カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

独りよがりの使い方

2015-11-01 | net & 社会

 ネット上では2チャンネルに限らず罵詈雑言が跋扈する世界だ。品が無いのには慣れるより無いのが悲しいところだが、時折この罵声において、ちょっとどういう立場なのか分からなくなるようなものがある。悪口を日常的に言っている人々であっても、新たな言葉の使い道によっては、迷走するようなことがあるのかもしれない。
 それというのも「反知性主義」かもしれない。要するにバカと言いたいだけなのに、あいつは反知性主義だから、という感じで使っているように見える。馬鹿というのは時には確かにはしたない感じはするものだし、文章で書くと、発音するときよりもなんとく伝わりにくいニュアンスのある言葉かもしれない。馬鹿にする側が相手を馬鹿だと思うから馬鹿だというのだが、言っている方のことは一旦考えない。そういうところは賢いかどうかは別にして、配慮は足りない訳だが、しかし馬鹿というのはいろいろ実はあって、その馬鹿の根拠に対して、納得がいかなければ効力はなかろう。結局相手を怒らせたい言葉なわけで、それ以上でもそれ以下でもない。しかし実は多くの人は自分のことはあんまり馬鹿だとは真剣に思っていない。そうであるから有効に頭に来る人が多いというカラクリだから、主観がそうであるからとはいえ、本当の馬鹿には実はたいして有効ではない可能性の方が高い気がする。
 まあ、バカの話はどうでもいいにせよ、反知性主義は果たしてバカの意味に本当になるのかな、と思った訳だ。
 僕が反知性主義というのでまず思い起こすのは、他でもなく毛沢東で、さらに「下放」かもしれない。毛沢東は自分は読書家だったにもかかわらず、他人が本を読むと馬鹿になると言って読書を禁じた。そうして下放政策というのは、多くの知識人を糾弾し、歴史まで否定してしまった。実に人間の愚かな面が出ていると思うが、そういう考えを反知性主義だというのだとばかり思っていた。だからネットの反知性主義に「?」ということになるのだろう。また米国などは宗教などの関係もあって、階級や知性になどに限らず、大衆にこそ知が備わっており、それが民主主義の礎であり、建国の基礎になっているという。これも、反知性主義なんだということだが、これは説明を受けなければピンとこない。まさになんで毛沢東時代の中国と、米国というのが反知性主義でつながるのだろう。要するにこの言葉は最初から胡散臭いのである。
 しかしながら知性があるのかは別にして、ある専門分野の人たちからすると、例えばジャーナリズムのような大衆理解に対しては、いささかうんざりして、あえて説明を省略するような風潮があるようには感じる。単純化すると必ず誤解するのでめんどくさいのである。だから反知性主義からは嫌われることにはなるのかもしれないが、一種の防衛ではある。だからそのような場に出てくるような知識人は、たいていは後で結局理解されなかったり、そのまま暴走してしまったりする。最悪なのは政治にかかわることで、そうなるとそもそもは科学や学問なのではないから、迷走が必至になる。もちろんそういうことを根拠にして政治をやってもらいたいという欲求はあるんだろうけれど、出来ないのだから仕方がないのである。政治や文化は科学ではないのだが、しかし人文系で学問にしていたりするので厄介だ。要するに、そういう人たちにおいての政治家などは、反知性主義的に見えるということがあるように感じる。誤用というか、違和感のある言葉の使い方は、そのような場面が多いのではあるまいか。
 ということで、最初から誤解されるためにあるような言葉で、結局はあんまり伝わりにくい。前後の文意から想像して、単にバカと翻訳するよりやはり無いのかもしれない。
コメント
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