7ヵ国語をモノにした人の勉強法/橋本陽介著(祥伝社新書)
高校生のときに修学旅行先が中国だった。そこであちらの高校生(相手は中学生だったけど、年齢は同じくらいという説明だったようにも思う)と討論会をやるというイベントがあった。日本側は少数精鋭で、かなり英語の勉強を(というか原稿を準備)した代表が、紙を見ながら言葉をなぞって質問などをした。ところがあちらの生徒さんは、代表はもちろん流暢な英語を扱うばかりでなく、会場のフロアからも活発に手を上げて、すべて英語で質疑をするのだった。通訳の言葉を聞くと、内容もまったく違う。日本からはどんな食べ物が好きですか? とか、日本のどんな歌を知っていますか? などだけど、あちらからは、日本の将来をどうしたい? みたいなこととか、そのときの世界情勢についてなど、多岐にわたったように思う。僕ら日本の高校生は大惨敗の上に、一緒に来ていた英語の先生でさえ、まったく英語で太刀打ちできなかった。もう30年近く前のことだけど、僕はかなりショックを受けた。もともとの学力の差のある人間同士の対決だったとは思うし、いろいろ事情は違うだろう。しかしながらこの歴然としすぎる違いというのはいったい何なのだろう。
それから時を経ていろいろ知ることも増えたが、日本人が外国語(基本的に英語ということになるが)が出来ないというのは国民的な病気のように考えている人が多いようにも思う。事実でもありそうだが、しかし歴史的には明治の人間が英語が下手だった訳ではなかったようだ。戦前の日本人にも言葉に精通している人間は多い。問題は一般の生徒や学生が皆英語を学ぶようになっている戦後になって、日本人の英語は駄目になっているようでもある。他人の所為にばかりしてもいけないが、日本の英語教育の敗北だろう。
言葉を使うために勉強するなら、日本の学校で教わる方式でやっても、あまり効果がなさそうなことは、多くの自分自身が証明している。そのことを理解するためにも、この本は読まれるべきかもしれない。結構目からうろこが落ちるだろうし、これがきっかけになって、本当に勉強して他国語をマスターできるかもしれない。ほとんどの人は10年近くくらいは連続して英語を勉強した事実があるだろうけど、できるようになった人はあんまりいないだろう。さらにできるようになった人は、たぶん自分の独学のウェイトが大きい事を告白するだろう。だからこの本に書かれていることの実感のある人は、独学で頑張った人たちだろう。著者は中国語の先生のようだけど、おそらくこの先生の授業なら少しくらいは効果的だろうけど、やはりそれでも日本の教室の授業は否定している可能性がある。そこのところが大変に面白いところなのだが、実際にそのことが理解できた人は、たとえば英語だけの問題でなく、マルチに言葉を覚えることが苦にならなくなるかもしれない。
言葉は世界とつながる方法だという。確かにその通りなのだが、僕はそこのところが実感としてよく分かっていなかったのだと思う。言葉を使うということは、その世界そのものを理解することと等しい。普段僕らはそれを日本語をもってやっているわけだ。だからそれは、たとえそれが違う言語であっても基本的には同じことのはずだ。日本語を翻訳して置き換えて世界を見ているのでは、それはやはり日本語の世界なのであって、他の言語の世界なのではない。そのことが分かるだけでも、一気に言葉の理解が変わるのではないか。いきなりマルチはどうかとも思うが、そのハードルは確実に下がるに違いない。少なくともこの著者の方法を真似て、言葉が達者になる人は確実に増えるのではなかろうか。