カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

言葉でたたかう技術

2011-07-05 | 読書
言葉でたたかう技術/加藤恭子著(文藝春秋)

 戦後すぐ苦学しながら会得した、日本人の側から見た異文化の合理性の理解の過程が分かる。著者の性格がそうだったのか、生きる上の必要性でそうなったのかは良く分からないが(たぶん両方)、合理性とは何なのかを考える上で非常に面白い本だった。議論に負けたことが無いと豪語するだけあって、その論理は明快で気持ちがいいくらいだ。しかし、著者も断っている通り、議論に勝つというのは、勝つということを重要視している社会でのことであって、正しいから正しい方が勝つということではない。日本社会では言い負かして勝つことが必ずしも勝利で無いということを考えると、日本で暮らす中では、逆に苦い思いをしていることも多いのではなかろうか。いや、そもそも日本の社会の中では必ずしも必要な技術では無いから、上手く使い分けておられるのかもしれない。
 僕も屁理屈家だから、自分の主張が正当だと思った瞬間にムキになるところがある。負けてしまうということはそう無いとは思うが、上手く相手に伝わらなくなって堂々巡りに陥ってしまうことは度々だ。もともと議論に向かないことだったと反省することもあるし、もう少し上手く言えなかったものかと後悔することもある。しかしながら最終的には、論理を駆使して議論に勝つということについては、よく考えてみるとくだらないとは感じている。いろいろレトリックの本などを読んで自分なりに理論武装した時期もあったけれど、だからと言って真実が必ずしも勝つわけではないということが却って分かってしまって、いつの間にか興味を失ってしまった。僕が知りたいのは合理的な選択や、よりふさわしい好ましさであるはずなのだけど、人々の感情は必ずしもそのような結論に達しないことを感じるばかりである。それは仕方の無いことであるとは思う反面、非常に不幸なことのようにも思える。そして、そう感じている自分自身が何より不幸なのだ。迷える子羊をただ眺めているのもつらいし、付き合わされるのも苦痛だ。
 外国人との付き合いもそれなりにあったから、著者の語る体験にはデジャヴの様なものが結構あった。まったく同じ様な体験ではないにしろ、相手が主張する論理や無理解の仕方が、実に大陸的で面白い。そして多くの日本人たちは、この屁理屈にびっくりしたり辟易させられてきたはずなのだ。
 しかしながら裏をかえすと、逆に外国人の多くは日本人の考え方にびっくりしたり、がっかりしたりしているだろうことは間違いなくて、彼らは実感として日本人は二面性のある卑怯な面を持つ人種だと感じているようだ(本当に耳が腐るほど聞かされてきたことだ)。もちろん言葉の壁の問題があるとはいえ、もっとそれ以前に、誤解を生んでいる習慣の壁がある。そのことは簡単に説明できることではないにしろ、しかし最終的には相手は自然に理解できることではない。僕らが聞かされてきたことと同じように、それらに対してはその都度、またはそれ以上に反論を重ね、また自らも主張し続けなければならないことなのかもしれない。ちょっと無理ッぽい気がしないでもないけれど、日本という国際的に巨大化して影響力のある国である必然性からいっても、今後は最も重要性の高い考え方なのかもしれない。平たく言うと損得の問題かもしれないし、最終的には責任の問題でもありそうだ。
 国際化だとかグローバリズムという問題に対して、多くの日本人は反射的に日本人の側が相手を理解して受け入れる方にばかり力を注ぎがちなのだけど、別段植民地であるとかいう立場であるわけではないのだから、日本文化や日本の正当性の発信の方に力を入れなければ、相互理解には到底つながりはしない。つまりは理解されないものは居ないものと同じような扱いしか受けられない。実際のところは様々な国際会議のメンバーに呼ばれるほどの重要な立ち位置にありながら、どこか蚊帳の外に置かれている現実を感じている日本人は多い筈で、やはり相手に期待するだけのだんまりはどこに行っても通用していない美徳なのである。通用しないのなら美徳では無く悪徳である。
 しかしながら、今のままの日本ではいけないということはよく分かるにせよ、日本人というのがいつまでも損をするばかりだとか不幸なのかということには少しばかり保留がある。現在の日本の繁栄は、たまたま幸運を手にしているということは確かにあるのだけれど、日本の特殊な考え方を育んでこられたことは、ある意味で大陸の様な厳しい環境に無かったためだとも考えられる。日本にだって酷いことはたくさんあることはもちろんその通りだし、不合理なこともたくさん残されてはいるだろう。しかし、だからと言って諸外国に酷さはまた格別のものがあって、そう簡単に心休まる状態にはなれるものではない。本人がある程度強くなければ快適で無い社会(それだから公平なのだろうが)に身を置かなければならない個人のことを思うと、日本のお気楽さというのは得難い幸福なのである。お気楽ではあるが、このままで維持できるのかは甚だ疑問ではあるのだけれど…。
 人間というのは文化的背景で随分と考え方が違うものだというのは、ある程度の文化人ならどこの国の人でも知っていることである。しかしながら例え知っていても、そう簡単には理解できるかはまた別なのである。そういうことを説明していく力強さやたくましさは、やはり必要な技量なのであろう。本当に日本人が卑怯であるなら改めたらいいことなのだけれど、単なる誤解なのだから説明してやんなくちゃ、というごく単純な出発点なのであろう。
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