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まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第17回中国観音霊場めぐり~第28番「清水寺」

2021年01月22日 | 中国観音霊場

1月11日、雪の雲樹寺から清水寺に向かう。コミュニティバスがあるが、1時間以上待たなければならない。それなら、地図で見て歩けない距離ではないなということで、「雪中行軍」とする。いや、こう書くと地元の人たちには失礼かと思うが。

県道沿いに歩く。先ほどのように左側の車道端を歩き、背後からクルマの気配を感じると誰も踏み入れていない歩道に乗り上げることを繰り返す。ただ意外に多くのクルマが来るので、そのたびに歩道に避難することになる。そこで気づいたのは、道の反対側を歩くこと。幸いこちら側を走るクルマは少なく、また前方から来るのが見えるので早めに対応できる。まあ、クルマのほうが気を遣って避けてくれるのだが。

車道を歩くことで思ったよりもスムーズに進んだか、雲樹寺を出て20分ほどで清水寺への標識が出てきた。二つの札所を徒歩で結ぶことができたのは大きい。

その後も雪を踏みしめて進み、清水寺の駐車場に着いた。意外にも駐車場は満車である。清水寺は厄除け祈願で知られる寺ということで、近隣の人たちがこぞって訪れるそうである。そこに歩いて訪ねるというのも酔狂なことだが。

ここから参道が続く。雪の参道を行き来する人がそこそこいるのにホッとした。先ほどの雲樹寺が「こういう時に来てよかったのかな?」と一瞬思ったのに対して、清水寺は多くの人が訪ねている。

ここで清水寺の縁起について。清水寺といえば京都五条のあの寺や、同じ西国三十三所の札所の播州清水寺、さらには四天王寺の近くの清水寺・・・など、さまざまな清水寺が出てくる。現に「全国清水寺ネットワーク会議」なるものがあるそうだ。

安来の清水寺だが、言い伝えでは用明天皇の時に開かれたとされる。その後廃れたが平安初期に再興され、慈覚大師円仁により天台宗の寺となった。その後、幾たびの兵火と復興を経て、現在の境内は江戸時代からのものという。

山門に着く。「令和三年正月 百喩経より」ということで一節がある。

「私が求めるのは土台ではない 一階でも二階でもない 三階の高楼だけだ 早く作れ」

これは、土台を疎かにしてきれいな三階の高楼だけを求めた金持ちのことを批評したもので、仏法僧を修め敬わず、修行を怠って悟りを得ようとすることを戒める話だという。まあ、ただこのご時世だと「確かに『二階』だけはいらんわな」と思ってしまうのだが・・。

参道を進むと、遠くから厄除け祈願の経文の声が聞こえてくる。その中をお出迎え観音や、宿坊(宿の予約サイトにも登場する)を抜け、本堂を見上げる石段に出る。

そして本堂。寺の人も懸命に除雪しており、その中で「ご苦労様です」と声をかけられる。こちらこそ、作業お疲れ様と声をかける。

靴を脱いで本堂に上がり、さすがに寒い中でお勤めである。本堂の中に納経所があるが、寺の人は中の厄除け祈願の対応で不在のようだ。

ちょうど、終わったところで出て来たので朱印を求めたが、ここでは「書き置き式」での対応という。中国観音霊場めぐりは朱印帳に直接墨書してもらうことにこだわってきたが、前回の鰐淵寺で「コロナ対応です!」ときっぱり言われたことで、もう寺がそういう方針ならそれに従う・・ことにしている。

安来の清水寺で有名なのは三重塔である。ただ、現在は立ち入ることができず、手前から仰ぎ見る。ただこうした雪の中にたたずむ古刹、来るまでが大変だったが、冬の山陰の一つの景色として印象に残るものだった。

タイミングでは、清水寺10時51分発のループバス、来る前は雲樹寺から清水寺に移動するのに乗っていたかもしれない便に乗ることができそうだ。少し急ぎ足で境内を後にする。定刻の数分前に駐車場に戻り、バスを待つ。

しかし、時間になってもやって来ない。まあ、雪の中を走るのだから遅れても不思議ではないだろう。結局、10分ほど遅れて到着。清水寺は行き止まりなのでここでバックして来た道を折り返す。この便も乗客は私だけだ。

途中、安来高校の野球部の部員たちが歩道の除雪を行うのを見て、安来の中心部に入る。その中で、安来駅に到着。ちょうど除雪車が出ており、駅前のロータリーも朝に比べれば雪も少なくなったようだ。

前日、安来13時17分の特急「やくも18号」の指定券を購入していたが、1本前のループバスに乗ったことで時間に余裕がある。和鋼博物館は前日に見学しているし、早め早めで帰ることにする。ちょうど、11時30分発の米子行きがあり、これで米子まで先行する。米子で昼食(プラス飲み鉄)を仕入れるためだ・・・。

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第17回中国観音霊場めぐり~第27番「雲樹寺」

2021年01月20日 | 中国観音霊場

1月11日、米子ではまた少し雪が積もったようである。朝の列車で安来に向かうが、駅では少し待ち時間が出る。待合室のベンチでテレビを見ながら過ごす。

この日は中国観音霊場めぐりの本番ということで、第27番の雲樹寺と第28番の清水寺を回る。アクセスで使うのは、安来市のコミュニティバスであるイエローバス。ちょうど清水寺、雲樹寺を経由して鷺の湯温泉、月山富田城方面を回るので都合いいが、いかんせん本数が外回り、内回りそれぞれ1日3便しかない。清水寺と雲樹寺を結ぶこともできるが間隔が空きすぎていて、どちらかの寺で長時間足止めになりそうだ。一方で地図を見ると、長時間バスを待つくらいなら歩けないこともないかなとも思う。ループバスの時刻表を見る限りでは、安来駅9時57分発~清水寺10時11分着、同11時54分発~雲樹寺入口12時01分着、同13時34分発~安来駅14時00分である。朝ゆっくりスタートだが、安来駅に戻るのは午後も結構いい時間である。各寺1時間半~2時間というのは、かえって持て余すのではないかと思うが、仕方ない。

その中で改めてイエローバス各路線の時刻表を見ると、別に伯太安来線というのを見つける。これによると安来駅8時42分発というのがあり、雲樹寺入口が8時57分とある。それだけ早く1ヶ所を回ることができて、後はループバスのうまくつかまえれば遅くとも12時36分には安来駅に戻ることができる。

何だかバスの時間のことをくどくど書いているが、その前に大事なことがあった。

現地に来た計画では、11日に上記のルートで安来に戻った後、午後の便の松江からのバスに乗ることにしていた。しかし、前日になって、11日の松江~広島便、米子~広島便も全便運休ということになった。今回は電話連絡もなく、たまたま高速バスの予約サイトに入るとそうした表示があったので気づいた。結局、帰りも米子から伯備線に乗ることにした。早めに山陽側に抜けたほうがいいかなと、サイトから安来13時17分発の「やくも18号」と、新幹線の特急券を購入する。バスに比べれば倍以上の価格になったが、これは仕方がない。まあ、往路を青春18きっぷの1回で賄ったので、半額で往復できてよかったと思うことだ。

ということで、まずは雲樹寺を目指すべく、安来駅8時42分の伯太行きを待つ。安来駅前も朝までにまた雪が積もったようで、この先大丈夫かと思う。駅前のどじょう掬いの像も寒そうだ。

イエローバスということで、20人乗りくらいのマイクロバスがやって来た。赤屋行きで、乗り込んだのは私だけ。運転手が「どちらまで?」と訊ねる。ひょっとしたら、同じ場所から出る足立美術館行きの無料送迎バスと間違えて乗ったと思われたのかもしれない。雲樹寺と答えるとわかったという表情で迎え入れる。

駅前の商店や住宅が密集する一帯を抜ける。地元の人たちも朝から雪かきに追われている。こういう時季に来てしまったわけだが、普段の生活では見られない雪国の朝の一端を目にすることができたのは、私としては一つの経験値である。その後、伯太川沿いに走る。運転手はバス停を肉声で伝えていくが、そのうち「雲樹寺は見学されます?」と訊いてくる。本来なら雲樹寺入口のバス停は別にあるのだが、そこからだと寺から若干離れていて、雪深い中を歩かなければならないからと、手前の橋のたもとの千代富橋というバス停で降ろしてくれる。交差点の道を土手側に下ると寺の山門が近いという。

・・・ということで歩き出すのだが、200~300メートルほど先に入口の看板が見えるところ、その前に「雪中行軍」である。歩道の雪は20cmは積もっていたか。誰も歩いた様子のないところに足を入れる。一応スノーブーツを履いてきたが、それもすっぽり埋まるくらいだ。だからと言って広島から長靴で来るわけにもいかず・・。そこで、除雪された車道の端を歩き、クルマが近づいてきたら歩道に踏み入れることで何とか境内にたどり着く。

雪の中をじゃぶじゃぶ言わせながら到着。まず現れたのは四脚の総門。国の重要文化財との案内がある。

この雲樹寺だが、創建は鎌倉時代末期、臨済宗の寺である。当時の領主だった牧新左衛門が三光国師を招いて開かれた。後には後醍醐天皇の帰依を受けたとある。後醍醐天皇といえば鎌倉幕府に反抗して隠岐に流されたが、中国地方の御家人たちの手により脱出、挙兵した。やはりこの辺りには好印象を持っていたのだろう、後には寺の領地も与えられ、大規模な伽藍を持って大いに栄えたそうだ。しかし江戸時代に大火に遭い、その後建物は再建されたものの、往年の勢いはなくなったそうである。

