カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

なぜ僕は自己中なのか

2015-11-16 | 掲示板

 僕には特に主義主張があってのことでは無いが、信仰心が無い。本当にまったく無いといっていい。これは信仰心のある親を持ちながらまことに不謹慎だとも思うのだが、神様がいると思えないものをどうしようもない。不思議な力を感じることも人生においては一度も無いではなかったが、それが神のおかげだと思ったことも無い。それらしいありがたみを感じるというのは言葉の表現上はあるし、自然への畏敬の念やご先祖への感謝の気持ちもよく分かるが、それが神とつながる存在であるとか、仏の考えであるとは、まったく信じがたい。まったく非難でないので誤解をしないでほしいが、神社仏閣教会などにおいて、それらしい存在がいるとはつゆとも感じない。しかし、神や仏がある人にとっては別にいてもいいので、それは僕とは関係ない話として、存在していればよろしいと思う。けしからんのでそういう考えなら殺してやると言われれば、便宜上は、それは神を信じますと安易に寝返って言うに違いないが、恐らくそれで信じられるはずはない。人間には必ず神が必要であるというのであれば、僕は人間でなくてもいいとも思う。まあ、たぶん人間はやめられないのだろうけれど。
 理由というのも特になくて、神が無いというのが、僕には自然だということになるかもしれない。人間というのは特に普遍的な存在ではないし、僕も間違いなくいずれは死ぬ。それが神の意思だというのは、勝手にやってもらっていいことだけど、それは僕の意思では断じて違う話だろう。うぬぼれているのでもないし、ひねているのでもない。例えばしかしイスラムの国に生まれたならば、自然にアラーに祈っていたかもしれないし、ローマに居たらカトリックになっていたかもしれない。寺の息子に生まれたからには、坊主になっていたかもしれない。しかしそういう風には生まれてなくて、今は僕はここにいる。そのことは誰に感謝していいかわからないが、神というような存在に感謝してもいいけど、僕には居ないのだから仕方がない。そっと目の前の暗黒に感謝するより無いだろう。
 これは特に誰かに何かを言いたくて書いている訳でもない。誰かに教えられてこうなったのでもない。しかし自分自身の考えでこうなったのでも無いかもしれない。そうして一般の無神論者といわれる人と、同じ無神論者でもないとも思われる。僕は普通に仏閣などには手を合わせるし、念仏を唱えることに違和感もない。もちろん、上手いタイミングではないにせよ、アーメンといってもかまわない。信じる信じないということに対して、頓着さえしていないかもしれない。神を信じていないけれど、だからといって僕は無神論者ではないのである。僕に神は居なくても、無神論で神がいないと言っている訳ではないのだ。僕にだけ居なければそれでいいだけの話だから、自己中心であるというだけのことなのである。それでいいとは思ってもいないが、それでいいとしか言いようのない精神性なのかもしれない。そうして神がいるとかいないとかということは関係が無いのだから、そのためにしあわせや不仕合せがあるわけではない。しかしその感情は当然持ち合わせていて、そのこと自体は大変に素晴らしい。だから僕は関わりが無くても生きていけているのだということになろう。
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馬鹿な郷愁を味わう本  ワイルドナイツ 他

2015-11-15 | 読書

ワイルドナイツ(双葉社)/ピンク・ニップル(青林工藝社)/古泉智裕著

 いわゆる成人漫画。子供や女の人は読んではいけない。というか、たぶん読んでもちっともわからない内容なのではないか。男の身勝手と性の欲求が、精神をゆがめてしまう。そうして再生するためにはやはり性は必要で、そうしてしかし、そのことに本当に自覚的にならなければ、自分の満足感というものは無い。どうして神は男というような悲しい存在を作ってしまったのだろうか。まったく罪深いものだと思う。
 それにしても情けないというかなんというか。比較的ワイルドナイツは努力のたまもののような展開はあり、バカだけれどだんだんと成長するような高揚感がある。もともと正義感が無かったわけでは無くて、ふだんは怯えてむやみに怖がっているだけだったのだが、空手を習いだして、そうして素人相手なら何とかなるような自信をつけて、そうして夜のコンビニなどに出現するようなヤンキー男を見つけると、勝手に不意を衝いて制裁してしまう。ヤンキーはふだんは弱いものをいじめて強がっているけれど、所詮は格闘技においては素人である。曲がりなりにも道場に通うような素人に毛の生えた程度の人間でも、ある程度の不意を突けば、それなりに効果的に勝ててしまう。味をしめて女と上手くいかないような時などイライラしたりすると、夜な夜な制裁を行うようになるのだが…。
 個人的に結婚を前提に付き合っていた女性はいたのだが、結婚が近づくと先に同棲を始める。ところが実に精神的に不安定なところがある女であることが分かり、とても結婚生活を無事に送れないとあきらめる。婚約も解消して別居したところ妊娠が発覚。パチンコスロットル場で働いてはいるものの、とても高給取りとは言えない生活でありながら、給与の大半は慰謝料と養育費でもっていかれることになっている。そういう不満はありながら、しかし性的な欲求は満たされることは無く、いつも何かに怯えながら、しかし激しい怒りは内包している。そういうことで、ヤンキー制裁という発散の道を見つけたということだ。徐々に力をつけていって、試合にも出ようかという展開になる。そういう中で最後に別れた女が子供を連れて会いに来る…。特に感動的ということでは無いが、絵もぜんぜんリアルさのないものであるが、ひょっとするとこれは真実の物語かもしれない。僕は薄く感動しました。
 ピンク・ニップルの方はさらにエロ漫画でどうしようもないが、そのどうしようもなさがそれなりに効いている。これは最初から高校生の女の子と付き合っており、お墓参りでも致すし、友人の家でも友人が観ている前でしてしまう。空家と思って忍び込み、実は人が住んでいたところでもしてしまう。要するにセックスのスリルを求めている訳で、自分の快楽のためになりふり構わない。それで高校生の彼女もある程度は満足していると思っている節がある。ところがある日海辺でいちゃいちゃしていると、ヤンキーの二人組に絡まれ金をせがまれて、女を置いて逃げてしまう。まあ、そういうような最悪男の末路は、やはりどうしようもない。しかしその哀愁はなんだかやはりリアルで、まったくリアルな絵柄でない漫画でありながら、その郷愁が、余韻が、涙を誘う(かもしれない)のである。少なくともあんまりこういう漫画になじみが無くて、楽しく読ませてもらいました。繰り返すが、女の人はたぶん完全に感心しないと思うので読まないように。大人の男は馬鹿なら読んでよろしい。
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芸術的で商売の上手い感覚   バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

