カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

狂気と家族

2011-07-18 | 読書

狂気と家族/R・D・レイン、A・エスターソン著(みすず書房)

 どうして精神分裂症(統合失調症)にかかってしまうのかは現在でもはっきり分かっていない。それほどこの病気にかかるということには個人差があるということと、精神病というものが、結果としてある状態であるのは分かるが、結局はその状態でなければいいというだけの社会的な問題ともつながっており、まだまだ未知のものであるということでもあろうと思う。脳内物質との関係も取りざたされているが、つまるところ結果的なものである。しかし、罹る人と罹らない人がいるらしいことが、ある種の偏見を生んでしまう。
 そのような個人的な病気であって、しかしその病人の家族も含めて観察して見ると、いろいろと特徴的なものが見えてくる場合があるようだ。そういう症例を集めて羅列紹介されているだけの内容の本である。それだけなのだが、実に奇妙に考えさせられることがたくさん出てくる。明らかに異常な家庭環境と、そして人間関係。欺瞞に満ちていながら、しかし、あたかもそのことが何の異常とも気付いていないらしいということも含めて、それなりの驚きも覚える。患者の方が異常性をかなり以前から訴えていたにもかかわらず、家族の方はその訴えている本人の方を異常だと考えてしまう。ついには…。というような展開が予想できて、なんとも痛ましい思いがする。ひょっとしたら、この病気は防ぐことができたのではなかったのか。しかし、子供は家族を自ら選ぶことは出来なかったのだ。
 もちろんこのような環境下にあっても、発病しない人の方が多いのかもしれない。ある意味でそういう才能があるからこそ病気になってしまうとは考えられる。兄妹であっても発症しない人もいる。異常性のもとが本人である場合もあったことだろう。むしろ親は本心から子供を心配し守ろうとして、より欺瞞的な態度を恒常化させてしまったのかもしれない。そうして見たくないものを見ない習慣が、本当に目の前のことを見えにくくして行ったのではないだろうか。
 家族の中の異常性が浮き彫りにされると紹介したが、しかし、このような親の言動は、あんがい日常的にありふれたものなのかもしれない。ごく一般の家庭においても、例えば少し派手な服装をする娘をたしなめて過剰に注意することもあるだろう。その注意にまた過剰に反発するのは子供の常だ。そうした軋轢の末、実際に恋愛の障害になったり、あるいはさらに別の事件に巻き込まれるということもあり得ることだろう。親としては、言うことを聞かなかったからだと思うだろうし、子供としては妨害されたからだと思うのかもしれない。そういう出来事が必ず精神的な病気につながるとは限らないが、しかし、実際に病気になってしまった人には、そのような関係が大きかったことが伺える。家族という一番身近で基本的な関係だからこそ、個人に与える影響が大きすぎるのであろう。
 アニメの「サザエさん」を見ていて、僕がいつも疑問に思うことがある。それは家庭内の日常に、様々な容易にばれてしまう嘘の多いことである。たまたま昨夜見ていた話を例にとろう。カツオは夏休みに補習を受けることになり(成績のせいであろう。また、その前にテスト用紙を隠そうともしていたし、点数を誤魔化そうともしている)、それで(夏休みにかかわらず)毎朝登校しなければならないということを、学級で飼っている兎の餌やりの係になったと言ってしまう。いろいろ頑張るが、もちろん後でばれてしまう。ノリスケが自宅で酒を飲みながら寛いでいると、間違い電話でうなぎ10人前の注文を受ける。ノリスケはふざけて、そのままウナギ屋を装い注文を受ける。一度催促があるが、間もなく配達するとさらに嘘を重ねる。もちろん話は大きくなり、結果的には誰が悪かったのか分からないまま終わる。漫画だから嘘がバレる過程を面白く見せているということだろう。また波平は、養毛剤を試していることを隠すために、(そのことに注意が集中しすぎて)フネの変化に気付かないというエピソードもあった。これもまあ、嘘のような例に挙げられるかもしれない。たった30分の中に様々なバリエーションの嘘の羅列がある。なんという欺瞞に満ちた家族なのであろう。
 例え家族であっても隠し事があって当然とは思うものの、しかし彼らは実に意識的に多くの嘘を吐いている。そういうものだということかもしれないが、これだけ欺瞞に満ちた家庭も珍しかろうといつも僕は思うらしい。あるいは、嘘に気付かない鈍感な男だということもできるかもしれないが、しかしそんなに必要性が高いとも思えない嘘ばかりをつこうとする心情は、やはり良く分からない。嘘は分からなければ嘘ではないという言葉があるが、しかし共同生活をしている家族間において、本当にそんなに嘘が必要なのだろうか。
 脱線はさておき、やはり家庭内においては、あんがいそれなりの欺瞞は隠されているものだと考えることは出来そうである。それが人間関係であるということは言えるものの、その欺瞞が日常化し、時には見えなくなるほどに定着して本当のことになってしまうと、傍から見ていて異常なものになってしまっても、本人たちは気付きもしないということに発展していくものなのかもしれない。不思議な本だが、この本を読むことで、改めて家族とは何かと考えてみることは必要なのではないだろうか。
コメント
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