山門の扁額は後醍醐天皇の手によるとされる。門の下は雪が積もっていないが、その先本堂までは意を決して雪の中に足を踏み入れる必要がある。

他に参詣の人はいない。自分でも何をやっているのかと思うが、中国観音霊場めぐりに冬の山陰の景色を入れたいと思って来た以上、申し分ないではないかとも思う。雪の感触、深さを確かめつつ、一歩ずつ本堂である仏殿に向かう。

こちらは江戸時代の建物で、本尊の釈迦如来は「拈華(ねんげ)微笑仏」と称されるという。ただ扉も閉じられていて中の様子はわからず、まあそんなものかと手を合わせる。

そして中国観音霊場めぐりの観音堂だが、山門近くまで戻ることになる。再び雪の中に足を入れて、何とか戻る。こちらは子授け観音が祀られていて、格子扉にはさまざまな祈願の札が貼られている。ここで何とかお勤めである。

また雪の中を進んで、仏殿の横からようやく庫裡にたどり着く。事前情報では拝観料を納めれば書院や庭園の拝観もできるそうだが、ここまで来ればどちらでもいい。ともかく朱印だけでもいただこうと思うが、こういう状況で寺の人がいるのやら。ただ、先ほど雪かきをするスコップの音がしていたように思う。

インターフォンを鳴らすとしばらくして寺の人が出てきた。こんな雪の中、朝っぱらからコミュニティバスに乗ってお参りに来る奴も大概だと思うが、そこは特に怪しむこともなく(クルマで来たくらいに思われたのだろう)、普通に朱印をいただく。そして、「大昔のものですがよかったら」と、絵はがきのセットを渡される。表の郵便番号の記入欄が5ケタだから時代がうかがえるが、一般には公開していない三光国師の肖像画や、後村上天皇からの書状、朝鮮鐘などの写真がある。雲樹寺の歴史的価値はそれからもうかがえる。

これで雲樹寺の参詣は済んだ。これから清水寺に移動するが、雲樹寺入口のループバスの発車は10時44分と、1時間以上ある。周りには時間をつぶせそうな場所もなく、外で1時間待つのも寒いだけだ。それならば清水寺まで「雪中行軍」とするか。幸い、先ほど歩いた県道をそのまま行くと清水寺の近くまで出るので、何とかなるかな・・・。

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第17回中国観音霊場めぐり~米子駅前で1泊

2021年01月19日 | 中国観音霊場

1月10日、中国観音霊場めぐりの前泊は米子。

駅前に出る。米子の駅舎は駅周辺整備事業のため取り壊し、橋上駅舎と南北自由通路を建設する予定である。現在は仮の窓口、改札口で営業中である。

2020年6月に開業したばかりというグリーンリッチホテルにチェックインする。米子の駅前に泊まるのもずいぶん久しぶりのことだが、島根県シリーズの最後が鳥取県に入った米子というのも妙なものだ。まあ、この数日の雪のために直前になってさまざまなルート変更があったためだが。

ロビーのインテリアも個性的で、部屋のベッドもダブルサイズである。大浴場もあるが、これは外から帰った後で楽しむことにする。

17時を回り、さっそく今回の一献。米子駅前には数々の居酒屋が並び、それぞれ日本海の幸、境港直送などとさまざまにPRしている。かといって高級店は懐の関係で見送りだし、ホテル宿泊者特典でついていたクーポン券に書かれた店は日曜定休だった(今回は、10日の日曜日、11日の月曜日という行程)し、さてどうしようか。

その中で入ったのが「山陰郷土料理かば」。島根県を中心に広がるチェーン居酒屋で、これまでの中国観音霊場めぐりの旅でも行こうと思えば行けた。のみならず、広島県でも三原駅の高架下に入っていたり、三次の駅前にもあった。果ては、先ほど安来の駅前には「本店」があった。このように看板は何度か目にしたことがあるが入ったことがなく、今回島根県最後ということで入ってみる。店員、客層とも若い感じだ。

メニューもいろいろ見るが、お得なセットメニューということで、生ビールと、刺身盛り合わせorもう一品(何だったかは忘れた)、プラス枝豆、煮込み、出汁巻き玉子、赤天の中から二品で合計1000円というのがあった。まずはそれを注文。

刺身盛り合わせも、店によってはこれだけで600~700円するかなという3種盛りが来た。また二品は枝豆と赤天にしたが、枝豆は焼いたものだったし、また「サービス。暖まってな」と声をかけられて出汁巻き玉子もつけてくれた。なかなかええで。

山陰らしいものも数多くあるが、あまり高価なものではなく手軽なところでと選択したのが、カニみその甲羅焼き、ブリのカマ焼き。カニの「身」のほうにさすがに手が出ないので(もっとも、この店ではカニは扱っていなかったが)、みそのほうである。それほどカニが食べたければ、ロシア産やカナダ産の冷凍ものでよければ近所のスーパーで奮発して買って自分で鍋でもこしらえるわ・・・と強がってみるが、まだ実現していない。それはさておき、カニみそ甲羅焼き、ブリカマもそれぞれ食べごたえがあってよかった。

カウンターに酒瓶をかたどったメニューがあり「イロハニ枡」とある。山陰の酒の飲み比べということで、「からくち」「うまくち」「はなやか」のコースが選べるとある。それぞれ4種類の銘柄がある。私もそれぞれの酒について語れるほど詳しくはないので、こういうコースは面白い。

「からくち」コースには「八郷」(伯耆町)、「やまたのおろち」(松江市)、「開春」(温泉津)、「瑞泉」(岩美町)と、伯耆、出雲、石見、因幡4ヶ国揃い踏みである。他のコースでも鳥取、島根から2種類ずつ出るようだ。「イロハニ枡」というのは、お猪口4つが入るだけの枡のことで、四辺それぞれに「イロハニ」の文字がある。その文字のところにある酒がそれぞれの銘柄だ。一人酒でもそれぞれに違う味わいを楽しめるのが面白い。

部屋飲み用も仕入れていたし、酒場の風情も味わえたのでこれでホテルに戻る。大浴場へと入浴したのは二股炭酸カルシウム温泉というもの。北海道に二股温泉というのがあるそうで(北海道のどの辺か知らんけど)、そこの天然石灰華の成分を取り出した人工温泉で、炭酸カルシウムを含むという。まあ、皆生温泉の湯にしては少し離れすぎている。ただ、皆生温泉の湯はカルシウム成分を多く含むというから、全くの的外れというわけでもなさそうだ。

湯上りは部屋にて、年明けの本州~九州~四国行きの旅行記のブログ記事を書きつつも、NHK-BSにて「レジェンドの『目撃者』 サブマリン山田久志」を観る。山田久志の独特のアンダースロー、日本シリーズで王貞治に打たれた逆転サヨナラ本塁打、豪速球で1年目に大活躍し、それが山田の野球人生の大きな転換点となった山口高志の存在・・・。パ・リーグを代表する投手で、またしゃべりも上手い。やがてパソコンの手を停めて思わず見入ってしまう。副島萌生アナウンサーのアンダースローもまたよし。

さて翌朝1月11日、朝風呂に浸かった後で朝食である。チェックイン時には、コロナ対策として朝食はプレート形式で提供するという案内があったが、実際には通常通りのバイキング方式だった。まあ、準備する人の立場とすれば、いちいち見込み客分のプレートを用意するよりは、手指の接触や口からの飛沫への対策ができるのであれば、バイキング方式で出したほうがよほど手間が省けることだろう。ここの朝食の売りは旬の野菜で、トッピングもいろいろ用意されている。ホテルの内装も含めて、結構女性客を意識したサービスなのかなと思う。

中国観音霊場めぐりもようやく本題である。まずは、前日に引き続き安来に移動する・・・。

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第17回中国観音霊場めぐり~和鋼博物館、たたらの技能

2021年01月18日 | 中国観音霊場

伯備線で米子まで来て、13時39分発の浜田行きに乗り継ぐ。キハ47の2両編成で、終点浜田には17時49分に着く。浜田から広島行きの高速バスがまだある時間帯で、こういうルートで日帰り循環もできるなと気づく。今回の札所めぐりでは日本海に接する箇所はないが、この日は海も結構荒れたのではないだろうか。

ただ、今回の目的地ということで1駅だけ乗った安来で下車する。駅の南には日立金属の安来山手工場がある。安来の主要企業といえるが、このところ取り巻く経営環境は厳しいようである。3000人規模の人員削減とともに、親会社の日立製作所が日立金属の売却を進め、外国資本ファンドが名乗りを挙げているとの報道が出ている。このままではこれまで培った高い技術が海外に流出するのではと、地元でも危機感を持っているようだ。

観光のほうでは安来節、足立美術館、月山富田城というところが有名で、そこに中国観音霊場の清水寺が加わるところだ。ただ、観音霊場の2ヶ所は翌日回ることにしており、この日はもう1ヶ所お目当てにしていた和鋼博物館に向かう。市内のコミュニティバスもあるが、歩いても1キロあまりのところ。

雪道を歩く。屋根に厚く乗った雪、道端のかまくらなど、足元の雪を踏みしめながら見物する。

和鋼博物館に到着。駐車場にD51が展示されている。郡山工場で製造され、東北、九州と走った後、伯備線や山陰線で活躍したとある。

和鋼博物館は1946年に和鋼記念館として設立された。かつての出雲、伯耆、石見ではたたら製鉄が盛んで、その製鉄の伝統、良質な和鋼、玉鋼の産出が現在の高級特殊鋼(日立金属が得意とするところ)につながるということで、その歴史を紹介する施設である。私はこうした産業史には興味があるので、安来に来たら和鋼博物館は訪ねておこうと思っていた。

