カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

多数決は不公平だ   多数決を疑う

2015-11-25 | 読書

多数決を疑う/坂井豊貴著(岩波新書)

 副題は「社会的選択理論とは何か」。
 多数決で物事を決めることは、日常的にいわば当たり前である。それも選挙などにおいては、当然すぎてこれを疑問に思う人の方が少数であろう。しかしながら多数決で選ぶという選択が、いわゆる多数の民意を反映している姿であるというのは、実ははなはだ疑わしいという話なのである。
 最近のスポーツのトピックで話題になったワールド・カップ・ラグビーであるが、日本は3勝もしながら残念ながら予選敗退となった。サッカーなどのように予選をグループと呼ばずにプールと呼ぶのには違和感があったが、この上位選出のルールも、やはりなんとなく変わっていた。しかしながらグループ(プール)内で総当たり戦を行い、勝ち点で上位を選ぶというやり方については、ある程度の公平性があるようにも感じられる。このようなやり方に似た方法というのは、やはりサッカーなどの試合などにもみられる。今は急に思い浮かばないが、他のスポーツなどの場合にも、このような勝ち点制での上位の選出方法は、それなりに定着し受け入れられていると思われる。
 選挙も実はこの方法の方が優れている可能性が高い。首長選挙など、1対1の戦いならこれまでと変わらなくていい。しかしながら複数の人が立候補すると、これまでのやり方だと当選する根拠が怪しくなる。2000年の米大統領選挙でみると、実際の支持者の数ではゴア候補の方が多数派だったことは知られている。しかしながらラルフ・ネーダーという人が立候補してしまい、結果的に票を食い合い、ブッシュ・ジュニアが漁夫の利を得たという結果になった。それが勝負だという見方をこれまではしてきたわけだが、ちょっとした選挙のルールを変えるだけで、ちゃんと民意を反映できる結果は導ける。それがボルダルールなどといわれる方法なのだ。
 立候補者が三人なら、例えば1位には3点、2位に2点、3位に1点、という風にポイント制にする。それだけで票割れの民意を救い出せるようになる。先の大統領選の例だと、ブッシュだけはだめだという民意もあるはずである。しかしブッシュ以外の選択肢が二つあったために票が割れ、結果的に一番望まない結果を招いている可能性がある。ポイント制ならブッシュに1点なので、その気持ちの差がちゃんとあらわされるようになる。現実にゴアの支持者とネーダーの支持者の両方は、ブッシュに批判的層だったわけで、米国民の過半数を超える人が望まない人を大統領に当選させる、という皮肉なことが現実になったわけだ。米国のことだから勝手にどうぞという考えもあるが、ブッシュ以外の人が大統領になっていたら、本当にイラク進攻が行われたであろうか。ネーダー候補にも信念があったのだろうけれど、今の選挙制度においては、まったく罪なことを結果的に助長したということになるのである。
 これまでの選挙方法は、民意を反映させる方法としては欠陥だらけなのだ。それは単なる習慣の問題であって、改められる問題だ。しかしその不公平があるためにこれまで受かってきた議員が多いのだし、さらにこの習慣上の行動を改めるというのは、あんがい理解が難しいもののようだ。理屈は簡単でも習慣化されたものは代えられない。単にそれだけのために、いつまでも不公平は続く。
 著者は多少左がかった思想が強いようで、偏った見方をする記述が多いけれど、理屈や方法を理解するには最適の本だと思う。問題は政治家が読むか、ということかもしれない。もっとも読んで理解できたら、怖くなって結局今の選挙制度を選ぶかもしれないが。
 少なくとも多数決という方法が、こんなにも酷いものだったということを、普通の人は普通に理解する必要はあろう。あんがい古くから議論されているにもかかわらず、また今までも自分たちに影響のあったことであるにもかかわらず、なんで人間は愚かなのかということも考えさせられるのである。ルールを変えるだけで劇的に社会が変わるかもしれない、もの凄いトピックであるのは間違いないのである。
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