作家の角田光代が料理を作るようになった訳を語っていた。作家というのは一日にどれだけ書けるかは分からない。机に向かっていても書けない日などもあるのだろう。たとえそういう日であっても、料理を作るという事実は確実に残る。少なくとも料理をすると、何もしなかったという日じゃなくて、料理を作ったという満足感というか、自分の行った実績のような事実が残るのである。と、おおむねそのようなことを言っていた(たぶん)。
実を言うと一日丸々不毛な会議をして疲れて帰ってくると、ひょっとすると自分は今日一日、有意義なことを何もしなかったのではないか、と思えてさらに絶望することは少なくない。例えばの話だが、そういう日に酒を飲んでも、なんだか言い訳がましくてつらかったりする訳だ。もちろん会議で無くてもそんなことが続くと、精神的にこたえて来るということがあるようなのだ。若いころより随分図太くなって、何となくやり過ごしている自分に気付いた時にも、やはりそれなりにつらい。
僕にとっての料理はなんだろうな、と思う訳だ。このように書いているのもそうかもしれないし(でも書かない日もあるし)、本を読むのもそうかもしれない。しかしやはり料理は強いな。作ったものがおいしければ、さらに非常に役に立ったことをしているという実感も強かろう。
僕は女の人が本当に男よりストレスに強いのかどうかは疑問がある。いろいろなことに気がつくというのは、ある意味でストレスにも敏感であるという可能性すらありそうだ(そうではない女の人もいるだろうけど)。そうではあるが、どういう訳か、女の人は僕らより強そうな気がする。ひょっとするとその秘密の中に、家事をしたり料理をしたりという過酷さの中に、一日に成し遂げた実績という確実なものを行ったという考え方があるのではなかろうか。疲れてやりたく無くても、やれば実績は残る。そこをやらないだろう多くの男たちは、実はそのようなささやかな満足感を放棄しているのではないか。
本当のたくましさというのは、日常の強さの中にある何かかもしれない。いつまでも弱いままで生きるのは、生き方を知らないということなのかもしれない。