しかし、シーズンオフのためか他に見学者の姿はなく、係の人も席を外しているようで、見学の人は券売機で入館券を買ってそのまま入るようである。まあ、大雪の連休にあって安来まで観光で来るという人はほぼいないだろう。

展示室でまず目に入るのは、建屋内で操業する「永代たたら」の模型。ここではたたら製鉄の一連の工程が紹介されている。かつて出雲のあちこちの川で行われていた砂鉄採り、そして炉を組んで、高熱で溶かして、玉鋼を取り出す一連の工程が映像でも紹介されている。

一連の工程を見るに、砂金採りも重労働だし、炉を組んで、実に多くの燃料(木材)を必要とする。そして巨大な鉧(けら)ができるが、さらにその中から採れる玉鋼はわずかなものである。現在の作業効率、生産性という考えから見れば、果たして割に合う仕事といえるかどうか。

第2展示室では、その和鋼、玉鋼から日本刀が生まれるまでの流れである。1本の刀を作るまでもかなり複雑な工程があり、高度な技術が必要とされる。まあ、現在においては日本刀は美術品としての面が強いのだが、人々が当たり前のように刀を持っていた昔の時代、刀の需要と供給のバランスはどうだったのだろうか。まあ、現在のたたら製鉄はこうした伝統技術の継承として行われているようだが、当時はもっと簡便な方法で、玉鋼がどうだとかいうことはそれほど意識されず、消耗品、武器としての刀を量産する仕組みが全国各地にあったのかもしれない。

近世になると、出雲のたたら製鉄から生まれた玉鋼は、安来から各地にもたらされた。その主要な取引先の一つが新潟だった。新潟の三条市は包丁や鎌、鉈などの打刃物が伝統工芸品として有名だが、その原料は出雲の鋼である。現在も「安来鋼」、「ヤスキハガネ」は日立金属の特殊鋼として、身近なところでは理髪店のハサミやカミソリでも重宝されているし、多くの産業分野において金属材料、機能部材として活躍している。

記事の初めに戻るが、世間のさまざまな事情があるとはいえ、たたら製鉄以来の伝統技術を無くす、あるいは海外に流出させるというのは実にもったいないと思う。いろいろ難しいのかな。

再び雪道を歩いて駅に戻る。この時は建物もたくさんあって歩道も除雪されているが、翌日の札所めぐりはどうだろうか。どう回ろうか行程をいろいろ考えるも、どこかでこうした「雪中行軍」が出てくる見込みで・・・。

時刻表では16時10分発の米子行きに乗るつもりで、少し時間があるので駅の土産物コーナーでも見ようかと思っていた。ただ、駅に戻るとその前の14時59分発の「アクアライナー」米子行きが遅れていて、ちょうど着くタイミングという。どうせ明日も安来に来るし、この日はもう早めにチェックインしようと、遅れた列車に乗り込む。

中国観音霊場めぐりといいつつも相変わらずアクセス記事が長いが、明日11日に備えて米子で英気を養うことに・・・。

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第17回中国観音霊場めぐり~雪の山陰へ

2021年01月16日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐり、4県目である島根県も最後のシリーズとなる。対象となるのは、第27番の雲樹寺、そして第28番の清水寺である。いずれも同じ安来市にあり、回るなら一度で片付きそう。

安来の2ヶ所については、島根県を夏~秋と回ったこともあり、その流れで冬に訪ねようかと思っていた。単純に、冬の山陰の景色も見たいというところからである。正月明け、青春18きっぷもまだ使える9日~11日の連休を充てればいいかなと、早々と予定を組んでいた。さすがに、私の軽自動車はノーマルタイヤしかないので、冬の中国山地は越えられない。

中国観音霊場めぐりと合わせた中国地方一周は松江市まで進んでいるので、1日目に松江まで移動、2日目に安来を回った後に米子まで駒を進めておき、次の鳥取県、まずはその最初である大山寺につながるようにと行程を組んだ。12月の話。

広島から松江に行くには高速バスがもっとも便利で、3~4時間で着く。ただプランニングにあたっては、へそ曲がりにローカル線をたどって1日がかりで行くのも面白そうだった。広島から芸備線で三次を経て備後落合まで行き、木次線に乗る。また、伯備線で新見まで行った後で芸備線で備後落合に回り、同じく木次線に乗ることもできる。そして松江で1泊というのも行けそうだ。そして2日目に安来に移動して寺を2ヶ所回り、帰りは米子から広島行きの高速バスに乗ることにした。

ところが、である。12月の中頃から、この年末年始は記録的な寒波がやって来ることがしきりに伝えられており、中国地方もその影響を受けるとの予報が出始めた。そんな中、木次線が12月20日から「出雲横田~備後落合間で当分の間運休」となった。木次線のいわゆる「冬眠」である。この区間では冬季に1ヶ月以上運休したのがこの10年で5回あったそうで、この冬は当たり年になってしまった。これで、上に書いた木次線ルートは断念。松江まで高速バスで行き、帰りは青春18きっぷの残り1回を使って伯備線の鈍行を乗り継いで夜遅くに広島に戻ることとなり、1月9日出発、10日帰着ということにした(これで11日は休養日に充てることができる)。

 
そうするうちに年明け。この年越しは広島で迎えた。仕事も始まった。すると今度は、9日からの連休にかけて寒波がやって来るという。山陰も例年に比べての大雪になるという。
 
どうなるかと心配する中、広電高速バスから電話が入った。9日の松江行きの便は全便運休との連絡である。そういえば、ルートである国道54号線の県境区間でも数日前にクルマの立ち往生が発生していた。また8日から9日にかけてはJRでも運休、遅れの区間が相次いだ。電話で訊いたが、10日の運行もおそらく厳しいのではないかとのことだった。

・・・そういう状況ならこの連休で行くことを見合わせるのが普通で、おそらく仕事関係ならそうするように持っていっただろう。ただそこが私がアホなだけだが、これについては「どうにかして行けないか」という方を考える。・・・まあ、そんなことだから自粛警察に絡まれるのだが。
 
雪は10日には落ち着くという情報もあり、青春18きっぷの最終日である10日に伯備線回りで出発し、宿泊地も松江ではなく米子に変更した。こうなると中国地方一周で松江~安来が途切れてしまうように見えるが、これまでの鉄道でのアクセスで通っていることからOKとした。そして2日目に2ヶ所を回った後で松江に移動して、午後のバスで広島に戻ることにした。先程と逆のルートである。予報を見る限りで、11日は大丈夫ではないかと踏んだ。

そして10日の朝に出発する。やはり広電バスは松江便、米子便とも10日は全便運休とあった。11日がどうなるか気にしつつ、まずは伯備線ルートで行くことにして、西広島6時24分発の糸崎行きに乗る。広島市内を抜けるまでは外が真っ暗だったが、東広島市内に入ると周囲も薄っすらと雪が積もっているのが見える。まだ眠いし、ウトウトしながら過ぎる。

7時56分、糸崎に到着。すぐ接続の和気行きに乗り継ぐ。さすがにこの辺りに来ると雪は姿を消し、瀬戸内の温かく感じられる日光が車内に差し込む。
 
高梁川の橋梁を渡り、このまま走って9時13分、倉敷着。「WEST EXPRESS銀河」を歓迎するコーナーもある。

次の伯備線は9時36分発の新見行きで、少し時間があるのでいったん外に出る。さすがは「晴れの国」で、快晴である。この日の天気予報も、中国5県の中で岡山県だけが南部北部とも降水確率「0%」と出ていたように思う。鳥取、島根は曇り、雪の予報。この先どのような車窓が展開するのかを楽しみに、新見行きに乗り込む・・・。
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第16回中国観音霊場めぐり~第24番「禅定寺」

2020年12月03日 | 中国観音霊場

宍道湖の西岸から国道54号線に入り、中国観音霊場第24番の禅定寺(ぜんじょうじ)に向かう。国道54号線は松江から広島に続く道で、後はこの道をひた走るだけだ。

雲南市に入る。「幸運なんです。雲南です。」の看板が出る。出雲の南部だから雲南市というのはわかるが、初めてこの「雲南市」という言葉に触れた時、連想したのは中国の雲南省だった。雲南省といえば中国の中でもかなり内陸にあるところで、雲南市も失礼ながら中国地方の中でもかなり内陸にある田舎・・ということで、なんとすごい名前がついたものだと思った。

私の出身の河内にも「河南町」というのがあり、これも中国の河南省と同じやな・・というところだが、河南と雲南では言葉の響きやスケールにも結構差がある。もちろん、雲南のほうが趣がある。

道の駅「さくらの里きすき」で昼食とする。先ほど訪ねた十六島の海苔が入った佃煮もここで購入した。そして昼食は「しじみラーメン」。スープにしじみ貝のエキスが入っているとか、具材にしじみ貝がついているとか、まあこんなものかという感じである。

JRの木次線はもう少し東に離れて走っている。町の様子を見る限りでは、木次線より国道54号線の沿線が中心で、各ジャンルの全国チェーンの店が並ぶ。

この先、三刀屋地区を過ぎる。三刀屋までは出雲市、そして木次からかつての国鉄バスの名残の路線バスが出ているが、時刻表を見ても厳しいものである。また禅定寺へはこのバスからも遠く離れていて、待ち時間、歩き時間を含めて公共交通機関だけならこの寺だけで一日を費やすのではないかと思われた。先に訪ねた鰐淵寺も似たようなもので、ならば合わせてレンタカーで回ろうかと当初計画したのだが、結局は広島に来たこともあって自らクルマで来ることになった。

