カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

何になりたいは重要なのだろうか?

2011-07-13 | 境界線

 小学生に将来何になりたいか?というような質問をすると、男の子はスポーツ選手、女の子はケーキ屋(お菓子屋)さん、というのが上位だったと思う。聞くところによると、このような傾向は20年ほどほとんど変わらないのだという。素直な回答だということも言えるのだろうが、何というか、貧困である。
 もちろん自分のことを鑑みても偉そうなことは言えないが(確か僕は八百屋だったと思う)、そんなような将来の夢というのを聞いて喜ぶ大人というのも、なんだかつまらない気もするし、まあ、たわいの無さに安心して喜ぶというのであれば、それでいいわけだが。
 将来の夢と言いながら、職業であるという限定も何となくつまらない原因ではないかとも思う。子供に何の職業に就きたいか問うというのも、かなり無理がある。スポーツ選手が職業だというのもちょっと無理があるから、まあ、子供らしいのではあるが。そうであるなら、夢というより現実感とでもいえて、さらにつまらないのかもしれない。
 しかしながら将来何をしたいかというより、今好きなことを将来につなげたいというようなことでもあるような気がする。つまりいま何に熱中しているか、ということと、少なからず関係があるはずであろうと考える方が適当だろう。確かアニメのキャラクターになりたいとか、電車になりたいとか、そういう回答もあったはずである。あり得ないが、それがむしろ子供のリアルである。そうして夢があるといえそうだ。
 さらに年を追うと、親が子供に就かせたい職業というのが出てくる。確か上位は公務員とかだった。公務員の人には申し訳ないが、これを聞くと何故かげんなりしてしまう。親の心配の何とつまらないものか、ということと、何か得体のしれない圧力のようなものさえ感じさせられる。
 子供の将来がどのようになるかというのは、確かにはっきりとしたものなんて無い。それだからこそ未来である。しかしながら歌手になりたいとかいうような夢を聞かされても、それなりにげんなりするのもよく理解できる。やるんならやればいいけれど、なんとなくうつつを抜かしているような感じもする。もちろんお金をもらっているのだから職業だけど、考えてみるとあれはカンパを集める仕組みのようなものだ。まあ、それでいいけど。
 実際の話、仕事をやるようになると、別の意味で色々と夢が広がるような気がする。これをやり遂げると頑張ったり、ある時は感謝されたり。もちろんつらいことの方が多いのだけど、結果的に暮して行けたり責任が増えたりする。そういうものが、現実的には一番の夢の実現っぽい。そういう仕事の価値観の残っているうちのことだけなのかもしれないが、とにかく自分のためではないというのが何より自分を支える価値になっているような気がする。
 将来の夢というのを聞いたところでやっぱり貧困にならざるを得ないのは、このようなあいまいさの中で将来の具現的な姿を見せている親のせいなのであろう。夢なんてものは実現しなくても全然かまわないもの。そういうことを教えてやってもいいのではなかろうか。
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埋もれた裏技

2011-07-12 | 

 料理番組をボーっと見るのが好きなようだ。事実コツコツ撮りだめして、酒を飲みながら眺めてみる。料理はほとんどできないので、まったく実用的ではない。しかしながら、野菜を切ったり、フライパンで炒めたりするのを見ているだけで、なんだか楽しい。そうして、ちょっと裏技的なことを紹介されると、よく意味も分からない癖に、ほう、という、得したような溜息が洩れる。たぶん使わないうちに忘れてしまう技術に憧れ感心する。誰かに教えたいような気もするけれど、僕のようなものに教えられたくないだろうから諦める。そうして、たぶん、そういうことは、料理をする人たちは結構知っていたりするものなのだ。そう考えるだけで、なんだか赤面ものだから、隠れた裏技は、僕の知識の中に蓄えられていく。ただ埋もれて行くだけにしろ、何ももったいなくも無い。正直言うと、少し悲しげではあるのだが…。
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若者たち

2011-07-11 | 映画
若者たち/森川時久監督

 兄弟喧嘩は夏の夕立の様なものだと子供のころによく言われた。激しいけれどすぐに止むということらしい。確かにあっという間に火がついて、しかし次の瞬間には一緒に遊んでいる。仲がいいから喧嘩するともいう。共同体だから利害が一致するわけで、喧嘩するより仕方無いことも多いのかもしれない。
 それにしても、大人になってまでよくもまあ激しい喧嘩をするものである。その混乱ぶりが売りなんだろうけれど、近所迷惑も甚だしかろうと思った。回りにいるすべてに迷惑である。中国に留学中はあちこちで喧嘩が始まるので閉口したが、昔の日本と同じであるようだ。まあ、あれも慣れてしまうもので、今となっては懐かしいものだけど。
 戦後しばらくの左翼的空気も今とはだいぶ違うようだ。兄が妹を心配するあまり保守的な差別的な発言をしてしまうのだが、知識的文化人である弟に諭される理屈はしかし、ちょっと左がかりすぎていたりする。みんな貧しいわけで、余裕なんて無いわけで、どこかそのような理想主義的なものを持っていなければつらいというのもあるのかもしれない。まあしかし、だから誰かが支えて生きているのは変わりがないと思うし、弟の様な境遇を支えているのも兄なのだろう。みんな社会が悪いというのは簡単だけど、個人の境遇は今であっても社会的にそう簡単に変えられるものではない。自己責任という言葉も嫌いだけど、悩んだ上で自分で決めるしかないではないか。
 理想主義で自分自身を縛って相手を威圧する妹の友人もめんどくさい。自分の問題を社会化しすぎで、結局は甘えているようにしか見えない。その上他人の好意に助けられているわけで、なんだかそれだけは不快に思った。実際はしがらみもあって余裕もないのだけれど、ひがんで閉じこもっているのは誰なのだろう。
 しかしながら、そういう異質なものがゴロゴロ引っかかりながらも、なかなか面白いのも確かである。その時代にかなりヒットしたらしいが、今の時代でも似たような現象は起こり得るのではないかという気さえした。もちろんそのままでは時代背景が違いすぎるのだけど、このような失われてしまって久しいきょうだい間の家族的なつながりというのは、現代にも通じるテーマではなかろうか。
 現代人の目から見て偏見に見えるようなものも、実は人間だれしも持っているような普通の感覚だったりするのかもしれない。今のフクシマのことを考えても、なかなかドキリとするようなことでもある。そういう意味でも、デフォルメはあるが、あんがいさらけ出してカタルシスを得るような映画といえるのかもしれない。普通はあれだけ喧嘩すれば、怪我の代償の方が大きいのであろうけれど…。
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どこまでも末期風景