2015-11-14 | 映画

バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)/アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督

 以前はバードマンというあたり役を持っていた俳優が、今はなんとなく落ちぶれていて、再起をかける感じで演劇に取り組んでいる。しかしながら共演する俳優の方が脚光を浴びたりして余計にみじめになっていく。追い打ちをかけるように娘との関係も上手くいって無い。どうも精神的にどんどん参ってしまって、現実と夢とが錯綜する世界の中に入っていく感じになっていく。ほとんどファンタジーといっていい映像世界と、それでもリアルな日常のコントラストと、そうしてそれが混沌とまじりあう変な映画。
 話題になっていたらしい長回しの撮影手法もそのリアルさを際立させているし、突然に何の説明もなくファンタジーの世界に入り込む狂気が、なんだか主人公と一緒になって狂気を体験しているような気分にさせる。凝りに凝った映像世界なのに、妙に内にこもったところがあって、これはこの業界人でなければちょっと理解しがたい感じも無いではなかった。
 狂気であるが、単にこれは精神的な破綻の姿かもしれなくて、理解できない人にはちょっとぜんぜんだめかもしれない。僕の場合はちょっとびっくりはしたが、まあ、そんなに苦しいもんかな、という共感は逆に冷めてしまったところはある。ネット上で話題になる展開は面白くなりそうだったけれど、それは結局自分の救いにはならなかった。まあ、そのようなカタルシスを楽しむ映画では無いのだろうけれど、映像が上手すぎてかえって上手くいって無い映画なのではなかろうか。
 しかしながら誰にでも精神的な破綻は経験はあろう。問題はそれが病的なのかどうか、というあいまいな境界で、この映像世界だと、かなり確実にあちらに行ってしまった感が強い。しかしバランスなのかこちらにも戻ってくる。しかしそのリアル世界は、僕らからするとさらに夢の中のような、ちょっと現実離れした演劇世界なのである。夢の中で夢から目覚めるような居心地の悪さがある。素直に病院に行ってくれないかな、というか、そんなにつらいならもうやっていくは不可能だろう、という心配の方が先に立ってしまう。それは日本人的な真面目さゆえかもしれないが、相手も傷つけ自分も破綻していくさまが、痛過ぎてちょっとつらいのだ。
 つまるところ現実の主演俳優のマイケル・キートン自身がこういう演技をやっていることにあちらの人たちはきっと感慨深いものを覚えるのだろう。僕はそういう気分もまったくわからない訳ではないのだけれど、しかし本当は自伝でもなんでもないわけで、やはりあちらの人たちは商売がうまいのかもしれないな、と思うのだった。
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グリーンランドに惹かれるか

2015-11-13 | ことば

 グリーンランドという島がある。デンマークの国土のほとんど占めるところだが、小国と考えるととんでもない。面積は220万平方キロもあり、実に日本の六倍の面積だ。そのためにグリーンランドは島ではなく大陸だという説もあるくらいだ。この広さのためにデンマークは、ヨーロッパ最大の面積の国なのである。
 もっとも島の80%は氷床と万年雪に覆われている。氷の厚さが3000mを越えている場所もあるという。人が住んでいるのは沿岸部に限られている。
 氷の島なのに、なんでグリーンランドという名前なのか。
 10世紀の終わりに殺人の罪でアイスランドを追放された「赤毛のエリック」という海賊が流れ着いた。この海賊のエリックは、この地に他のアイスランドからの入植者を募るために、「緑の大地」という名前でキャンペーンを張り、多くの人を騙して入植者を増やした。もっとも10世紀の頃はヨーロッパや北米では「中世温暖期」といわれる時期で、比較的温暖な気候であったらしい。少しくらいは、緑はあった可能性もある。しかしながら14世紀になるとまた寒冷な時代へ戻り、入植者のすべては絶滅して終焉を迎えてしまう。まったくひどい詐欺である。それから400年の後にデンマークとノルウェイから移住者が入り、現在はイヌイットを中心に南西部のみに5万人ほどが住んでいるという。
 面白いのは、その詐欺のために命名されたグリーンランドという名称が、そのまま残っているということかもしれない。現地のイヌイットはそのように呼んでないらしいが(「人の島」と現地では呼ばれているらしい。なんとなくその名称の方が物悲しいが。)、少なくとも日本の僕らには、グリーンランドという名前で憶えられている。もちろん現在は、そのために入植者を募っている訳ではないだろう。