国道54号線から出雲に向かう県道に入り、数キロ走ったところで禅定寺の看板が出る。そして最後は軽自動車があえぐ急坂である。まあ、歩いて上ることを思えば・・。

車道が広くなって山門に着く。ここが駐車場かなと思うが、車道が門の脇を通っていて、特に立入禁止の表示もないのでもう少し進める。本当は入ってはいけなかったのかもしれないが、さらに数百メートル上って車止めの表示があるところで停車する。正規の駐車場ではないようだが、他にクルマもおらずまあ大丈夫かと建物の脇に停める。

先ほどの鰐淵寺と同じような山岳寺院である。こちらから見るのは中国山地、雲南の山々・・。

石垣がそびえる山城のような境内を見上げて、細い石段を上る。

禅定寺は聖武天皇の勅願で、行基が開いたとされる。こうした山深いところにあるのも、山岳修行に適した場所だったのかなと思う。昔は多くの寺領、僧兵も抱えていたという。現在の本堂は江戸中期の再建とされる。

他に誰もいない境内でお勤めとする。お堂のあるエリアは実に限られていて、他には薬師堂、稲荷神社、蔵王堂があるくらいである。参詣するぶんにはあっという間に終わった感じである。

朱印をいただく。境内にこのような貼り紙があったのが気になる。「コロナウイルス感染防止のため対面対応を控えさせていただいております ご理解とご協力をお願いいたします 住職」。先ほど鰐淵寺では朱印が書き置き限定、これは寺の方針なのだから文句を言うな、コロナを持ち込むなという対応をされたので、ここもその口かと思った。対面対応を控えるとあれば、書き置きの朱印もいただけないのではないか。

禅定寺に出直すとなると結構大変やなあ・・と思いつつ納経所に向かう。案の定、窓とカーテンが閉まっていたが、念のためインターフォンを押すと中から寺の方が出てきた。飛沫防止のビニールシート越しではあったが、特に対面対応を拒むものではなく、ごく普通に墨書していただいた。別にPRすることではないが、「ご苦労様でした」の一言だけで特に会話もなかったが、それでいい。

他に参詣する人の姿もなく、淡々とした感じで「公共交通機関最難関」と思われた札所を終える。

禅定寺を出たのが14時。国道54号線に戻り、雲南から広島に戻る。途中、クルマならではでどこかで寄り道もいいかなと思ったが、3連休の最終日、翌日に備えて早めに帰宅することにする。中国山地の各地には、またこれから訪ねる機会も出るだろう。近隣ではあるが気分転換に泊りがけで来るのもいいかもしれない。

島根県から広島県に入り、三次の中心部の手前にある道の駅「ゆめランド布野」で休憩。地元産の野菜も売られているので少し買い物。広島に移って、またあれこれ自炊をし始めたこともあり、また今回はクルマ移動なのでいろんな買い物をしてしまう。

建物の前にあるのが、「稲生もののけ あっしが三井権八でがんす」という看板がある力士の石像。コロナ対策か、マスクをかけられている。

三次市はこのところ「妖怪」「もののけ」をPRに活用している。「もののけミュージアム」というのも最近できたそうだ。かつて私が広島にいた時は布野村だったと思うが、現在は三次市の一部ということで「もののけ」がPRされているのだろう。

この力自慢で江戸で相撲取りになった三井権八が「もののけ」だったということではなく、近隣に出る「もののけ」を追い払うのに加勢したとしてこうした石像になっているようだ。三次市の「もののけ」も、平成の大合併で一緒になった町村の伝説と合わせてPRの材料になっているのかな。

この後も、以前にも走ったことがある国道54号線の雰囲気を懐かしみつつ、現在バイパスも建設途上だが相変わらず渋滞する可部地区を過ぎ、すっかり暗くなった。かつて走ったこともある裏道も使いながら、自宅に着いたのは18時。まあ、雲南から下道で休憩込みで4時間で着けたのは、中距離ドライブとして適当だった。外は暗いが18時に帰宅したので、早めにリセットすることができた。

さて、次は安来にある2ヶ所、そして伯耆大山が待っている。クルマは使えないが、冬の山陰の風情と合わせて訪ねてもいいかなと思う。中国観音霊場めぐりもそろそろ終盤、島根から鳥取にさしかかる・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~第26番「一畑寺」(再びお参り)

2020年12月02日 | 中国観音霊場

9月に引き続き、一畑寺の参詣となった。結局、前日の神門寺に続いて前回訪ねたところを再びお参りすることになったわけだが、前回は「WEST EXPRESS銀河」の乗車込みだったし、出雲大社や博物館の参詣もあったし、また違った出雲行きである。

先ほどは日本海に虹がかかるのを見たが、一畑寺に行く前に一畑口駅に立ち寄ると雨が落ちてきた。この先、結構本降りになりそうである。ちょうど松江しんじ湖温泉行きの列車がやって来て、この駅で向きを変える。今回は鉄道に乗る機会はまったくないのが申し訳ないが、発車を見送る。目玉おやじに見送られての一畑まいりである。

前回、一畑寺へは出雲市の生活バスに乗り、旧来の1300段の石段に代わる車道を上がった。今回は雨の中軽自動車で向かうが、自分で運転すると勾配のきつさがより感じられる。一気に高度が上がり、周りの景色が開けて駐車場に着く。

目玉おやじのオブジェが出迎える参道を歩く。雨の中、やはり高いところで少しひんやりする。例年、11月中旬~下旬が紅葉の見ごろということで境内にもちらほらと見えるが、やはり雨に打たれて眺めは今一つである。

まずは本尊の薬師如来が祀られている本堂に手を合わせる。一畑寺の縁起については前回訪ねた時に触れたので割愛するとして、やはり古くから地元に深く根づいている寺ということで、手を合わせる人の姿が絶えない。

本尊でのお勤めの次は、右手にある観音堂である。中国観音霊場としてはこちらが札所なので手を合わせるが、今回お目当てとしたのは、「百八観音霊場」のお砂踏みである。前回もやろうと思えばできたのだが、ちょうど志納金の500円の小銭を持ち合わせていなかったのと、帰りの一畑口からの列車に間に合うように石段を下り、歩いて駅に戻ろうという時間が読めなかったので見送った経緯がある。今回はクルマでの巡拝なので時間の融通は利く。

百八観音霊場とは、中国、四国、九州の観音霊場が合同となって一つの霊場として活動しているものである。33×3=99ではなく108なのはそれぞれの番外・特別札所が加わっているのだが、例えば西大寺の中の南海観音や、宮島の大聖院の中の極楽観音のように、一つの寺の中に2つの札所があるケースもある。現在のところ、四国、九州の観音霊場を訪ねることまでは考えていないが、ここで一つ手を合わせるのもいいだろう。

500円を賽銭箱に入れて、カプセルに入った納札を受け取る。内陣にはそれぞれの札所の砂が入った座布団が敷かれ、その前には本尊の御影が並ぶ。よくあるお砂踏みではそれぞれに小銭を入れるのだが、こちらでは納札というのが合理的である。108だから一ヶ所あたり4.63円・・・いやそうした計算はよろしくない。

かがんだ状態で札を納めるので、これでも結構身体を動かす感じである。10分くらいだったと思うが、最後はうっすら汗も出てきた。

札を納め終わると最後に「満願之証」という札が出てきた。これを納経所に持っていき、印を押してもらう。今回、一畑寺の朱印はいただかず、この満願之証をその代わりとする。

これで札所の輪も前回とつながった形になり、今度は雲南の禅定寺に向かう。一畑寺の境内ではずっと雨だったが、山を下りて一畑口駅前を過ぎ、宍道湖畔に出るとまた空が明るくなった。いやはや、何とも変わりやすい天気である・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~十六島の風車と日本海の白い船

2020年12月01日 | 中国観音霊場

第25番の鰐淵寺を訪ね、これから第24番の禅定寺に向かうのだが、ここまで来たので日本海の景色を眺めようと思う。地図を見ると道が続いていて、ふと、前回訪ねた第26番の一畑寺にもう一度行くのもいいかなと思った。そして宍道湖畔の西側を通って、宍道から国道54号線に入れば禅定寺がある雲南市を経由する。後は広島まで国道54号線をひた走り・・というルートを取ることにした。

そして向かったのが十六島。「うっぷるい」と読む。十六島海苔というので知られている。古くは出雲国の風土記にもその名前が出ており、今も上質の海苔として流通している。それにしても「うっぷるい」とは、それこそ古事記の世界、あるいは海の向こうの朝鮮半島やアイヌの言葉を連想させる語感だが、どういう由来なのだろうか。やはりそうした言葉が語源となったという説もあるが、有力なのは、海藻を採って「うちはらって」天日に干す「打ち振り」から来ているという説がある。また「十六島」と書くのも、四天王と十二神将を合わせた「十六善神」から来ているとか(鰐淵寺とも関連するようだ)、島が16あったとか、いやいやその「島」というのは陸地のアイランドではなく、縄張りという意味の「シマ」、つまり海苔を生産する家が16軒あったとか、いろいろある。

現在は小さな漁港で、その先の十六島鼻を経由して行こうとしたが、道路工事のため通行止め。迂回路を案内される。

この迂回路、実に急な坂である。カーナビを見てもカーブが無数にあり、ちょっとした山越えとなる。その中で「風車公園」の案内板を見る。先ほど鰐淵寺に向かう前に風力発電所の風車を見たが、それに因んだ公園でもあるのかな。ちょっと行ってみる。

軽自動車がフルパワーで坂を上りきると、巨大な風車群の中を進む。これ、完全に風力発電のサイト内を走っているな。クルマを停めてすぐ下まで行きたいが、立入禁止の表示が出ている。それにしても、発電所の中を通ることになるとは。

