ウエスト・ウイング/エドワード・ゴーリー著(河出書房新社)
一切科白なしで、意味は分からないが不気味な絵が、脈略もよく分からないまま続いて行く。じわじわくるものもあるし、何となく見ハマってしまう絵もあるという感じ。実態は何一つ感じられないが、いい気分にはならない。何か邪悪なものがその絵の中にあり、確実に見るものに何かを訴えようとしている。受け入れる受け入れないは関係が無い。ただそこに邪悪さがあるということが絵の中に閉じ込められているということだ。
このような恐怖描写については国民性のようなものがある気がする。この絵の中で大きな役割を果たしているのは、建物そのものであったり、窓や壁のような背景であったりする。日本にもお化け屋敷というものはあるのだけれど、西洋のそれとはなんだか少し違う気がする。家をアジトとする化け物小屋がお化け屋敷なのだが、そのような洋館もあるにはあるが、しかし、西洋のそれは、建物自体が既に邪悪なのである。中身が怖いことは確かだけれど、それを包んでいる壁や石のような素材そのものが、何か人間そのものに働きかける力を持っているかのうようだ。
森などの自然感も随分違うような気がする。日本には森自体は母なる自然ということで、もちろん畏敬の念や脅威は感じていても、基本的にはそこに住む動物や、もののけや、お化けまでも、人間と共存している、一種の仲間という意識があるような気がする。しかしながら西洋の森には、時にはその存在そのものが邪悪である場合があるように思える。それはその塊全体が、人間と対峙する存在なのである。
そのような背景があってこの絵を考えると、人間と相対する、人間とはまったく次元の違う対象としての恐怖があるという感じがする。得体はしれないが、それが悪魔というような総体の姿なのかもしれない。
実はオドロオドロシイのは確かだけれど、僕にはこの恐怖がそれほどピンとくる訳ではない。それは、はっきりとなじみの無い恐ろしさなのかもしれない。日本のお化けは、例えば「のっぺらぼう」のようなもので考えると、ある種の漫画的な滑稽さもあるくせに、やはりそんなものが出てきてもらっては大変に困るし、驚いてしまうという感じだ。しかし西洋の悪魔というのは、得体がしれないが、見てしまうと確実に命まで奪われてしまうような気がする。遊びが無く血なまぐさい。
もちろんそのような印象には偏見もあるのかもしれない。その上単に無知なのかもしれない。
日本の怪談はお盆の影響もあるのかもしれないが、何故か夏が定番で、そしてそのような文化で涼をとるというような事をいう。例えば英国などでは、つきもののような怪談話は、大抵吹雪の夜など、その環境そのものが凍えるような設定が多いのだという。南国の話を知らないのでバランスが悪いのだけれど、やはり嵐のような異常な自然設定が多いのではあるまいか。そういう背景などを考えても、日常と非日常の捉え方の文化差を感じさせられずにいられない。
このような絵を見て怖がるだけでも、人間というのは結構めんどくさい。そういうことを考えながら、ぱらぱらめくって恐怖を考えてみてはいかがだろうか。
一切科白なしで、意味は分からないが不気味な絵が、脈略もよく分からないまま続いて行く。じわじわくるものもあるし、何となく見ハマってしまう絵もあるという感じ。実態は何一つ感じられないが、いい気分にはならない。何か邪悪なものがその絵の中にあり、確実に見るものに何かを訴えようとしている。受け入れる受け入れないは関係が無い。ただそこに邪悪さがあるということが絵の中に閉じ込められているということだ。
このような恐怖描写については国民性のようなものがある気がする。この絵の中で大きな役割を果たしているのは、建物そのものであったり、窓や壁のような背景であったりする。日本にもお化け屋敷というものはあるのだけれど、西洋のそれとはなんだか少し違う気がする。家をアジトとする化け物小屋がお化け屋敷なのだが、そのような洋館もあるにはあるが、しかし、西洋のそれは、建物自体が既に邪悪なのである。中身が怖いことは確かだけれど、それを包んでいる壁や石のような素材そのものが、何か人間そのものに働きかける力を持っているかのうようだ。
森などの自然感も随分違うような気がする。日本には森自体は母なる自然ということで、もちろん畏敬の念や脅威は感じていても、基本的にはそこに住む動物や、もののけや、お化けまでも、人間と共存している、一種の仲間という意識があるような気がする。しかしながら西洋の森には、時にはその存在そのものが邪悪である場合があるように思える。それはその塊全体が、人間と対峙する存在なのである。
そのような背景があってこの絵を考えると、人間と相対する、人間とはまったく次元の違う対象としての恐怖があるという感じがする。得体はしれないが、それが悪魔というような総体の姿なのかもしれない。
実はオドロオドロシイのは確かだけれど、僕にはこの恐怖がそれほどピンとくる訳ではない。それは、はっきりとなじみの無い恐ろしさなのかもしれない。日本のお化けは、例えば「のっぺらぼう」のようなもので考えると、ある種の漫画的な滑稽さもあるくせに、やはりそんなものが出てきてもらっては大変に困るし、驚いてしまうという感じだ。しかし西洋の悪魔というのは、得体がしれないが、見てしまうと確実に命まで奪われてしまうような気がする。遊びが無く血なまぐさい。
もちろんそのような印象には偏見もあるのかもしれない。その上単に無知なのかもしれない。
日本の怪談はお盆の影響もあるのかもしれないが、何故か夏が定番で、そしてそのような文化で涼をとるというような事をいう。例えば英国などでは、つきもののような怪談話は、大抵吹雪の夜など、その環境そのものが凍えるような設定が多いのだという。南国の話を知らないのでバランスが悪いのだけれど、やはり嵐のような異常な自然設定が多いのではあるまいか。そういう背景などを考えても、日常と非日常の捉え方の文化差を感じさせられずにいられない。
このような絵を見て怖がるだけでも、人間というのは結構めんどくさい。そういうことを考えながら、ぱらぱらめくって恐怖を考えてみてはいかがだろうか。