カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

無意味でも面白いから

2015-11-18 | 掲示板

 神や仏が僕にはないが、しかし僕は時折墓参りに行く。仏壇には、ほぼ毎日線香もあげる。墓参りはつれあいに怒られるので行くのだが、怒られなければたぶんいかない。父などが眠っているらしいことは聞いてはいるが、骨があるのも知っているけれど、それは単に骨であって、魂があるとは信じてはいない。骨は物理的に骨であるということで、しかしすり替えられているのでない限り、それは父らの起源のあるものだということだ。大切にしてもそれは信仰心ではない。恐らく他人の目があることで、無ければ気にもしないだろう。多少の無常は感じるまでも、そう思ったところでご先祖が僕に対して何の感情も持つはずがあるわけがない。何しろ既に彼らはいない。それは僕がそう思っているだけのことで、違うのだと言われれば、そうかもしれないとは思うまでも、しかし本来的に僕の考えを変えるまでのことには至るまい。しかし墓は掃除をし、仏壇には手を合わせる。これは習慣なので信仰心であるといわれると、それはそれでいいが、僕の場合は明確に違う。何しろ何にも信じてはいない。ただ心安らかなだけかもしれない。いや、墓で蚊に食われると、そんなに安らかでもないけれど。
 しかしながら線香を毎日あげていると、まあ習慣だからというのがあるが、信心ぶかい気持ちが芽生えるのではないかと少しは期待していた。そういう信仰心があったところで、僕自身に害があるわけでは無かろう。しかしながら日に最低でも二回程度は線香をあげて手を合わせたところで、まったく信仰心というのは湧いてこない。それで特になんと思うことも無いが、線香の煙がくゆらと揺れるのは面白いものだな、と思う。まったく風が無いようなところなのに、一定の間上の方に立ち上り、そうして複雑な動きで散って行く。それはそばに僕が座っているからで、何らかの作用があるという物理現象で、さらにロウソクの炎がそばにあり、熱による空気の流れが生まれているのだろう。自分の感覚で分からないものを線香の煙は感じ取り変化をする。そうしてその動きは複雑でいつも予想を超えている。
 このような理由が無く意味のないことを人間はする。そうして時にはなんとなく心地よさを感じることもある。それ自体もそれなりに面白いことかもしれない。信仰心が無いくせにいつの間にか習慣として線香をあげるが、義理も何もないだけでなく、信仰心の無さに何の揺らぎも無い。そのような日常が生きている間に繰り返される。僕はただ死んでしまっていなくなるが、そこにはたぶん何の意味も無い。たとえ意味があったとしても、それはやはりいずれはちゃんと意味はなくなる。そういうことは大変に素晴らしいな、と思う。一種の信仰のようではないか。いや、だからそれはそれだけのことなんだけれど。
 意味は無いが自分はあるので、考えの中には意味を探すこともある。それはたぶん今は生きているからで、信仰のことは考えないけれど、モノやコトについては日々考え続けている。信仰のことは別の人がさんざん考えてくれているだろう。改めて僕は加わらない。僕は手を合わせて無意味を楽しんでいるのである。
コメント
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