今度は急な下り坂となり、下りきったところに1基の風車、そして駐車場とちょっとした公園があった。ここが風車公園である。休憩所のすぐ間近に風車があるということで、風車の大きさを実感できるスポットである。

この一帯は新出雲風力発電所で、日本最大級の規模を誇る。前日も江津から出雲市に移動する際に風車群を見たが、規模はその比ではない。しかも間近で見られるとは。タワーの高さが75メートル、フレード(羽)の長さが44メートルという。

また遊歩道の上り坂があり、今度は風車を横から見たり、その並びを見ることができる。また反対側を見れば遠くに日御碕灯台も見える。天候がよければここも夕日のスポットである。

現在、脱炭素化社会の実現に向けた取り組みがいろいろ言われており、風力発電もその一つではあるが、新出雲風力発電所(に限らず他の地区でもそうなのだろうが)については、景観や騒音、野鳥などの生態系への影響などさまざまな問題が言われており、それに配慮する形で風車の建て位置を見直したところ、操業当初は強風、落雷、タワーとブレードの接触等で設備の破損事故が起こり、全機の運転を停止することもしばしばあったそうだ。風を動力にするとはいっても、風が強すぎたり風向きがよくなければ運転を見合わせる、まさに風任せだ。

しばらく風車見物を楽しみ、また山道を走りつつ、漁村に出た。この日は波も結構来ていて、これはこれで「らしい」眺めである。少しクルマを走らせては停めて写真を撮ったりしながら少しずつ進む。そんな合間にも風車が顔をのぞかせる。

十六島海苔といえば、先ほど風車公園から漁村に出るまでの間にこういう看板が何ヶ所かに立てられていた。「個人所有の海苔島に付 先の期間の立入を禁ず」として「11月1日~翌年3月31日」とある。海苔の収穫時期は例年11月~2月ほどに限られていて、その意味では日本海の荒波、寒風がもっとも厳しい時季の仕事である。焼き海苔や佃煮の形で海苔は年中出回っているが、植物の収穫ということでは冬のものだったとは、恥ずかしながら知らなかった。これは十六島に限らず他の海苔も同じだという。

だとすると今がちょうど収穫の初期なのだろう。漁師たちの苦労を思いつつ、せっかくなので以前にいただいたことがある十六島海苔入りの佃煮でも買おうか。この後昼食で立ち寄った道の駅で購入したが、ビンの裏には海苔の原料中13%で十六島海苔を使っているとの表示があった。およそ6分の1というところで、まあそんなもんだろう。

塩津という漁村を過ぎたところに「白い船公園」というのを見つける。2002年公開の映画で、海辺の小学校の児童たちと沖を行く白い船との交流を描いた作品という。

島根を舞台にした映画ということで、当時広島にいた(1回目)私も、何かでタイトルかポスターは目にしたように思う。作品は見ていないのだが、監督が島根を題材にした作品で知られる錦織良成さん、主演が中村麻美さん、音楽が角松敏生さんとある。公園には彼らのサインが刻まれたモニュメントや、主題歌の歌碑が置かれている。ちょうど水平線を見下ろす位置にあり、沖を行く船もよく望めるところだ。一度、映画も配信か何かで観てみようと思う。

白い船ではないが、晴れたかと思えば雨がパラついたり、何かと変わりやすい冬の山陰の天気。ふとそんな中、白い船ではないが沖合いに虹を見ることができた。山陰に暮らしたことがないのでわからないが、冬が厳しい、厳しいとされる中で、ふとした晴れ間に出会う景色の喜びというのは一層格別ではないのかなと思いをいたらせる。

海岸沿いの道はまだ続くが、少し内陸に入ると広域農道に出て、これを進むと一畑寺への上り坂の近くに出るようだ。日本海とはこれでお別れとなり、立ち寄り地として一畑寺に向かう・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~第25番「鰐淵寺」

2020年11月30日 | 中国観音霊場

中国観音霊場の第25番、鰐淵寺(がくえんじ)。先ほど駐車場にて、「武蔵坊弁慶修行の地」の石碑があり、弁慶が松江の出身だとする説明があったが、主人の源義経ともども、弁慶についても各地にさまざまな言い伝えがあるものだと感じる。

まずは駐車場から山門まで参道を上がる。前日の雨のせいか周囲はぬかるんでいるが、山間の修行の地らしい気配が漂ってくる。寺の歴史について絵図でも紹介されているので、ここで触れておこう。

鰐淵寺が開かれたのは、飛鳥時代、聖徳太子の時代。信濃の智春上人が遊化して、因幡まで迎えに来た「智尾」「白滝」「旅伏」の老翁に導かれる形でやって来た。この頃、推古天皇が病にあったが、上人が加持をすると回復した。そのことから推古天皇の勅願として建てられたのが鰐淵寺とされる。「鰐淵」の名前だが、上人が滝で修行をしている時に誤って仏具を滝壺に落とした際、鰐がそのえらにひっかけて捧げたという言い伝えから来ている。この鰐だが、山陰のこととて、アリゲーターのワニではなく、ワニザメを指すという。

もっとも、これら一連のことは伝承の話として、実のところは修験道や蔵王信仰の道場が起こりだったのではないかとされている。そうした修行の地と言われれば何となくわかる気がする。

以後、平安初期には慈覚大師円仁が薬師如来と千手観音を奉納したり、先に触れたように武蔵坊弁慶が修行したり、南北朝のころには後醍醐天皇を応援した歴史があったという。また戦国時代、中国地方の覇者をめぐって毛利氏と尼子氏が争った際には、出雲にいながら鰐淵寺は毛利氏を支持し、毛利氏の勝利後はその保護を受けることになった。

さらには、八百屋お七と小姓吉三郎の墓が参道から少し山に入ったところにある。八百屋お七・・・中国観音霊場めぐりの中でその名を目にしたことがある。岡山にある特別霊場の誕生寺。八百屋お七の振袖と位牌が祀られていて、お七の分骨を手に供養の旅に出ていた吉三郎が誕生寺を訪ねた後に美作で行き倒れ、そのままお七とともに葬られたという。ただこちらでは吉三郎は鰐淵寺で行き倒れたとしている。どちらとも言い難いところだが、修行の末に果てたというならば鰐淵寺のほうが舞台としては絵になるのではないかと思う。

山門をくぐる。この先の第二受付で入山料を納め、合わせて朱印をお願いする。

すると、「当寺は書き置きでのお渡しとなっています」とのこと。こちらは納経帳を持っている。こちらに書いてもらわないとせっかくの納経帳の意味がないではないか。以前にも住職不在ということでこうしたことがあり、納得いかないので納経帳を引っ込めて後日出直した寺がある。寺の人がそこにいるのに書かないのはどういうわけか。納経帳の意味がないやないか。それを問い質すも「コロナの影響です。当寺はこういう方針なんです」と聞く耳を持たない。

「コロナと言えば何でも通るのか」と言いたいことを喉元でぐっとこらえ、かと言ってもう一度出直すのも時間とカネのかかることで、そこは仕方なく書き置きのものをいただく。寺の人の言い分でその書き置きを切って納経帳に貼りつけたが、どうもしっくり来ない。果たしてこれで満願の証はいただけるのやら。

長い石段を上る。天候は今一つで、前日の雨でのぬかるみも残るが、さすがは紅葉まつりが行われるだけのスポットである。

根本堂に着き、ここでお勤めとする。現在のお堂は戦国時代の争いに勝利した毛利輝元の手で再建されたという。

根本堂の奥に鐘楼がある。この鐘は、弁慶が鳥取の大山寺から一夜でここまで運んだという伝説がある。弁慶と鐘・・・伝説では、弁慶が比叡山にいた時、麓の三井寺と争った際に三井寺の鐘を比叡山まで引きずり上げ、後に谷底に投げ入れたというものもある。どれだけ伝説があることやら。

紅葉見物の混雑を避けるためか、境内でも立入禁止のエリアがあり、境内そのもの(いや、山全体が境内なのだが)の見るところは限られる。

せっかくなので、この奥にある浮浪の滝に向かう。鰐淵寺の奥の院といったところか。川を渡り、山道を歩くこと10分。東屋があり、さらにその先を回り込むと滝が現れる。

この浮浪の滝は智春上人が修行をして、落とした仏具を鰐が引っかけて捧げたとされる場所。いや、こんな山の中にアリゲーターだろうがサメだろうが来るのは難しいだろう。それは伝説のこととして、奥に蔵王堂があり、武蔵坊弁慶もここで修行したということについては、さもありなんと思う。今は穏やかな水量だが、その昔は激しく落ちていた滝だったのかなと想像する。水量はともかく、この岩肌、そして蔵王堂というのは修行の場として一幅の絵のようである。

島根にこうした寺があったことは以前の広島勤務時にはまったく知らず、今回の中国観音霊場めぐりをきっかけに出会うことができて素晴らしいと感じた。出雲は、出雲大社だけではない。

ここで鰐淵寺を後にする。来た時はガラガラだった駐車場も満車になり、誘導員の人が出ている。この後は来た道を下った第2、第3駐車場に誘導されるのだろう。

次は札所順がさかのぼるが第24番の禅定寺を訪ねる。ただまっすぐ行くのではなく、せっかく日本海、それも初めてくるエリアまで来たのだから、海岸線を少したどってから南下しようかなと思う。まずは、これまでの標識で気になった「十六島(うっぷるい)」へ・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~第25番「鰐淵寺」への道

