先日、高校生を主人公とした話題の映画を観ました。
「コクリコ坂から」 スタジオ・ジブリ作品です。
この映画の原作は、1980年に『なかよし』(懐かし~い!)に連載されていた、
高橋千鶴(作画)・佐山哲郎(原作)による漫画作品だそうです。
舞台は1963年の横浜、
いわゆる「団塊の世代」が高校生の頃でしょうか。
高校生の少女「海」と少年「俊」の淡い恋の行方を描いています。
その背景には、朝鮮戦争、東京オリンピック、学園紛争、
自由と自治を訴えるガリ切りの「ビラ」、理事長への直訴など、時代を感じます。
真っすぐで、爽やかな青春映画ですが、
お子様たちには、もしかしたらあまり面白くないかも。。。
「コクリコ坂から原画展」が23日から、西武池袋本店で開催されているようです。
23日に池袋に行っていたのに、知らなかったーーーー!。。。残念。。。
タイトルの「コクリコ」はフランス語で「ひなげし」を意味します。
撤去の対象になっている文化部巣窟の建物はパリにある地名と同じ「カルチェ・ラタン」。
主人公「海」のあだ名は「メル」ですが、
これはフランス語で海を「ラ・メール」というのからきているのでしょう。
私は、フランス語へのこだわりが気になりました。
もう一つ心に残ったのは、挿入歌の「紺色のうねりが」。
生徒たちが理事長への返礼という形で合唱しますが、おそらく校歌という設定でしょう。
紺色のうねりが (Remix) | Koniro No Uneri Ga (Remix)
「紺色のうねりが」
紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
われらは 山岳の峰々となり
未来から吹く風に 頭をあげよ
紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
透明な宇宙の 風と光を受けて
広い世界に 正しい時代を作れ
われらは たゆまなく進みつづけん
未来から吹く風に セイルをあげよ
紺色のうねりが のみつくす日が来ても
水平線に 君は没するなかれ
これは作詞:宮崎駿/宮崎吾朗ですが、原案は宮沢賢治の詩「生徒諸君に寄せる」。
(映画エンドロールのクレジットにこの表示があり、気が付きました。)
宮沢賢治といえば岩手県花巻市出身、
詩の内容もあの東日本大震災を想起せずにはいられません。
宮沢賢治の出生年は1896年で明治三陸地震の年、
没年は1933年で昭和三陸地震の年でした。
映画の中でも、生徒がこの詩を朗読するシーンがありました。
以下の詩は大変長いので、興味のある方はお読みください。
「生徒諸君に寄せる」
中等学校生徒諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である
諸君はこの時代に強ひられ率いられて
奴隷のやうに忍従することを欲するか
今日の歴史や地史の資料からのみ論ずるならば
われらの祖先乃至はわれらに至るまで
すべての信仰や特性は
ただ誤解から生じたとさへ見へ
しかも科学はいまだに暗く
われらに自殺と自棄のみをしか保証せぬ
むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ
諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ
宙宇は絶えずわれらによって変化する
誰が誰よりどうだとか
誰の仕事がどうしたとか
そんなことを言ってゐるひまがあるか
新たな詩人よ
雲から光から嵐から
透明なエネルギーを得て
人と地球によるべき形を暗示せよ
新しい時代のコペルニクスよ
余りに重苦しい重力の法則から
この銀河系を解き放て
衝動のやうにさへ行われる
すべての農業労働を
冷く透明な解析によって
その藍いろの影といっしょに
舞踏の範囲にまで高めよ
新たな時代のマルクスよ
これらの盲目な衝動から動く世界を
素晴らしく美しい構成に変へよ
新しい時代のダーヴヰンよ
更に東洋風静観のキャレンジャーに載って
銀河系空間の外にも至り
透明に深く正しい地史と
増訂された生物学をわれらに示せ
おほよそ統計に従はば
諸君のなかには少なくとも千人の天才がなければならぬ
素質ある諸君はただにこれらを刻み出すべきである
潮や風……
あらゆる自然の力を用ひ尽くして
諸君は新たな自然を形成するのに努めねばならぬ
ああ諸君はいま
この颯爽たる諸君の未来圏から吹いて来る
透明な風を感じないのか