カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

かなり変だが雰囲気は出ている 1999年の夏休み

2012-08-21 | 映画

1999年の夏休み/金子修介監督

 家人から、また変な映画借りてきたな、みたいな顔をされながら観た。おいらも知らなかったんだよね、これだけ変だとは…。しかしながら、そのカルト的な雰囲気はそれなりに成功していて、少女マンガを読んでいるみたいな、そんな気分に浸れるいい映画だと思った。後で知ったことだが、萩尾望都の「トーマの心臓」が原案なんだとか。そう言われればそんなような話の展開ではあるようだけれど、やはり少しスジや雰囲気は違うのかもしれない。
 少年役4人すべてが女の子だということで、いわゆる美少年ファンタジーであるという倒錯した狙いは、まずまず当たっていると感じられた。映像や小道具の非現実的な美しさもあって、何か危うくも儚い時間という感じがよく出ていた。そうして妙に素人くさい科白回しだとか、閉鎖的でありながら何故か成り立っている生活だとか、よく考えてみると何が面白いのか分からないのだけど、ずっとこのままでいて欲しいような気分になるのだった。どんでん返しもあるのだけれど、そういうものを期待して成り立っている話という感じでもない。むしろそれはそうだけど、もっとどんどん危うくなっていくことを期待してしまうような、自分自身もこの変な雰囲気をいつの間にか楽しんでしまっているという不思議な感覚にもなるのだった。
 少年というものが、実際はこのような少女チックな世界では無いことは、元少年であった僕には確信を持って言えることなのだが、しかしながら少女漫画での少年の描かれ方を見ていると、彼女らが少年の中に、純粋な恋愛があるらしい事を夢見ている事が見てとれる。それは勘違いには違いないが、少女の中にある純粋さでは表わせえない種類の類なのであろう。それはたとえ少女であっても持っている性的な魅力を排したものであろうし、かと言ってその性愛の姿が本当に男女のものとは違うとは、はなはだ疑問だ。女性が感じているらしい性愛の無い愛というものを表現するためには、少年という姿が必要なのだということなのだろうか。繰り返すが、友情では無い恋愛感情としての男同士の愛というものが、男女のそれと違う事などほとんど無いのではないかと思われる。しかしそれでもそこに違いがあるように見えるというのは、この映画のように儚い幻想なのだと思う。しかし、たとえ幻想であろうとも、このように描かれうるし、求められてもいるということで、人間の欲求というのは、本当に不思議なものだというしかない。そうして妙な感動を呼び起こさせるのだから、たとえそれが幻想であっても、やはりそこには、妙な現実があるということなのかもしれない。
 何だかややこしいことになってしまったが、カルト的に需要のある映画なのではないだろうか。
コメント
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