は佐多島津氏から払い下げられた山林を開き、茶の栽培が広まり、現在のブランド・知覧茶につながる。

その一方、太平洋戦争が始まると、福岡の大刀洗飛行学校の分校として、知覧には飛行場が造られた。今いる公園、そして野球場はかつての滑走路の跡地である。知覧に飛行場が造られたのは風向き、地質条件がよく、道路や鉄道も通じていたからとされる。鉄道?と思うが、当時鹿児島交通知覧線というのが走っていたそうだ。もっとも、知覧に飛行場が造られた当初の目的は基地というより、パイロットの養成、訓練のためだったという。

しかしその後、戦況の悪化とともに本土の最前線である沖縄を守るべく、最後の手段として爆弾を搭載した戦闘機で米軍の艦船に体当たり攻撃する特攻作戦が始まった。この特攻作戦では九州各地、そして当時統治していた台湾の飛行場から計1036名の若者が飛び立ったが、本土最南端ということもあり、約半数の439名がここ知覧から出撃した。

公園には「とこしえに」と名付けられた特攻隊員の像、そして戦闘機が並ぶ。その一方で、その隊員を木の陰からそっと見守るかのような母親像もある。

周りにはさまざまな慰霊碑、灯籠が並ぶ。若くして南の海に散った隊員たちを悼む感情は人として当然だが、ともすれば必要以上の美談にもつながりかねないというのが私の思いである。あちこちの神社仏閣その他で「忠魂碑」があるが、ちょっと敬遠してしまうな・・。

これらを抜けた先に特攻平和観音堂が建つ。法隆寺夢殿の「夢ちがい観音」を模したもので、特攻勇士の愛国精神を顕彰し、世界の恒久平和を願うとある。こうした祈りに似合うのは仰々しい神格化より観音菩薩である。ここで静かに手を合わせる。

この後、隊員たちが出撃までの一時を過ごした三角兵舎(復元)を通る。この中で日の丸への寄せ書きや、故郷への手紙(遺書)をしたためたという。

順番が逆になったかもしれないが、ここでようやく知覧特攻平和会館の中に入る。午前中から多くの見学者が訪ねている。

まず目についたのが零式艦上戦闘機の展示。実際に特攻機として飛び立ったが、途中の海上に落下した機体を引き揚げたものだという。先ほどの屋外にあった機体も含めて、よくこんな小ぶりな戦闘機で、数百キロも離れた米軍の艦船に突撃しようとしたものだと思う。この後、展示室内で出撃の様子、艦船に衝撃を与えて見事に(?)任務を遂げた様子の映像も見たが、実際は艦船に体当たりする前に迎撃されたとか、故障で墜落してしまった機体が多かったともいう。

企画展で「女学生が見た戦争 知覧高女性と特攻隊員」というのがあった。知覧にあった高等女学校に通っていた生徒たちも「なでしこ隊」として戦争末期には軍需工場に従事したり、知覧飛行場で特攻隊員への奉仕活動を行っていた。その当時の日記や証言映像が紹介されている。

視聴覚室でビデオ上映があるというので行ってみる。30分ほどの作品だが、特攻作戦への経緯、隊員たちの明るい表情、世話をする地元の人たちの様子、そして母親への遺書、子どもたちへの遺書が淡々と紹介される・・・。周りからはすすり泣きも起こる。

出撃の前日に撮った笑顔の写真がある。いずれも17~19歳の若者。お国のために出撃することは光栄なこと、やってやるぜといったところだろうが、本当の本心はどうだったのかなと思う。遺書や手紙にもお国のために命を捧げるのは名誉なこと・・と綴られているが、いくら国の危機に立ち向かうとはいえ、一人の人間として、こういう形で死にたくないという気持ちはあったことだろう。それでも笑顔というのは、国家による教育というのか何というのか・・。

そして、零戦の周りに、犠牲となった一人一人の遺影、遺書や寄せ書きなどがこれでもかと展示されるメインの資料コーナーへ。特攻隊として亡くなった若者たちは「英霊」となったか、「犬死に」となったか、それぞれの胸のうちはあるだろうが、少なくともここに並ぶのは純粋な表情である。

その一方、こうした無謀な作戦を考案した現場の指揮官、そもそも勝てる見込みのない戦争を始め、引っ込みがつかず多くの犠牲を払った末に逃げ出した軍部、そして戦争への流れを止められなかった政治家・・・の罪は重い。

さまざまな展示を見るうちに時間が過ぎ、そろそろ次に向かう。この先のコースを考え、残念だが武家屋敷群は割愛し、南に向かうことにする。

途中に広がる緑、田んぼかと思うが茶畑である。シラス台地は稲作には不適だが、水はけがおく火山灰からのミネラルを多く含むということで茶の栽培に適しているという。

この先いったん枕崎とは逆に南東方向に向かう。訪ねるのは再びのあの駅・・・。

コメント    この記事についてブログを書く
« 第16回九州八十八ヶ所百八... | トップ | 第16回九州八十八ヶ所百八... »

コメントを投稿