カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

僕らが生きて立ち会っているものごと

2023-04-26 | ことば

 考えてみると、言葉に興味を持ったのは、やはり父の影響もあったな、と思う。父は昭和一桁の人間で、最後の旧制中学の出なので、ふつうに漢字はよく知っていて、読めない漢字は無いのではないか、と子供ながらに頼りにしていた。父が読んで教えてくれた漢字を後で辞書を引くと、ちゃんとそう書いてある。これはとても楽しい体験だった。「あれなんて読むの?」と聞いて、読めなかったことは一度も無かったのではなかろうか。
 そうではあったのだが、ある日テレビの宣伝を見ていて、父が「センジョウザイで決まったのかもしれないな」とつぶやいた。何のことかというと、商品の洗浄剤のことである。これは本来「センデキザイ」と読むのが正しいのだが、「洗滌」と書かれていたものがデキと読めずに慣用的に、センジョウ(ややこしいことにジョウとも読めるが、この場合にはデキとしか読めないにもかかわらず、ということになる)と読んでしまう人がそれなりに居たものらしい。その上で当用漢字だか常用漢字から滌の字がもれてしまい、どういう訳か音も違うが読み間違う慣用読みと同じで意味合いが似ているという理由だか何だか知らない「浄」の字があてがわれてしまった。そうすると読み間違いのセンジョウの方ががぜん強くなってしまい、自社商品であるにもかかわらず間違い読みであるセンジョウザイと自ら宣伝してしまっている始末である。これではもうどうにもならなくて、正しさは押しやられてしまったのである。
 僕は何も、もともとあった正しさに戻せとか、原理主義的に元のものこそが唯一の正しさだと言いたいわけではない。そのような物事そのものが、何か言葉の面白さとして感じられたということなのである。こういうことは、あとで調べ直したりして正確にわかったことで、単に父が疑問に思ったという時代に立ち会えたことが、僕の子供のころに重なった訳である。そういえばそういう疑問に思うようなことは、日本語を使う僕ら自身にもたくさんある。あの人は何と言っていたとか、自分はこう言い間違えたとか、それこそ言葉にまつわることは、日常でごまんと発生する。別段それらは頭が悪かったからそうなったとかいう恥ずかし気な話ではなく、日本語というのは、そういうものなのである。
 もちろん、最初のころは、正しいものを知りたいとか、間違わないようにしたい、という気持ちもあったとは思う。でも、そのような使われ方であるとか意味合いなどの変化というのは、僕らが生きていることと同時性がある。僕らの使っている言葉は、ひょっとすると数世代先の人は、何か翻訳のようなものを使わないと理解できなくなっているのかもしれない。
 そういうのって、ちょっといとおしいことだとは思いませんか。
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