カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

そもそも選択をする側の資質が試されているのが選挙である(結論)

2023-04-19 | culture

 僕が選挙に関わっている関係もあると思うが、選挙批判のようなものをぶつけられることも多い。僕の責任において答えられるものと答えられないものがあると思うが、多少不当な意見であるという印象がある上に、それらの考えや印象については、ほぼ100%に近い誤解であると言える。しかしながらたとえそうであるとはいえ、少しその意見や感想について、そう思われるのも分からないではないところもある。
 例えばこんなに議員はいらないとする意見だが、そういう意見を受けて多くの地方議員定数は自ら減らされてきている経緯をほとんどの人は知らないようだ。だいたいにおいて議員の定数というのは人口割りであったのがスタートだ。もちろん他国と比較してみれば分かると思うが、日本より少ないところもあるが、日本より多いところももちろんある。少なくすればいいというのは、よく考えたらたいした根拠では無いことくらいすぐにわかるはずで、少なくするとその分市民の意見が通りにくくなる。何故かというと選挙に強い人しか当選しなくなり、そういう組織力や財力のある人しか上がらない選挙において、選挙自体にチャレンジする人も減るだろう。それだけ多くの人の意見を拾い上げられなくなるということになる。人口割りというのは乱暴ではある面はあるけれど、議会による委員会数であるとか、その中での活発な意見の拾い上げなどを勘案すると、やはり一定の人数は必要だというのが妥当なところだろう。
 また地方選挙の成り立ちを考えると、その地区ごとに人物を立てて議員を送り込むという基本があったのだろうと思われる(都市部と周辺地区の利益は必ずしも同じとはいえない)。もちろん今もその名残はあって、町内会長などの要人の支援が、基本的には欠かせないと思われる。もっともそのコミュニティ自体が崩壊しつつある現状があって、そこにいわゆる空中戦であるとか、新しい選挙展開がなされるようになったわけだ。実際には投票率自体が下がり続けている一番の要因は、議員の責任というよりも、そのような社会の成り立ちにおいて選挙制度が追い付いていない可能性の方が高い。しかしそういう事情はもう戻りはしないので、投票率が低い中での民意の拾い上げということになり、結局は一部の人間の意見しか吸い上げることのできない仕組みが完成したということだろう。選ばれる側の論理からすると、今の選挙はそれだけ難しさが増している。その中で限られた試行錯誤の戦い方以外に、選択肢が無くなったのである。
 また諸外国では議員報酬がそもそもないところが多く、報酬があっても議会出席などの日当制が多かったりする(※日当制については、日本でも検討の余地はありそうだ)。当然地方議員の多くは兼業ということになる。日本の議員は専業がほとんどなので(農業や会社役員という人でも少数である)、そういうあたりはちょっと事情が違う。しかしながらこれも当然批判があり、結局そのような立場の人でなければ議員になれないということにもつながっており、根本的に日本の事情とは合わない(例えば英国やアメリカなどでは、基本的に大きな組織や企業の支援の無い人が議員になれないことになる)。また若い人が十分な報酬で議員になれるということを考えると、それなりの水準である方が、なり手の質を担保しているとも考えられる。それでもこのありさまだと言われたら、確かにそういうところもあるが、しかしそういう批判は、やはり選挙に関わってあらわすべきであろう。(続くかどうかは不明)
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