※:まったく関係は無いが僕は長崎県に住んでいるので、近くの熊本にある三井グリーンランド(現在は三井が外れて、グリーンランドに改名)という遊園地になじみがある。そちらの方も元炭鉱会社が閉山を機に別事業として始めたので、特にグリーンなところではない遊園地である(もっとも、ゴルフ場も併設しているので、まったくグリーンじゃないとは言い切れない)。また、聞くところによると、北海道にもグリーンランドいう遊園地があるという。人々はグリーンの響きに弱いのかもしれないですね。
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昼も夜もパリの素晴らしさ   ミッドナイト・イン・パリ

2015-11-12 | 映画

ミッドナイト・イン・パリ/ウディ・アレン監督

 主人公は今は映画の脚本家だが、作家として自立しようとしている。金持ちの女と付き合っており、彼女の親と一緒にパリに旅行に訪れている設定。男は、現代のパリはもちろんだが、古き良き時代のパリに憧れている。そういう中、夜道を迷いながら歩いているとタイムスリップして、まさに先の大戦前の狂騒の時代のパリの街に迷い込んでしまう。そこでフィッツジェラルドとゼルダ、ヘミングウェイなどのアメリカ人、そしてその時代に活躍したピカソやゴーギャンなどの画家とも交友するという夢のようなお話。さらにピカソの恋人だったアドリアナに恋してしまう。昼の現代のパリと、夜の昔のパリという二重生活をしながら、男は恋と作家としての創作意欲とに燃え、どんどん混乱していくのだが…。
 タイムスリップするのでSF映画ともいえるが、実際にはもっとゆるい現代的なファンタジーのような感じ。いや、実際にはもっと現実的で、その当時、文字通り世界的に文化の中心地だったパリという街での、芸術の最先端で遊びまわる文化人たちの中に入って、酒を飲み歌い踊る毎日を送ることに、興奮しない現代作家などいないだろう。さらに昼間の間は確かに深く愛していた婚約者の恋人とも、もともと趣味が合わないところがあったのだが、パリとの付き合いにおいても、このずれはどんどん深まっていく。そのこととは裏腹に、夜の過去のアリアドネと過ごす時間に夢中になり、自分の軸足が過去にとどまるかに見えたのだが…。
 基本的にはコメディで、主人公を演じるオーエン・ウィルソンが、二枚目でありながらまさに、ウディ・アレンの話し方そっくりの滑稽な男を見事に演じている。これだけでも結構楽しいのだが、皮肉に満ちて実際にひねくれている男が、憧れのパリの街に染まっていく中で、どんどんまともになっていく感じもなかなか面白い。もともと現代のアメリカ人の方が狂っていたのだということも言えるのかもしれない。恋に狂うあまりに昼間の世界では逸脱した行動を見せながら、夜のパリで正気を戻し、昼間の狂った世界と決別する方がまともになるのである。見事な逆転で、地味だからなんとなくなんだが、どんでん返し映画の見本のようなスリルである。ラストの余韻もなかなかなのである。ウディ・アレンの映画だから、当たり前だが派手なハリウッド的な大傑作とは言い難いわけだが、しかしまさにウディ・アレンにしては、豪華絢爛の狂騒時代を含め、実に見事なそれなりに甘いところも見せる、見事な傑作映画になっているのではないか。何しろ初めから終わりまで楽しいし、スリルや冒険も楽しめる。そうして妙に小さいこだわりや偏見もふんだんにあって、やっぱり変だよこのインテリは(もちろん監督、ウディ・アレンのこと)、というようなオタク的な満足感も味わえる。
 まったくお得で楽しいひと時。でもひねているので以前からのファンも一緒に楽しめる。普通はあんまり大衆性の無い作風から、ちゃんと娯楽が撮れるいい監督さんになったものだと感心してしまったのだった。まあ、いらんお世話だろうけれど。
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滑るのが怖い

2015-11-11 | 散歩

 南の土地に暮らしていてよかったな、と漠然と思うのは、冬に滑って転ぶことが少ないというのがあるかもしれない。それほど僕は滑って転ぶことに恐怖を持っている。若いころならスケートに行って転んでも楽しかったが、もうそういう喜びは無い。だからたぶん自分が滑るためには、これからの人生としてスケートに行くことは無いだろう。そしてたぶんスキーにおいても。まあ、地球が急に寒冷化して、僕の住んでいる地区にも雪がたくさん降るようになったら、考え直すかもしれないけれど。
 滑って転ぶ危険は、しかし雪だけの問題では無い。僕の自宅は少し山間部を登っており、要するに家の前の道などは坂道である。一応舗装はされているんだけれど、雨が降ったり、そうして苔が生えたりという危険が無いではない。犬の散歩をする途中に民間のグループホームがあるが、そのわきを下る道がお気に入りでよく通る。しかしこの道がちょっと急で、しかも舗装されていない。だから車が通らずいい道なんだけれど、やはり雨上がりなどに滑るのである。
 散歩のときは比較的底に溝がある靴を履いているけれど、そのように気を付けなければ滑る道というのは、田舎にはあんがいまだ残っている。車の通行が少ない道を選んで歩いているというのはあるが、田んぼの畔のようなところが赤道になっていたり、また住宅街でも子供の頃から抜け道として知っている垣根の隙間道なんかがある。地元の人しか通らないし知らない道なんだろうけれど、しかしこれらの道は例外なく場合によっては滑るのである。子供の頃は危険が危ないとか言って、楽しんで歩いていられたが、僕はもういい大人である。危険が危ないなんていう変な日本語だってむやみに使えない。紳士とは言えないまでも、それなりの良識を持って平和に暮らしたいだけのことだ。むやみに滑って転びたくない。
 実をいうと、滑って転んで怪我をするのが怖いからという理由なのではない。もちろん怪我するのはまっぴらごめんだけれど、滑ってしまうとむやみに恥ずかしいのが嫌なのである。ずるっといくと、ちゃんと転ばないまでも、反射的に周りを見回してしまう。一人で頭をポリポリ掻いたりもするかもしれない。ひょっとするとほんのり赤面しているかもしれない。そうして、どうしても反射的にそうなってしまう自分が嫌なのだ。自意識過剰であるという意識さえ自覚が無いのに、どういう訳か滑ってしまうとむやみに恥ずかしい。滑ってしまう動作がどうしてこうも滑稽なのか。お前はドリフか。とにかく、恥ずかしいものは恥ずかしい。恥ずかしがってしまう自分が恥ずかしい。まったく南に生まれて良かったのです。
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自ら変わることが、文化を変えることかも   少女は自転車にのって