2020年11月29日 | 中国観音霊場

11月23日、出雲市駅前のホテルにて目覚める。この日の島根県の天気予報は曇りと出ているが、秋から冬に差しかかる時季、山陰の天気はコロコロ変わりやすい。

前日は広島から移動するのに三江線の廃線跡をたどり、その記事が多くを占める形になったが、ここからが本番である。今回は第24番の禅定寺、そして第25番の鰐淵寺が目的地だが、道順としてまずは日本海に近い鰐淵寺を訪ね、雲南にある禅定寺はその後で参詣してそのまま広島に戻るつもりである。

ところで鰐淵寺だが、読みは「がくえんじ」である。

ホテルでバイキング形式の朝食を済ませ、7時前に出発。直線距離では10キロもないところだが、道路はつながっていない。いったん雲州平田方面に行き、日本海に出た後に山道を戻るというルートである。まずは雲が覆う中、平野の向こうに昇る太陽を見る。

鰐淵寺に向かう道中、またいらん話をする。

当初、中国観音霊場を回るにあたっては、できるだけ公共交通機関を使うことにしていた。全体のシミュレーションをする中で、今回の鰐淵寺、そして禅定寺は厳しかった。鰐淵寺へは一畑電鉄の雲州平田から出雲市生活バスというのが出ているが、これが難所だった。

平日ならばまだ日中で5往復あるので何とかなるが、土日祝日となると1日3往復しかバスがない。前回訪ねた第26番の一畑寺へのアクセスと似たようなものだが、それよりも厳しい。鰐淵寺参詣に使えるのは事実上以下のコースしかない。平田駅11時39分発の始発のバスで向かい、12時02分に鰐淵寺の駐車場に到着。14時48分発の唐川車庫行きに乗り、終点から折り返して15時02分発、そして平田駅に15時28分に着く。行きと帰りで経由地が違うのは、変則リバースの運行形態なのだろう。

大阪にいる時は、この鰐淵寺、そして後に出てくる禅定寺は平田に泊まって「1日1ヶ所ずつ」で行くことになるのかなとも思っていた。あるいは平日2日の年休を取得するか。・・・ただ、そこまでするなら、ここまで既に乗っているのからレンタカーでええやんという気になっていた。

結局は、私が広島に移ることになったこともあり、今回は自宅から全部クルマ移動ということで落ち着いたのだが・・。

海に出た。この辺りもちょっとした湾になっている。対岸には風力発電の風車も林立する。ちょっと停めて写真を撮ることができるのも、クルマ巡礼のメリットである。標識の向こうには十六島の表示がある。

小さな港、夏は海水浴の客もいるのか民宿やシャワーブースもある中、表示に従って鰐淵寺に向かう。ここで再び進路は南へ、そして急な坂を上る。

やって来たのは鰐淵寺の駐車場。寺へはこの先数百メートル歩くのだが、クルマはここまでである。例年この時季に「紅葉祭り」が行われていて駐車場も混雑するようだが、さすがに朝の8時前では数えるほどしか駐車していない。早い時間に来てよかった。

駐車場に案内板があるが、その一角に「武蔵坊弁慶修行の地」の石碑がある。その案内に、「仁平元年(1151年)現在の松江に生まれた弁慶は18歳より三年間鰐淵寺で修行した」とある。

あれ?弁慶は紀伊田辺の生まれではなかったのかな?

もっとも、弁慶という人物じたいが謎に覆われたところの多い人物で、「生まれた」という言葉の定義づけも含めると、いろんなところに言い伝えが残るのも無理はないだろう。ひょっとしたら出雲にも力自慢の荒法師がいて、そうした人物も含めた称号が「弁慶」だったのかもしれない。

寺の境内については次の記事にて・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~石見から出雲へ

2020年11月28日 | 中国観音霊場

ここまで三江線の廃線跡に沿って軽自動車を走らせ、半日がかりで江津までやって来た。この日(22日)の宿泊は出雲市で、午後はこのまま国道9号線を走る。当初は石見銀山に行こうかとも思っていたが、三江線の廃線跡めぐりでその時間はなくなった。また別の機会にしよう。

先ほどまで江の川と三江線の線路に挟まれた、クルマがすれ違うのがやっと、あるいはすれ違い不可の道が多かったので、国道9号線となると「幹線」である。並走するのも山陰「本線」である。

東の浅利あたりから、海岸沿いに風力発電の巨大風車が立ち並ぶ。江津市は再生可能エネルギーの利用に力を入れているそうで、海岸の砂浜に接して並ぶのは江津東ウインドファームである。

この風車も見える位置にあるのが、道の駅サンビコごうつ。「サンビコ」とは、江津の海・山・川の幸「三彦」から来ている。土地の産直品の販売の他に「大黒食堂」というのがあり、少し遅めだがここで昼食とする。

注文したのは「オロチ丼」。石見では、地元産の肉を使った丼を「オロチ丼」、魚介類を使った丼を「えびす丼」として、総じて「石見の神楽めし」として定番メニュー化しているという。そしてやって来た「オロチ丼」、「ヤマタノオロチ」に因んで8枚のカツが乗っかっている。江津のブランド豚肉「まる姫ポーク」を使っていて、ウスターソース、タルタルソース、トンカツソースなどさまざまな味付けで楽しむ。

この後再び国道を走らせる。まだ時間は早いが外は暗くなるし、雨も少しずつ強くなる。早々と双方向のクルマのライトが照らされる。温泉地である温泉津もそのまま通過する。

五十猛を過ぎたところで海に接する区間に出たので、いったん路肩に停車する。せっかく日本海まで出たのだから海の写真がほしかったのだが、この荒れた感じはそろそろ冬の訪れを感じさせるものだった。

大田市の中心部を抜け、海岸に面した道の駅キララ多伎で休憩。ここは夕日のスポットとして「日本夕陽百選」の一つにも選ばれているそうだ。

天気がよければ、また時間帯がよければこうした景色が眺められるのだが、この日はあいにくの雨である。これもまたの機会の楽しみとしよう。

この後はカーナビに従って出雲市駅に向かうだけだが、時刻は16時前。ちょっと道を外れて、あるところに向かう。

やって来たのは、中国観音霊場第23番の神門寺(かんどじ)。前回9月の第15回霊場めぐりで訪ねている。その時は「WEST EXPRESS銀河」に乗るツアーに繰り上げ当選する観音様のご利益があり、出雲大社と合わせてお参りをした。それがなければ11月のこのタイミングで来ていたところで、せっかくなので手だけ合わせる。

雨だし、周りは暗くなっているし寺もひっそりしている。

この日の宿泊は、出雲市駅の南口すぐのグリーンホテルモーリス。ちょうど駅に面した側の部屋で、高架駅に発着する列車を見ることもできる(もっとも、本数はそれほど多くないのだが・・)。

室内に大浴場があり、一風呂浴びた後で大相撲の千秋楽を見る。結びの一番はここまで1敗の大関貴景勝と、2敗の小結照ノ富士。激しい相撲の後、照ノ富士が貴景勝を浴びせ倒して優勝決定戦に持ち込む。これで照ノ富士が有利ではないかというところ、決定戦では貴景勝が一気の押しを見せて圧勝。大関として初めての優勝となった。11月場所は2横綱2大関が不在の中、出場力士最上位の責任を果たした形となり、来場所は綱取りとなる。一方照ノ富士も三役での二けた勝利で、来場所以降の大関復帰への再挑戦が始まる。

それを見届けた後で、出雲市駅前で夜飲みとしよう。そう思って駅前に出たが、元々それほど店が多くないうえに、連休中ということもあってか居酒屋はどこも満席、あるいは予約客のみ受付・・という店が並ぶ。

雨も降っており遠くまで店を広げるというのも億劫なので、この日は土産物店、あるいはコンビニで飲食物を買い求める。幸い、GoToトラベルでいただいた1000円の地域クーポン券があるので、土産物店での支払いの一部に充てる。

あご野焼きのチクワ、赤天などが並ぶ。これらを肴にホテルの部屋でビールを飲みながら楽しむのは日本シリーズの第2戦。今年は京セラドームで行われるジャイアンツ対ホークスだが、序盤からホークス打線が爆発して次々に点を取って行く。バファローズファンとしては、京セラドームで別チームの日本シリーズが行われるのは複雑な気分だが、ホークスがパ・リーグの王者としてジャイアンツを打ち崩すのを見るのは痛快だった。終わってみれば13対2でホークスが2連勝。居酒屋に入れなかったのは残念としても、面白い夜になった。

ちなみに日本シリーズは第3戦から福岡に場所を移したが、ホークスが2連勝して4勝0敗で日本一になった。2年連続で4勝0敗で日本シリーズを制するのは史上初のことで、逆にジャイアンツから見れば2連連続でのストレート負けという赤っ恥になった。パ・リーグファンとしてはこれでもまだ足りないのだが、喜ばしいことである。

日本シリーズの結果はさて置くとして、翌23日が今回の中国観音霊場めぐりのメインである。目指すのは第24番の禅定寺、第25番の鰐淵寺だが、これもまた回る順番を変えることに・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~三江線の廃線跡をたどる・4

2020年11月27日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりで出雲に行くのにいったん石見の江津に行くドライブ。三江線の廃線跡をたどるのも後半に入っている。

石見川本に到着。小さいながらこの辺りの中心駅で、現在も本数は少ないながら江津からのバスが発着するし、これも本数が少ないながら石見銀山を経て大田市まで行くバスも出ている。

こちらも駅舎がそのまま残されている。それのみならず、2020年の夏には駅舎に島根中央信用金庫の川本支店が移転してきた。日曜日なので窓口は閉まっていたがATMがあるし、駅舎の窓にも「中央しんきん」のロゴが入っている。

