まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

滋賀9番「百済寺」~神仏霊場巡拝の道・・・まさかの「これを何と読む!」

2024年07月25日 | 神仏霊場巡拝の道

7月20日、神仏霊場巡拝の道は湖東シリーズである。まずは永源寺を訪ね、これから湖東三山の百済寺、金剛禅寺、西明寺を順番に回る。遅めの出発のため、レンタカーを使える時間も限られるがどうだろうか。

湖東三山とは琵琶湖の東に並ぶ天台宗の古刹で、永源寺ともども紅葉の名所として知られる。室町時代には敏満寺、大覚寺と合わせて湖東五山と呼ばれていたが、その後の戦乱による衰退~復興の中で広い寺域を保った3つの寺院が湖東三山となった。

さてレンタカーは愛知川沿いから鈴鹿山脈の西を進み、湖東三山の看板も見える。まず目指すのは百済寺である。

百済寺への石標もあり、集落を抜けて山道を上る。そして駐車場に到着。暑い中である。

百済寺は1400年以上前、聖徳太子により開かれたとある。寺の名前に「百済」とあるから朝鮮半島とも関係あるのかなと思うが、聖徳太子が近江を訪ねた時、この地の山中に不思議な光を見たので行ってみると杉の霊木があった。その木で十一面観音を彫り、お堂を建てたのが始まりである。木の上半分が百済の龍雲寺で東向きに安置されたことから、寺に「百済」の名前がついたという。聖徳太子の伝説がどこまで真実かはさておき、渡来系の人たちの氏寺として開創、発展したとされており、天台宗の比叡山延暦寺が開かれた後はその勢力下に入った。

「百済寺三百坊跡図」という看板がある。平安から中世にかけて、先ほど走って来た山道の一帯に多数の僧坊を有していたが、その後は火災や兵火のために焼失と復興を繰り返した。この時代の寺院はどこも受難の時代である。室町時代の明応年代の火災で本堂等を焼失した後、朝廷に再建を願い出る文書の中に、伽藍、諸堂その他合わせて三百坊を有していたとの記述があった。昭和になって遺跡調査が行われ、これらの坊の存在も確認されたそうだ。

・・・と、ここまで札所の歴史について書いたのはいいが、門をくぐり受付に向かう。朱印受付とあったので神仏霊場の朱印帳を差し出すと、係の方が「申し訳ないんですが・・」とした後、「今日は書き置きの日です」という。え?書き置きの日って・・。

話によると、この日は午前中まで書き手がいらっしゃったようだが、その方が不在で午後は書き置き対応になったという。「明日はいてると思うんですが・・」というがどうだろうか。これが書き置き、バインダー方式の札所めぐりなら何とも思わないが、神仏霊場については直書きにこだわりたい(だからといって、目の前の方に書いてくれというわけにもいかない)。

まあ、これまでにも正月や大型連休の時の訪問で「書き置きのみの対応」という文字を見せられ「これを何と読む!」という対応もあり出直すことになった札所もある。参詣だけしてもよかったが、参詣前の受付でこうした対応となってしまってはお参りも改めての機会でいいかな・・。明日か・・明日どうするか・・。

百済寺は公共交通機関で訪ねるには決して至便ではないところにあり、時刻表による事前のシミュレーションが必須のようだ。

気を取り直して、今回のあみだくじでの目的地である金剛禅寺に向かうことに・・・。

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