2015-11-10 | 映画

少女は自転車にのって/ハイファ・アン=マンスール監督

 場所はサウジアラビアらしい。イスラム教の国でのお話なのですぐに状況は呑み込めないが、要するに宗教的な習慣があって、いろいろと女性が不便に虐げられているというお話だ。男性の目に触れないようにベールをかぶらなければならないし、そもそも女性が一人で外出することは許されていない。男性の目に触れるような場所にとどまっていることもできないし、自転車にのるなんてことは、明文化してあるかどうかは知らないが、もってのほかのことなんだろう。映画の題名にもなっているこの行動はだから、ある種の自由さだとか、反抗だとか、女性の自立のようなことも含んでのことになるかもしれない。
 確かに困ったところだとは思う訳だが、それが文化とか習慣とかいうものであるというのは、最初には断っておく必要があるかもしれない。僕らは西側の文化で生活しているので、そのような女性の不自由は許されることでは無い。遅れているという感覚もあるが、それは西側のみの文化的な時代背景を伴っての感覚であるということだ。確かに人間は皆一緒で、ある程度の自由や平等が保障されないというのは悲しい現実である。そうではあるが、人間の歴史や癖というのは、ましてや宗教の問題があるのは、どうしようもない壁であると、まずは認識すべきであろう。彼らが西側で暮らすのであれば、実際に大変な罪を犯していると考えられるが、彼らの国の中で彼らの文化を守った中での差別なので、我々には手が出せない。彼ら自体が自分たちの考えで変えていくより仕方がない。もちろんそれではお話は終わりで、しかしこの映画はそのサウジアラビアにあって、その現地の女性が監督した作品であるという。要するにイスラムの国であっても、自分らに批判的な視線を既に持っているということになる。西側の僕らがこれを観てなるほどと思うことと、しかしその批判的な目を、実際に感じて何か行動を起こしてい欲しいというシグナルがあるという可能性はある。うちからと外からの考えなしには、このような習慣は安易に変えられるものではなかろう。ましてや宗教というのは、人間が作っておきながら、過去からの強制力が強い。人間の癖であるというのはそういう意味で、根付いたものが簡単に変わるようでは、宗教だって根付くはずが無いのである。
 それにしても確かにお気の毒で、サウジの女性は皆不幸であるかのようにも感じられる。繰り返すがそれは西側の視点であるにせよ、実際に苦痛を感じている女たちばかりが反抗する姿が続く。敵は男だけではなく、周りにいるイスラムの女であっても同時に嘘つきで高圧的で欺瞞に満ちている。この国がそんなに簡単に変わらないことは、だからむしろ自然なことだろう。
 しかし自転車に乗ることは、現実にはやればできることだ。そして少女は紆余曲折を経て、自転車で幼馴染の男の子と、自転車に乗って競争してこぐことが出来た。批判的な目や、ひょっとすると生命の安全にまで及ぶ問題なのかもしれないが、一人の行動は未来を変えるかもしれない。この映画が撮られているという現実も含めて、かなり実際にはイスラム文化は変貌を遂げている過渡期にあるのではないだろうか。
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温室が恵まれた環境なのか

