そう言えば、という感じでしか意識してないけど、いまだに箸の持ち方が怪しい。日常的に箸は使っているし、何の不便も感じないけど、持ち方はあくまで我流だ。
親の躾が悪かったのかというと、これはよく分からない。それこそ何度も何度も直すようにいわれ続け、そうして実際に持ち方については指導も受けた。だけど一度としてピンと来たことが無い。つまりよく理解できなかったというか、訳が分からないというか。どうしてそのような不便な事をしなくてはならないのか、と考えてしまうことと、やはりめんどくさいという我儘な気持ちと、さらに何度も言われると反抗心が邪魔をしたのかもしれない。出来ないのは僕の欠陥なのであって(何しろ欠陥の多い人間なので)、それでいいという思いもあったようだ。それに母は見事な箸使いをするが、父はなんだか怪しかった。
ちょっと脱線するが、父はヒネた合理主義的なところがあって、字を丁寧に書いたりすると逆に注意を受けたりしたものだ。字をきれいに書くような心がけが、人間を堕落させると思っていたようだ。早く書いて記録を残すような精神性こそが合理的で、ましてや人に見せるような字を書くべきではないということかもしれない。だから時々自分の残したメモさえ読めないで苦労していたようだ。記録として字を書いた意味さえ分からなくなるような哲学である。
何が言いたいかというと、箸を正しく持つのもそのような合理性に反する可能性があると思っていたフシがある。何となくであれ使って食べることに支障がある訳ではないので、正しく美しく箸を使うことには何ら価値を見出していないということかもしれない。
箸が正しく持てないと見合いの時に恥ずかしい、という話も聞いたことがある。見合いは残念ながら体験することが無かった。だから結局実感は何もない。それに、別に見合いで無くても恥ずかしい事もあるだろう。本当に恥ずかしいなら、食事はすべて洋食にでもすればいい。
外国人の前で日本人が箸を持てないのは、文化を伝える上で問題がある、という注意も受けたことがある。その前に僕が日本の代表になることがそもそも不幸なことで、諦めてもらうより無い。しかしながら、日本に来るような外国の人は、それなりに日本文化にも興味を持っておられる人が多いと見えて、これまでに何人も見事な箸使いの外国人の方を見たことがある。その時は素直に彼(彼女)のことを、偉いなあと思ったことは申し添えておきます。
子供の教育に悪い、親としての躾が出来ていない、なども聞かされた事だ。ヘイヘイすんませんですね。日本の文化を破壊した和製アルカイダにでもなりますかね。実を言うとつれあいの箸使いも怪しくて、お互いに躾には失敗したようだ。しかしながらもともと気にならないので、子供の箸使いが実際に悪いのかさえ今は思い出せない。息子たちよ、苦労して生活するが良い。
右手を骨折したり怪我をしたりすると不便かもしれないと思って、左手で箸を持つ練習をしたことがある。実は左手だと何となく正しい形は取れることを発見した。もちろん利き腕で無いのでもどかしい動きだが、これは自分でも不思議なことだった。豆粒などもちゃんとつまめる。もちろんしかしこの試みは、別に本当に右手を使え無い訳では無いので長続きはしない。なので実際には不完全なままである。
正しい箸の持ち方なんて、まじめに取り組めばいつだって簡単に矯正出来そうな気がする。気がするがいまだにできないので、実際は大変なことなのだろう。しかしながらそのような感覚が、いつかは正しくできるはずだという思い込みだけで、本当に矯正しようとする実行を阻んでいるのかもしれない。僕が物事を先延ばしにして放置してしまう象徴的な習慣、ということも言えるかもしれない。まあ、どこまでも先延ばしにできるのであれば、そのような一生も悪くは無いのかもしれないが。