その代わりというか、石見川本の駅名標や改札口が残されているし、待合室もバスの待合室として活用されている。駅舎の維持費のいくらかも中央しんきんから出ているのだろう。そのためか、ホームもかっちりとした形で残されている。

続いては隣の因原に向かう。駅のすぐ横に道の駅があり、その横を抜けるようにして到着。駅舎も残されているが、その中身は「三江線運輸(有)因原営業所」とある。

三江線運輸とは何とも仰々しい名前だが、これはかつての通運事業の名残である。私の勤務先企業とも関係あることで、当初は三江線でも鉄道貨物輸送が行われていて、通運の営業所もあった。後に鉄道貨物が廃止となると貨物自動車の会社となり、この一帯の業務を請け負う形でさまざまなものの輸送を手掛けるようになった。その会社が路線名から取った三江線運輸。当の三江線はなくなったが、歴史を受け継ぐ意味でこの社名は残してほしいものである。

ここからまた細道を行く。江の川、県道、三江線の線路、そして崖が密接する区間で、軽自動車で何とかクリアする。トンネルのすぐ脇も通る。

石見川越に着く。川越郵便局の建物は健在だが、その隣にあったと思われる駅舎は更地になっている。

この辺りで空がどんよりとして来て、雨粒も落ちるようになった。確かに22日の島根県の天気予報は晴れのち雨だった。

川戸に到着。かつての桜江町(現在は江津市)の中心だったところで、こちらも駅舎がそのまま保存されている。駅舎内には三江線のかつての写真も飾られている。

この川戸あたりは、1972年7月の豪雨で大きな被害を受けたという。当時の様子を報じた写真も残されている。駅前にはその災害からの復興を記念した石碑も建てられている。しかし、近いところでは2018年の西日本豪雨での被害、そして今年2020年7月の豪雨でも氾濫があったという。改めて、江の川というのはこの地の恵みであるとともに、人々を悩ませる存在であったとも言える。いかに江の川と共存していくか。

続いては隣の川平。こちらも駅舎が残されており、駅周辺も再整備の工事が進んでいる。1972年の豪雨での水位も示されている。

かつては駅前に桜の木があったそうだが、駅前を回転場として整備するために伐採され、代わりに周辺地図の模型が設置されている。「列車からバスへ 川平駅前整備事業」の標札もある。三江線の歴史は大切にしつつも、現実のことを考えるとバスを活性化させないとというところだろう。

ここまで来ると終点の江津も近い。県道もこのまま江津までつながっているようで、道なりに走る。

その中に、「人麻呂渡し(江西駅)」という案内板がある。「駅」という文字を見ると敏感になっているところだが、かつての山陰道、現在のように鉄道や国道の橋もかかっていない中で、ここに渡し舟があったそうである。渡し舟じたいは昭和の初期まで残っていたようで、晩年を石見で過ごした柿本人麻呂にあやかって「人麻呂渡し」との名がついたという。

江の川も下流になった。遠くには製紙会社の煙突も見える。

そのまま国道9号線まで出て江津に到着。時刻は13時で、三次を出てから途中立ち寄りなど含めてちょうど5時間が経った。長いドライブになった。さまざまなものを目にしたが、結構疲れた。もう一度たどりたいかと言われるとどうだろうか・・・。

ここからは宿泊地の出雲市まで、今度は国道9号線をたどる。この先、今度は雨が気になるように・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~三江線の廃線跡をたどる・3

2020年11月26日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりに合わせて三江線の跡をたどるドライブ。「天空の駅」として知られる宇都井を過ぎて、次に目指すのは浜原。

宇都井からしばらくは道幅の狭い秘境区間を過ぎ、再び国道375号線に合流する。この辺りの区間は鉄建公団により造られたこともあり、高規格のトンネル、高架橋が続く。右手に石見都賀のホームをちらりと見る。

道の駅を通過して、国道375号線沿いに現れたのは潮。ホームの向こうに江の川が流れている。川べりなのに「潮」とはこれ如何にという気がするが、駅の近くに塩分を多く含む温泉が湧き出ており、温泉の名前も含めてそれから取られたという。

また、潮の駅跡の横には「平成30年7月洪水 ここから実績洪水区間」という標識がある。西日本豪雨である。ちょうど山間部、また江の川の水量も豊かなところで、それまでにもこのようなリスクは多かったと思われる。

江の川にカヌーが何艘も浮かんでいる。どこかの部活動だろうか。ここまで江の川に沿って下っているが、特に急流というところもなく、蛇行しながらも穏やかに流れるように見える。先ほどイチョウを見た作木町も含めて、カヌーに適した川なのだろう。

浜原に到着。1975年の全通までは、江津からの三江北線の終着駅だったところだ。駅舎の前には三江南線の終着駅だった口羽と同じように、「三江線全通記念」の碑が置かれている。その筆の主は、元衆議院議員の細田吉蔵。こちらも島根県選出の議員で、元運輸大臣。ちなみに息子は細田博之議員で、現在の清和会(自民党細田派)の会長である。細田家も三江線の開通に影響を及ぼしたのかな。

こちらは石見交通、大和観光のバスが出ていて、待合所も兼ねて駅舎の中も使われている。寄贈された文庫コーナーもある。

また、「ふたりの三江線」というCDのPRも貼られている。「三江線を忘れないで」「三江線に乗ると不思議にも願い事が叶うって本当?」というキャッチコピーがあり、「作詞作曲 佐藤かずを」「唄 水木雪乃(新人)」とある。たまにありますな、こうしたローカル線の名前を冠した演歌。どんな歌なのやら、

この辺りは島根県美郷町。次の粕渕が町の中心部で、駅舎も町の商工会館を併設した立派な建物である。かつての駅窓口のエリアも開放されていて、三江線の往年の景色の写真も多く飾られている。

時間的に早い昼食でもよいのだが、それは江津まで遅らせることにして、町の中にある「産直 みさと市」に立ち寄る。地元のスーパーとして、そして地域の産直品、土産物なども置かれている。そういえばここまで三江線の沿線で消費をしておらず、何か買い物でもしようか。

買ったのはイノシシ肉の缶詰。スパイス煮、ビール煮の2種類ある。この辺りでは、獣肉を食べることが禁じられていた昔から、「山くじら」としてイノシシを食べる文化があったそうだ。時代が下って、イノシシによる農作物への被害が問題となる中で、ジビエ料理としてイノシシ肉を町おこしの材料にしようという取り組みが行われている。冷凍肉も売っていたが、この先の道中もあるので缶詰を買う。この記事を書いている時点ではまだいただいていないが(缶詰なので日持ちする)、三江線沿線の味としていずれ楽しんでみようと思う。

次の目的地を石見川本として、その途中の駅をたどる。

石見簗瀬。江の川の左岸にあり、駅周辺には集落も広がっているが、かつて駅舎があったと思われる一角は更地になっていて、バス停の標識とポストがけがぽつんと立っている。

次の乙原(おんばら)は、集落から少し上がったところにある。駅前にイチョウの木が立っていて、辺りには落ち葉が広がっている。かつては待合室もあったようだが、現在は撤去されている。

続いては竹。何ともシンプルな駅名である。駅というより停留所の風情だ。駅の裏手に一軒家があり、その家に向かうために線路を渡ることができる。

だんだん駅の記述が淡泊になって来ているが、三次からここまで3時間ほど走ったこともあるし、列車が来るわけでもないし、廃駅もだんだん似たようなものに見えてきたこともある。このブログをご覧の方もだんだん「もうええわ」という感じになっているのではないだろうか。

そうするうちに、石見川本に到着。現在も江津からの路線バスが来るところで、まだ先は長いものの終点が見えてきた感じである・・・。

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第16回中国観音霊場めぐり~三江線の廃線跡をたどる・2

2020年11月25日 | 中国観音霊場

中国観音霊場の行きがけに三江線の廃線跡に沿って軽自動車を走らせる。ここに来てGoTo事業の見直しが発表されたところだが、今回は単独ドライブということ、また行き先が行き先だけに「密」になることはほぼないと思っている。何せ、利用者がいなくて廃線になった線路に沿うのだから・・。

前回の記事では三次から長谷を経て式敷まで来た。この次に目指すのは隣の香淀(こうよど)。いったん江の川の右岸に出て、少し先で三江線の鉄橋を見る。

途中、カーナビでは線路に沿って走る区間だがこうした路盤に出る。線路はこの下にあるのか、あるいは線路も更地にして今後道路整備でも行うのか。

到着した香淀も式敷と同じようなログハウス風の駅舎がある。現在もバスの待合室として使われているようだ。

「森の宝石 ブッポウソウ」の案内板がある。絶滅の危機が高いとされる鳥の一種だが、三次市が生息数日本一の自治体とあり、その一部である作木町にはその半数が生息しているとある。

これまでと同様にホームへは柵があって立入禁止だが、それを見るうちに後ろでエンジン音がした。ふと見ると、マイクロバスの姿があったので行ってみる。これが三江線廃止後に各エリアごとで細切れで運行しているバスである。先ほどの式敷とは別路線で、君田交通が運行する「川の駅三次線」である。時刻表を見ると8時59分発の便である。この次は12時19分発と1日2本しかない。バスで来るとなると難所だ。

もっとも、後で君田交通のサイトを確認すると、駅に立ち寄るのは運行便の一部で、少し離れた香淀バス停に行けば1日5本に増える。

次の目的地は口羽である。クルマは江の川の右岸、そして三江線は再び左岸に渡る。途中の駅は飛ばす形だが、別に全駅訪問を意識しているわけではないので、ここは国道375号線を走る。ちゃんとした規格の道路で、先ほどまでとは走りが断然違う。