2015-11-09 | 境界線

 火山に住んでいるマダラスズという昆虫は、冬になっても鳴いているという話を聞いたことがある。確か北海道の火山ではなかったか。要するに極寒の環境にあっても、火山の熱で一年中暖かいところがあるのだろう。マダラスズにとってはおそらく楽園で、一年中鳴いてハッピーかもしれない。
 しかしながら考えてみると、その火山に住める適正な数というものもあろう。暖かい範囲の中で、鳴くというのはおそらく繁殖と関係があり、何とか繁殖に成功しても、増えすぎてすべてが生き残れるのかという問題はどうなるのだろう。もちろん餌問題もある。火山の環境で食べられるものというのも限られているだろう。マダラスズが生きていられるだけの、他の生物の繁殖も必要になるだろう。そういう限られた環境の中で、さらに熾烈な争いが恐らくあるのではないか。
 温室育ちという言葉がある。文字通り温室で保護されながら、いわば軟弱に育てられることによる比喩である。しかしながらその温室に育つ権利を持つ人間は限られている。恐らくそれなりに裕福で、さらに愛情を注がれるだけの運を持っているということだ。言葉の中には、その後の外の環境での適応を心配されている部分もあると考えられるが、その環境を維持できるくらいの資金力は、恐らくその後もその子を守り続けられるかもしれない。
 特殊な環境で生きられることは、自然の中であれば必ずしも安泰を意味しないかもしれない。それは、特殊に適応する術を持たなければならないかもしれない。その中にあって、さらに過酷な競争があるかもしれない。そうして本当に火山が爆発するなど、限られた期間のみの歴史になるのかもしれない。
 それでもそこで生きる生命がいる。それが多様性の面白いところで、あたかもそこに意思があるがごとく、多様性を選択して生きているように見える。温室のような環境に行きながら、実は過酷な状況と隣り合わせでしたたかに生きている。
 僕ら人間の側は、それを見て勝手にどうこう考えている。それはそれで面白いことかもしれないが…。
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リメイクしてアメリカ的で本当に良かったのか   ハード・ラッシュ

2015-11-08 | 映画

ハード・ラッシュ/バルタザール・コルマウクル監督

 かつては密輸の運び屋だったが、今は足を洗って堅気の仕事をやりながら家族を持って暮らしている。ところが義弟が麻薬の運び屋をやってミスを犯し(というか仕方がないのだが)、その麻薬代金を肩代わりしなければならない破目に陥る。結局昔取った杵柄で、偽札の運び屋を企てるのだが、コンテナ船の船長からは嫌われているし、昔の運び屋ということで、警察やマフィヤなど多くの障害が立ちはだかることになる。
 アイスランド映画のハリウッド・リメイク作品らしい。そういう意味では、いいものはどんどんパクるアメリカらしい作品とはいえる。というか、結局アメリカ風にしなければ気が済まないというべきか。主人公以外はなんとなく頼りないし、敵も多く裏切りも多い。そういう中、抜け目なく立ち回り危機を脱していく。
 最近のCGバリバリ・アクションと比べると、どちらかというとドキュメンタリー・タッチで地味な感じなんだが、確かにものをどうやって隠しながら運ぶのか、というアイディアがなかなか考えられていて、面白い。それになんだかよく分からずみていると、実はどんでん返しがあったりして、それなりに爽快である。悪いなりに、どういう訳か麻薬には手を出さないという正義哲学のような考えを持っており、それが映画的には、本当に悪人がずる賢く立ち回っている風でないという説明になっている。ご都合主義には違いないが、自分以外はみんな敵という状況の中で、自分を正当化できないと、この物語は成立しないということも心情的には理解できる。まあ、それが西洋人の道徳観のようなものなのではないか。
 しかしながら僕のような東洋人の視点からすると、まず情けない義弟が騒動を持ち込み、さらに裏切りまでかけて、命がすり減ることになるし、それであっさり許してしまっては、死んだ人が浮かばれないという気もする。仲間内が裏切って、実は自分は孤立しているのではないかという疑問を持っていないところも不審に思う。最終的には裏切った仲間が制裁を受けるだろうことも暗示してあるが、ちゃんと復讐した方がいいとも感じる。まあ、僕は心が狭いのでそう思うだけのことかもしれないが。さらに結果的に大金を手にするが、これだって流れ的には運がよすぎるという感じもする。国際的な大事件には違いなくて、それをこのようなローカルな闇社会の人が、安易に手に入れていいものだろうか。まあ、だから娯楽なんでいいんでしょう。身内がハッピーだったらそれでいいのである。
 元のアイスランド映画が、たぶん出来が良かったんだろうな、ということをしみじみ思わせられる作品なのであった。
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ふじは日本のリンゴ

2015-11-07 | 雑記

 世界で一番多く作られているリンゴの品種は「ふじ」なんだそうだ。日本のリンゴの生産の半分(45%~55%といわれる。調べた限りデータに何故かばらつきがあるので、ここでは半分と表記する)は「ふじ」であるらしい。
 赤い色を鮮明に、いわゆる見栄えを良くするために袋がけして生産されるのが普通のようだが、太陽光をあてて見栄えを犠牲にした方が、糖度が高く味は良いとされる。そのように袋がけしないものを、特に「サンふじ」と区別しているようだ。
 「ふじ」は中国や米国などの海外でも人気が高く、現地で生産を伸ばしているらしい。もともとはリンゴの品種であるデリシャス種と日本の国光種を組み合わせて作られた。
 名前の由来は青森県の藤崎町の園芸試験場で生まれたものだからだ。しかし、「ふじ」と略したのは、やはり日本の象徴である富士山とかけてのものだろう。実際に中国の「ふじ」の表記は「富士苹果」である。やっぱり海外では日本のリンゴは富士だと思われているはずだ。いや、実は白状すると、僕も今までそう思ってたんですけどね。
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理解できる人が少なくとも、しかし、良い人   バッドトリップ

