田舎暮らしなので外食して恐ろしいことはめったに起きないが、それでも寿司屋というところはやっぱり恐ろし気なところが無い訳ではない。そんなに大きな面構えでないところに限って、それなりに立派ということがある。だからと言って銀座のように10万を超えるということは無いのだろうけど、1万ということはあり得る。それでも安い、という人もいるけど、通うところではないだろう。
寿司屋が高いというのは、確かにそういうところだからという理由は分からないではない場合もある。本当にそういう高い素材を惜しげもなく使い、腕もあるならそうなってしまうしかないのかもしれない。また値段の高さは人を選んでいる場合もある。客が選ばれているからいい店を担保できるともいえる。選ばれた客だからこそ味も分かる訳で、そこはある程度の勝負もかねて、値段設定は考えられているに違いない。もちろんそれで成り立つような評判を保ち続ける必要もあろうから、田舎であるほど、生き残りは大変かもしれない。
たまにはそういうところに行きたいと思わないではない。ちょっとした贅沢を味わうという意味でも、やはり行ってはみたい。あそこは良かったよ、という話を聞くと、そういうものかな、とも思う。しかしやはりそんなに近所でない場合が多く、そこまでして、と躊躇する。予約というのも面倒である。先の予定は他にもあるし、それが増えるのは嫌なのである。
たまの贅沢だから、今風に言うと何か自分へのご褒美のようなものにもしたい。しかし自分だけのご褒美を自分で設けるのは気が引ける。今では無い将来のことだが、確かにそういうものを自分で決める場合であるとか、立場にない気がする。
寿司は好きなのだが、酒を飲んでいる場合は、ずっとつまんでいるというのも嫌なのかもしれない。ああいうのは江戸前だと、パパッとつまんで帰るというのが粋というのだろう。そうするとせっかくの機会なのにせわしない。貧乏性なのでそういうカッコつけはどうもいけない。しかし無粋なのは恥ずかしい気もする。
料理屋としての寿司屋には行く。それは自分一人ではない。そうすると何かくれという。もしくはつれの人が何かを頼む。料理屋というのは受け身の方が良くて、なんでもいいから客の顔を見て作ってくれるような店がいいと思う。そうすると通う必要があって、しかし通い方によっても、当たりはずれができてしまう。まあ、そういうものではあるのだが、結局は自分のその時の都合が相手に簡単に分かるはずは無かろう。要するに自分の側に許容が必要だ。それには修行も必要で、早い話がまだ僕には早すぎるのであろう。