僕には特に主義主張があってのことでは無いが、信仰心が無い。本当にまったく無いといっていい。これは信仰心のある親を持ちながらまことに不謹慎だとも思うのだが、神様がいると思えないものをどうしようもない。不思議な力を感じることも人生においては一度も無いではなかったが、それが神のおかげだと思ったことも無い。それらしいありがたみを感じるというのは言葉の表現上はあるし、自然への畏敬の念やご先祖への感謝の気持ちもよく分かるが、それが神とつながる存在であるとか、仏の考えであるとは、まったく信じがたい。まったく非難でないので誤解をしないでほしいが、神社仏閣教会などにおいて、それらしい存在がいるとはつゆとも感じない。しかし、神や仏がある人にとっては別にいてもいいので、それは僕とは関係ない話として、存在していればよろしいと思う。けしからんのでそういう考えなら殺してやると言われれば、便宜上は、それは神を信じますと安易に寝返って言うに違いないが、恐らくそれで信じられるはずはない。人間には必ず神が必要であるというのであれば、僕は人間でなくてもいいとも思う。まあ、たぶん人間はやめられないのだろうけれど。
理由というのも特になくて、神が無いというのが、僕には自然だということになるかもしれない。人間というのは特に普遍的な存在ではないし、僕も間違いなくいずれは死ぬ。それが神の意思だというのは、勝手にやってもらっていいことだけど、それは僕の意思では断じて違う話だろう。うぬぼれているのでもないし、ひねているのでもない。例えばしかしイスラムの国に生まれたならば、自然にアラーに祈っていたかもしれないし、ローマに居たらカトリックになっていたかもしれない。寺の息子に生まれたからには、坊主になっていたかもしれない。しかしそういう風には生まれてなくて、今は僕はここにいる。そのことは誰に感謝していいかわからないが、神というような存在に感謝してもいいけど、僕には居ないのだから仕方がない。そっと目の前の暗黒に感謝するより無いだろう。
これは特に誰かに何かを言いたくて書いている訳でもない。誰かに教えられてこうなったのでもない。しかし自分自身の考えでこうなったのでも無いかもしれない。そうして一般の無神論者といわれる人と、同じ無神論者でもないとも思われる。僕は普通に仏閣などには手を合わせるし、念仏を唱えることに違和感もない。もちろん、上手いタイミングではないにせよ、アーメンといってもかまわない。信じる信じないということに対して、頓着さえしていないかもしれない。神を信じていないけれど、だからといって僕は無神論者ではないのである。僕に神は居なくても、無神論で神がいないと言っている訳ではないのだ。僕にだけ居なければそれでいいだけの話だから、自己中心であるというだけのことなのである。それでいいとは思ってもいないが、それでいいとしか言いようのない精神性なのかもしれない。そうして神がいるとかいないとかということは関係が無いのだから、そのためにしあわせや不仕合せがあるわけではない。しかしその感情は当然持ち合わせていて、そのこと自体は大変に素晴らしい。だから僕は関わりが無くても生きていけているのだということになろう。