2015-11-06 | 映画

バッドトリップ/ミゲル・アルテタ監督

 副題は「消えた№1セールスマンと史上最悪の代理出張」。
 副題その通りの展開で、田舎で保険のセールスマンをしている真面目でちょっとうぶな中年男性が、その地区の保険会社でトップセールスマンだった男の急死(SM趣味があったらしく、その個人プレイ中に事故で亡くなったようだ)によって、保険会社の栄誉ある賞を取るための大会でのプレゼンに、代理で臨むことになる。不安いっぱいで、飛行機に乗るのも初めてだし、プレゼン前に社長はいろいろ言ってくるのでさらにプレッシャーは高まるし、障害となる情報も入ってくる。たどり着いたらホテルの部屋は保険屋ライバルと相部屋で、その中の一人は口は悪いし噂でも自分らの会社の顧客を横取りしようとしているという話もある。どうにもこの主人公が乗り切るにはハードルが高すぎる状況に置かれているのは間違いない。
 しかしながら付き合いはないがしろにできないので、とにかくこの大会に出ている仲間として少しばかり酒を飲んでハメをはずことに参加する。いろいろあるんだが、そこで同じ保険仲間の女性との情事におちいり、地元に残している年上の彼女との関係も切れ(浮気してしまったと電話しただけだけど)、ハメを外しすぎたことで賞取レースではかなり窮地に陥ってしまう。そういう中で実は前任のトップセールスマンは賄賂を贈って賞を取っていたということを知る。自分が取るべき道は、果たしてなんなのか。
 主人公のキャラクターが特殊で、いわゆるいじめられるようなタイプのまま大人になってしまい、正直だけが取柄でどんくさい。しかしこのどんくさい感じが生き馬の目を抜くような戦いをしている保険のセールスマンたちや、その他この状況にいる人々の目を開かせていくようなことになる。とにかくいい奴過ぎるので、自分のことが恥ずかしいというか、いや、この男をみんなで助けようというか、そういう気分にさせられるらしい。純粋すぎる大人は、それほどに何か人の心を打つのかもしれない。結果的にこの男は、知らず知らず自立の道を歩むことになっていくのだ。
 なんとなく日本人にはペースの掴みにくい変なコメディなんだけれど、面白くない訳ではない。いや、面白いのだが、ちょっとヌルイ感じの盛り上がりの欠ける感じがしながら、しかしジワリと爽快感が無いではない。これじゃ、ちょっと何もかもダメじゃないかと思わせられるのだけど、しかし、結果的にはどういう訳か、その通りにやってきたことになんだか大変に意味があったような気もする。行き当たりばったりにしているようで、この男の正直な性分が、伏線となって様々な人々をハッピーに変えていくのだ。
 ファンタジーといっていいけれど、しみじみとくだらなくいい筋書ではなかろうか。結局日本では配給が上手くゆかず上映無しのビデオ化ということになった作品のようだ。確かに売れないだろうという判断は分からないではないが、ちゃんと面白いので、ちゃんと宣伝したら見た人たちは満足できたであろう。多少の人は選ぶかもしれないが、いい映画である。
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買うか借りるか

2015-11-05 | 境界線

 家を借りるか買うか問題、というのをテレビでやっていた。確かに時期によっては悩ましいということだろう。
 シミュレーションとして、例えば価値が同じ1000万円の部屋(家でもいいんだが、ちょっと面倒なので、部屋としておく)を借りるのと買うのとで金銭的にどちらが得かを比較していた。結果的には当たり前だが、この場合は買う方が得になる。何故かというと、税金含めた大家の管理的な費用と、貸すのであるから利益を含めたものを、家賃として上乗せして請求されることになるからだ。当然買う場合の金利などを上乗せした月賦よりも、月々の家賃は少しばかり高くなるはずである。そうして何年住もうと、その部屋は自分の資産とはならない。買う方はひょっとするとその部屋を転売できるかもしれない。その差額まで、一応は計算されていたようだが、月額の支払いに関しては、やはり何割かの差が出ていたようだ。
 しかしながら、やはり現実問題として考えるならば、借りるのと買うのとで比較して、まだまだ躊躇する人の方が多いのではないか。それだけ明確に支払いの損得の差がはっきりしているにも関わらず、なぜ考えてしまうのかというと、やはりその価格が大きすぎるためであると思われる。不動産を買うというのは、特に都心を考えると、あまりにリスクが大きすぎる。だから支払額が当然大きいので(個人の人生の買い物としても最大級であろう)、悩んで当たり前である。当面住むためのコストとしては家賃は仕方がないにしろ、やはりいくら得でも家を買うような場合は、慎重になって当然である。
 また普通の住宅手当がある場合は、家賃であるなら出るところでも、住宅取得のための手当があるところは稀だろう。恐らく住宅手当は、まだ若く給与所得では生活が苦しかろうという配慮であると考えられるが、住宅を取得するような場合には、もう配慮の必要を考慮しないということかもしれない。子供の養育費などと重なる世代であろうから、いくら広い空間のある持ち家が欲しくとも、これはまた慎重になることだろう。通勤手当は出るだろうけど、その時間まで考えると、働く人間は憂鬱にもなろう。
 若いころには何事にも縛られない自由さもあって、あえて借りる方が魅力的に感じる場合もあるかもしれない。人は習慣的に長く同じ環境にいると刺激が少なくなって、いわゆる飽きがくるわけだが、そういう気分とも関係があるかもしれない。もっとも、長く親しむと愛着もでるという側面はあるのだが…。人が生活を続けていくと当然モノが増え人が増えということにもなるから、面積当たりの居住空間の確保という問題は、年を重ねるごとに深刻なる。子供が育つと一気に必要のなくなる場合もあるけれど、居住空間が飽和することも住宅購入の大きな動機にはなっているだろう。要するに独り身と結婚後には、住宅取得に対する考え方はまったく別のものがあるということだ。
 損得の問題として買うか借りるかという議論をしていたはずだが、しかし家のようなものになると、個人的な価値にはまったく別のものが生まれてくるのが普通だ。他人にとっては何の価値も感じられない(利便性以外は)ような家であっても、住んでいる人にとっては、そこに住んでいた思い出も含めて、何物にも代えがたい価値がある場合がある。さらにそのようなことは、一般的には誰も見向きもしないようなことであっても、中には同好の士というか、同じように価値を見出してくれるような物好きもいるかもしれない。そうなると、それなりの価値観で売買であっても可能になるということだ。
 もっとも必要のない人には何を言っても始まらない。稼ぎの問題もあるだろうけれど、家に頓着しない生き方を選択するという人がいても不思議ではない。そういう人に損得で家を買うような話には何の意味も無かろう。
 自分なりに何の価値を求めて選択するか。家問題は改めてそういうことの象徴なのかもしれない。
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既に古いが翻訳されるべきだ   黒パン俘虜記