対岸に三江線の橋梁、トンネル区間が見え、こちら側にはカヌー公園さくぎというのがある。江の川を挟んで反対側から線路を見るのもいいかなとちょっと立ち寄ろうと側道に下りる。

ちょうどそこにはイチョウの木が2本並んでいる。青空の下、鮮やかな黄色をつけている。ふかふかした感じに見える。

このイチョウにカメラを向ける人がいるなあと見ていると、そのうちにクルマが次々にやって来て、スマホやカメラを向ける。有名な撮影スポットなのかな。

これは「双子イチョウ」として知られる2本のイチョウだという。川にカヌーを浮かべて眺める楽しみもあるそうで、それならば三江線が走っていた当時も江の川の対岸で鮮やかな色合いを楽しめたはずだ。

このまま走って口羽に到着。駅前に続く道の入口には「三江線全通記念碑」と書かれた石碑がある。筆の主は元運輸大臣の大橋武夫とある。島根県選出の衆議院議員で、「吉田学校」の門下生の一人。池田勇人内閣で労働大臣、佐藤栄作内閣で運輸大臣を務めたという。三江線の全線開通にも何らかの影響があった人なのかな。

口羽は、三次からの三江南線の終着駅だった。この辺りは広島県と島根県の県境が複雑だが、広島県側から見ればここが境目といったところだろう。

三江線の廃止後、「江の川鐵道」というNPO法人が地域活性化の活動を行っている。口羽駅はその拠点の一つで、かつての待合室には写真展示のほかにイベント案内や活動新聞が置かれている。

廃止されて2年半が経過するが、待合室にいる一瞬、もうすぐ列車が来るのではないかという感覚になっていた。「鉄道の駅」の名残がここまででもっともよく残されているように感じられた。

「江の川鐵道」のもう一つのメインの拠点はこの先にある。口羽から浜原までの間が1975年に開通したことで三江線が全通したわけだが、この区間は鉄道公団が高規格で直線的に建設したため、これまでとは違ってコンクリートの色合いが強くなる。鉄橋も心なしか頑丈な造りに見える。

その最たるものといえるのが、宇都井。三江線の中でもっとも名が知られた駅ではないだろうか。山間の小さな集落にそびえるコンクリート橋、そして建物。ホームおよび待合室は地上20メートルの高さにあり、地上からの高さでは日本一だった。しかしエレベーターはなく、ホームに行くには116段の階段をひたすら上るしかなかった。

私がふと頭に浮かんだのは兵庫県の山陰線の餘部だが、あの駅は鉄橋は高いところを通るが、駅そのものは地面の上である。地上20メートルの高架駅といえば新幹線や、東京や大阪の都市部にいくらでもありそうなものだが、案外そうでもなかったようだ。島根の山間部(といえば失礼だが)にこうした駅があったことも話題を集めていた。

私も宇都井は列車で通っただけで、ホームに降りたことはなかった。列車本数が極端に少ない区間なので、気軽に途中下車というわけにもいかなかった。こうしてクルマで来て初めてその姿をナマで見ることになったのも複雑な気分である。

現在は「天空の駅」として観光スポットになっているが、やはり安全面を考えて立入禁止という。しかしこの日は多くの人が高架橋の下から階段、そしてホームの上に群がっていた。よく見ると観光客ではなく、揃いのシャツ、ブルゾン姿で作業をしている地元の人、NPOの人たちのようだ。宇都井駅のイルミネーションの準備作業という。ホームの上にいるのもその人たちで、ふらりとやって来たドライブの客はやはり中に入れない。

夜に来ると、さぞ幻想的な眺めなのだろう。ただ、夜にここに来るのも結構難関ではないかと思う。あくまで地元の人たちに向けたイベントである。その姿を想像しながら、先に進むことにする。

この辺りが三江線の中で最も奥深いところ。次の目的地として、三江北線の終着駅だった浜原にカーナビをセットする・・・。

 

 

 

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第16回中国観音霊場めぐり~三江線の廃線跡をたどる・1

2020年11月24日 | 中国観音霊場

中国観音霊場めぐりで広島から出雲の2ヶ所の札所を回るのに、わざわざ石見の国に出る。これは中国地方一周をつなぐために選んだルートだが、その経由地として三次から江津への三江線跡を見ることにする。当初は世界遺産である石見銀山の見学を考えていたが、世界遺産より鉄道廃線跡を取った形になる。三江線跡が鉄道遺産になるのかどうかは知らんけど。

中古車なのでカーナビには三江線の各駅がスポットとして登録されており、画面にも線路図が表示される。道しるべとしてこの先も大いに役立った。最初に登録したのは長谷(ながたに)駅である。

まずは高架橋をくぐる。三次から次の尾関山へ続くが、立派なものである。道路整備の中で高架化されたのだろうが、これだけを見ると廃線はもったいないように思う。

江の川を渡って左岸に出て、いったん国道54号線を走った後で脇道の県道に入る。ここから本格的に線路に沿う。この先、三江線は江の川の左岸を走る区間が多く、そちら側を並走する道路はほとんどが奥の細道。結果でいえば離合困難な区間も多かったが、軽自動車だったのでその辺はまだましに感じられた。

その道を行くと、粟屋駅と書かれた立札が出る。尾関山の次の駅だ。県道にクルマを停めて、細道を上がる。

そこにはホーム跡がある。駅名標ははがされているが、ホームと小ぶりな待合スペース、そして線路もそのまま残されている。立入禁止の看板が出ているので、その上からホームの中をのぞきこむ。ワンマン運転には欠かせないホーム上のミラーも残っている。廃止されて2年半が経過するが、100キロを超える区間の全ての施設を一気に撤去するのも難しいのだろう。

粟屋に立ち寄ったのは予定外だったが、今回いくつかの駅を目的地としてカーナビをセットする中で、線路に沿って走るのでおのずと他の駅にも寄ることになり、そうした駅跡も見ることにしよう。

途中、踏切跡に出会う。渡る箇所は舗装されて完全に道路となっていて、両側の線路も残されているが立入禁止の看板と柵で厳重に仕切られている。これもこの先いたるところで目にする。

粟屋の次が長谷。三江線の中でも「秘境駅」の一つとされているが、ここには2013年に訪ねたことがある。その時は大阪からクルマで広島まで来てマツダスタジアムで野球観戦、駅前宿泊の後、帰りに中国山地をたどったドライブ旅行だった。

その時はまだ廃止が決まったわけではないが、ローカル線のこうした駅ということで待合室には駅ノートが置かれていた。

そして何よりも予期しなかったことに、三次に向かう列車に遭遇することもできた。私にとって、三江線の列車を目にしたのはその時が最後だった。

そして2020年。駅舎、ホームが廃墟になりつつもその時の様子をとどめていた。ただし、扉は閉ざされていて「ありがとう三江線」の貼り紙がある。手前の鉄橋もそのままである。廃線後の措置として、とりあえず踏切を道路にする、駅名標を撤去することは行ったが、高架橋、鉄橋となると撤去するにもそれなりの費用がかかることもあり、なかなか進まないのだろう。

代替バスの停留所がある。三次とこの先の式敷を結ぶ路線で、現在1日5往復の運転。ただ、標識に書かれた案内文を見ると、2018年の西日本豪雨の時には江の川が氾濫し、沿岸では浸水、道路の不通があったことがうかがえる。三江線は2018年3月で廃線となったが、仮に存続していたとしてもその後の西日本豪雨で大きなダメージを受け、不通→そのまま廃止という措置が取られたかもしれない。大勢の人たちに見送られて運行を終えただけ幸せだったのかな。

長谷の次は、その代替バスの終点である式敷を目指す。ただそのまま同じ県道を、途中で道幅が広くなったり狭くなったり、沿線の集落も抜けながら進む。その流れで次の船佐に出会ったのでハンドルを切る。

船佐はホームから離れたところに駅舎が残されている。先ほどの長谷は駅舎の扉が閉ざされていたが、ここは扉が開放されている。

中には「ありがとう三江線船佐駅」として、廃止当時の船佐駅の様子を撮った写真が掲げられている。「令和時代も懐かしい三江線を楽しもう」との一文もある。

次の所木では、県道から駅に続く道に手作りで「旧所木駅」と書かれた看板に出会う。その横にはバス停の待合室があり、カップルが仲睦まじく体を寄せ合ってバスを待っているようだ。

・・・と近づいてみると、おかめとひょっとこの面をかぶった人形。駅の看板と合わせた作品なのかな。

立入禁止の柵があるのでホームには入れないが、この先の道を歩くと江の川に架かる橋に出た。結構高い位置に架かっているが、川の行く先を眺める。三江線に実際に乗ったのではなかなか見ることができなかった景色である。

次の信木はクルマからちらりと見ただけで、式敷に到着。小ぶりなログハウスがあるが、これは三江線当時からの建物だという。現在もバスの待合室として使われていて、建物内のトイレも含めてきれいに整備されている。1955年に三次から江津に向けて三江南線が開業した時の終着駅であり、現在も本数が少ないながら三次からの路線バスの終点になっているのは、昔からある意味区切りの駅だったのかなと思う。

駅舎内には、「やっぱり遺そうよ! 三江線」と書かれたノートがある。パラパラと中を見ると、廃線後も何らかの手段で三江線の駅を訪ねる人も結構いるものだと思わせる。言葉ではうまく表現できないが、今の人たちを引き寄せる何かが三江線にはあるのだろう。江の川なのか、周りの山々なのか、本数の少なさだったのか・・それは人それぞれのようだ。

中国観音霊場めぐりと言いながら道のりは長い。三江線跡めぐりも何回に分けて書くことになるのかなというところだが、まずはここでいったん区切ることに・・・。

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