未遂に終わったとはいえ、またテロ事件が起きたことのショックは計り知れない。安全だと思われている国日本で、白昼堂々と選挙戦の真っただ中にこのようなことが起こる。まさに信じられない思いだ。その信じられない異常さこそ、日本でのテロの影響の大きさにつながっている。テレビの報道画面を見ていて、僕の周りの人々の反応はさまざまではあったが、驚きとともに一番多く聞かれたのは、日本の警備はお粗末だ、ということだった。僕自身はまったくそんなことは感じていなかったので、まずはその反応や怒りのようなものに、かなり違和感を持った。その後ネットから爆弾が放り込まれた瞬間の映像を見た。すぐに爆発しなかったのが幸いしているとは感じられるものの、いわゆる警備の人が必死で素早く行動している様子が分かる。もちろん爆弾の精度が悪いのか(手作りだし、実際のところは分からないが、おそらくすぐに爆発するはずのものだったが、失敗したのではなかろうか)、結果的にはそのような状況にあって、大きなけが人は出なかった様子だ。皆が気づく反応の遅さはあるように感じるが、あのような状況であれば、それは致し方ないようにも思う。いったいなんだ、と状況が分からない人々にとっては、そのように分からないものへの確認の方が先にあって、思うように逃げることすらできないのではなかろうか。爆弾が持ち込まれないような警備でない限り、対処としてはあれ以上のことが本当にできたのかは疑わしい。爆弾を投げた犯人の周りの人々も、実に素早く行動している。何か妙な行動をした人間に対して、その反応が素早いもののように思える。すべてが警備の人では無かったらしいことも驚きだが、結局は犯人のたいして緻密でなかった行動もあって、最悪の事態は未然に防ぐことができた。ある意味でそれは、過去の経験に学んだこともあるだろうとは考えられそうだ。
結局は、それにしても不可解で不思議な人間が、まだまだくすぶっているのではないか、という不穏な気分ではなかろうか。安倍さんを殺した犯人は、最大限のテロを成功させただけでなく、多くの世論を味方に付けてしまった。結果的に今回のテロを呼び込んだと言っても過言では無いだろう。統一教会という闇があったのは、いわゆるずいぶん昔から公然と知られていたことにもかかわらず、タイミング悪くオウム事件が起こり、勝手に人々はそれを長期にわたって忘れていただけのことである。その後も統一教会の家族が過激に対応する応酬の出来事は、ときどき漏れ伝わっていたが、人々はそれらは一部の人々の不幸だとくらいにしか受け止めていなかった。おそらくだが多くの人は、いまだにそんな人たちがいるなんてことは確かに忘れていたけれど、それに似たことが他でも行われていることくらい、ふつうは気づいていたはずだ。宗教の自由は保障されるべきだと思うが、病気や貧困にはびこるこれらの闇は、いまだに大きく根を張り広がっているのである。
残念ながらこのようなテロは、政治とは無関係な個人的な屈折した思いが原因であるようだ。さらにそうであるならば、未然に防ぐのは不可能である。よって前回の山上のような人間を擁護するような政治的な気分というものこそ、しっかりした認識で紐解いていくことが肝心だと思われる。明らかに誤解したままで政治の悪を追求する愚かさを、改める必要がある。それは政治家を守るためというよりも、自分たちの社会を健全に保つための賢さに他ならない。間違っている人間に、その間違いの愚かさを理解させる必要がある。間違った認識を持った人が、その誤りを正すことなど不可能に近いのである。それがこのような事件を呼び込んでしまった日本社会の責任でもあるだろう。