2015-11-04 | 読書

黒パン俘虜記/胡桃沢剛耕史著(文春文庫)

 終戦直後にいきなり敵軍に取り囲まれ、そのまま俘虜となり、恐らくモンゴルの都市づくりの労働者として働かされる二年以上の記録である。黒パンはその時に配られる数少ない食料のほとんどで、最初にとらわれてすぐに出された時には、あまりのまずさに思わず吐き出してしまう人もいたというシロモノである。ところがこれしか命をつなぐ食料は無いわけで、抑留中はこのパンが生きることの象徴になっていく。
 最初は2万人あまりの捕虜が居たようだが、過酷な労働と、まともに生きるには足りな過ぎる食料、そして極寒の地でのリンチや病気などのために、日に日に人々は疲弊し命を落としていく。モンゴル軍は(というかその上にロシヤ軍が操っているようだけれど)、一応は国際法上最小限の食料として黒パンと粥などの配給は行っているのだが、基本的な宿舎の管理を、日本軍のそれぞれの部隊に任せているという状態にしている。ところが著者の所属していたところでは、軍に対してやくざ者がクーデターを起こし部隊を掌握してしまう。そうして限られた食料も配給を先にピンハネし、このパンや本当は粥の中身として配給されているはずの肉なども独占してしまう。一般の兵隊は一日の活動に必要な配給は受けられずみるみる栄養失調に陥ってしまう。黒パンを少しでも分けてもらうためには、やくざの軍団にウケる演芸などを披露して、駄賃などの代わりに受け取る以外に道が無い。兵隊たちはやせ細っていくのだが、やくざ達は栄養をたっぷり取っているので元気がある。力の差が開くばかりで、その恐怖体制を崩すことなど絶望的になっていく。
 あまりの重労働に手を休めると暴力を振るわれ、それで怪我をすると極寒の地で命を落としかねない。病気なら病気で放っておかれてそのまま死ぬしかない。いっそのこと機械に挟まれるなどして腕を落とすような事故にあうと、やっと病院に入院という極楽にありつける。中途半端ならリンチで酷過ぎると死ぬ。ちょうど良い具合に抜け出す道は大変に厳しい。
 後でわかることになるが、それでも実はさらに過酷な部隊というのがあって、そこでは労働時間外にさらに別の労働をさせられて、あまりの過酷さにどんどん疲弊してく。その部隊の大将は日本人だが、その労働で得られる靴などの商品を業者に売るなどして莫大な利益を得ているらしい。ノルマをこなせないと氷点下の夜に半裸状態で野外にさらされ、結果的には酷い凍傷に犯され事実上殺される。この部隊に回されると順に死者が増えるので、他の部隊から人間を回さなければならない。そのような地獄であることは皆伝え聞かされていて、そのこと自体が恐怖として精神的な絶望へとつながっていくのである。
 まさに戦争の恐ろしさというか人間の恐ろしさというか、その両方を記録した、形の上では小説だが、恐らくほとんどは事実を伝えているドキュメンタリーかもしれない。文章自体には、ほのかなユーモアのようなものがあって、悲惨には違いないが何とか生きようというようなところがあって救いなのだが、かの地で繰り広げられた戦争犯罪といっていい人間の行いは、とてもこの世のものとは思えない蛮行である。
 戦後には日本の軍隊の外国人捕虜の扱いについて、多くの戦犯が死刑などに処されたわけだが、戦勝国はいくら日本人をリンチで殺したところで何のお咎めも無かった。結局戦争というのは負けた国が野蛮で酷いことをしたとして、勝った国は負けた国の人間を虫けらのように殺しまくった。聞くところによるとドイツにおいても、占領軍が万という単位でドイツの人々を虐殺している。しかしながら戦争で残虐だったのは、唯一ナチスの連中ということにされたのだろう。
 黒パン俘虜記では、結局はモンゴルではなく同じ日本人の蛮行として野蛮な世界を捕えているのだけれど、その世界を作る土台は、やはり俘虜を抱えている環境にあったことは間違いが無い。過酷な環境にほぼ期限が分からずに捕えられていくと、人間性はこのような形になるという社会実験のようなものではないだろうか。
 ともあれ先の戦争というのは、終わった後にもこのような地獄があった。下手な反戦モノより数千倍も反戦の素養が磨かれることは間違いなかろう。こんな地獄が待っているのが分かっていて、安易に戦争などをやる人間などいない。日本人だけでなく、ぜひとも翻訳されて諸外国の人に読んでもらうべき本ではなかろうか。
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俺のことはミッキーと呼んでくれ

2015-11-03 | culture

 欧米の小説などを読んだり映画などを見ていると、時折名前の呼び名を変える場面がある。まず親しくなると愛称で呼んでもらうようにしたりする。マイケルさんだったら、例えばミッキーだとか。友人同士になると堅っ苦しい言い方はやめようということらしいが、これが異文化の人間にはなかなかかえって厄介に感じる。ただでさえ名前を覚えるのが厄介なのに、名前が増えるように思うのかもしれない。ロシヤ人のような長い名前だと、もう少し何とかならんもんかと思うが、マイケル(発音的にマイコーか)がミッキー程度に、堅苦しいも何もなかろう。
 さらによく分からないのは、アンさんがナンシーになったり、ローレンスさんがラリーになったり、ちょっと覚えてないと予測がつかないものがある。また、ミドルネームの関係もあるのか、まったく別の愛称に代わる場合もあるように思う。何か法則めいたものというか、単に友人からそう呼ばれるようなものがあるんだろうが、聞き慣れないとめんどくさい。元の名前を忘れる可能性もあるし、名前程度でそんなに打ち解けるものなんだろうか。
 愛称で呼んでもらいたいという本人の希望だからそれでいいのはいいのだが、見た目が熊のようだからだとか、口うるさいだとかで愛称が変わるようなものもあるようだ。それこそスラングのような言い回しがあって、意味さえ分からないようなのがあるが、冷やかしも含めてかもしれないが、他人が口にするのは安易に変えられない。逆手にとって自分の愛称にしてしまうような人もいるようだが(水牛みたいに力強いからブルだとか)、まあ、面白がっているということなんだろう。
 もちろん鑑みて日本でもそういう愛称というのはある。僕は小学4年くらいからメガネをしていたので、メガネ君とも言われていたように思う。それで喧嘩が絶えなかった訳だが、今考えるとメガネがメガネといわれて何で頭に来たんだろうね。まあ、それはいいが、勉強する奴はガリだったし、太った奴はブーだったりして、子供社会はなかなか残酷である。面白いけど。大人になってもそのような愛称が残っている奴がいて、今はそのような面影が無いにもかかわらず、残存があるという感じなのだろうか。確かによその国のことなんて気にしてられないのかもしれない。
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妻の自殺の原因は何か   立証責任

2015-11-02 | 読書

立証責任/スコット・トゥロー著(文春文庫)

 家に帰ると妻が車のガレージで自殺していた。自分に思い当たる節は無い。既に子供たちは皆成人してそれぞれの人生を歩んでいる。自分自身も弁護士としてそれなりの地位にある。男にはアルゼンチンから移住して苦労した過去がある。そうして弁護士として勉強しているときに、所属していた事務所の娘と知り合う。身分違いの交際とも感じていたが、お互いに合うところがあり結婚に至る。そのようなエピソードも交えながら、現実の時間の流れともに語られる。妻を亡くした悲しみと、そうして慰めのバランスがあってか、すぐにある女性とも関係を持ってしまう。そういうときに、実は妻は性病に苦しんでいたこと(飲んでいた薬を発見する)を知る。恐らく浮気をしていて、そのためにうつされたのだ。何しろ自分には覚えがない。しかしそうなると自分も罹患している可能性もある。性関係を結んでしまった相手にもそのことを伝えるべきではある。検査の結果が分かるまでには時間もかかる。実は息子が医者になっており、他ならぬ検査を息子にしてもらった。当然息子は他のきょうだいである娘たちにもその事実を漏らしてしまう。そういう中で、依頼人が自分に不正直に情報を隠したまま、非常に難しい局面の検察の捜査を受けている。妻の浮気の調査と、自分の恋愛問題と、依頼人を守る手立てに奔走されて、どんどん複雑な状態に立たされていく。
 主にこの妻を亡くしたスターンという弁護士の、心理の葛藤を描いたミステリになっている。性の問題が絡むと、深刻だが、どこかコメディめいた味わいもある。何しろ危機的な状況にありながら、恥ずかしいようなことにもなりながら、大きく感情を揺さぶられていく。弁護士としては有能だが、しかしどこか恋愛にはうぶなところがある。捜査の手が進んでいくうちに、確かに妙な具合に事件が転がって行って、ついには実は妻の浮気問題とも事件は絡んでいくのである。
 著者は現役の弁護士でもあるということで、法廷外の駆け引きにおいても、実にリアルな掛け合いが続く。情報を持っているかいないか。それだけのことでも、非常に言葉を選びながら根気よく相手の懐を探っていく。同時にその言葉の意味から推理を進めて、何をするかの決断材料にしていく。ウソかホントかということも含め、自分がどのような推理でことを進めていくかということが、有利な未来を決めていくのである。
 人間の思惑というのは、ある時はやはり自分自身のためであり、時には献身的であったりもする。事実は限られているが、それを取り巻く人々のために、その捉え方は二転三転ところがって行く。家族の問題もあるし、自分だけに不都合であるだけでない問題もある。スパッと物事がきれいに分かれるということはなかなかできない。要するに落としどころを模索する。きわめて政治的で、そうしてそれが、裁判という法の世界の考え方なのだろう。理屈の世界で物事が取り扱われる世界にあって、しかし人間の感情抜きに行動は伴わない。人間ドラマそのものが、だからスリリングなサスペンスになる。よくもまあこれだけのお話に仕上がったものだなと、ある意味では感心してしまった心理ミステリであった。
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