2011-07-10 | 時事
 既に世界が変わってしまった後なので、その流れに沿っての内部告発が問題になっているということはあるんだろうが、まあ、そんなことは誰でも知っていたことなんだろうな、とは思う。タイムリーで無いから何の話題にさえならないけど、いろいろ参加させられる充て職の会議なんかは、実にやらせそのものの既成事実作りばかりだ。それにつき合わさせる構造はそう簡単に断ち切れないし、抜けるのならそれなりに先を見越した勝機を持っている必要がある。ほとんどは、問題意識さえ持ち合わせていないだけだけど…。そうしておそらく新聞社だって、今まではそういうことをやる上位組織だったわけなのだけど、いつの間にか仲間から外れてしまったか、もしくはケツに火がついてしまったか、本当に無知だったかどうかということなんだろう。
 とまあ、せっかくいい天気だし、終わってしまった世界を散策でもしておこう。
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梅雨明けらしい

2011-07-09 | 掲示板

 待ちに待った梅雨が明けたらしい。もちろん梅雨明け宣言などというものは僕には微塵も必要ないわけで、気象庁においてもそんなものは今後出さないということになっても、ぜんぜん困りもしないし、それこそが自然だと思っている。梅雨入りと梅雨雨明けとか言いたいんだったら、春になったとか夏になったとかも言って欲しい。梅雨というのは本来、そのような季節のことなんじゃなかろうか。おいらは梅雨が明けたと思うよ、とか、まだまだ雷鳴らんけんね、断固あけちゃあおらん。というような人がおられても一向にかまうものではない。
 実はこれは前にも書いたので繰り返しなんだが、そういうものを国民の誰かが決めて欲しい、というようなことがあって、恐らく親切心と国の権威の様なものもあって、このようなことになったのではなかろうか。季節というのはその土地の人達がそのように感じて勝手に決めればよろしいもので、おせっかいはもうやめた方がいいと思う。
 しかしながらそういうことを決めてもらった方が、何かと都合のいい人たちも居るんでしょうね。おいらにはよく分からんが、老婆心ながら、もう少し自分で決める練習をした方がいいと思います。
 梅雨明け宣言した後にまた雨が降りだしたりすると、「梅雨明けしたのに何故?」などという人が居て、僕はなんとなく不機嫌になります。まあ、どうでもいいっちゃ、いい話なんで、僕の方が全面的に悪いのであります。
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夏が来たけど泳げない

2011-07-08 | HORROR

 特に神経質というわけでもなかろうが、尖ったものや刃物が怖いというのはある。注射嫌いは書いたことがあると思うが、二日酔いの点滴は好きである。いや、何とか我慢して突破できる壁である。血液検査はいまだに鬼門だが、僕から血を取ろうとする看護婦さんたちにも鬼門なのであろう。それを考えるとお気の毒で、協力しなければという気持ちでなんとか乗り切ることができるようだ。
 自分に料理ができないというのはあるだろうが、包丁を握るとかすかに緊張感を覚える。かぼちゃのように固いものを切るのが特に嫌である。これだけの力で物を切ることに対する恐怖の助長であろう。失敗すると取り返しがつかない。しかし力を入れなければかぼちゃは切れない。もう清水の舞台から飛び降りる覚悟である(大げさ)。
 子供番組で料理をさせるものがあるが、たどたどしい手で包丁を扱う姿にドキドキしてしまう。慣れるためには包丁に馴染まなければならない。時には小さな怪我でさえ必要な経験だろう。理屈では分かっていながら、胡瓜を切るのはやめて欲しいとも思うのだ。
 台所から「痛」という声が聞こえると一瞬で心拍数が上がる。台所は女の戦場だというが、よくもまあ、ああいう危険なところで毎日働いているものである。もちろん僕が参戦すると、さらに惨劇が繰り広げられることになるのだろうが…。
 さて、夏の海である。もともと泳ぎは得意な方だと思うが、年を取ると特に泳ぎたいという欲求はほとんど無い。美しい砂浜を見ると、しかし歩いてみたいとは思う。砂が服などに付いて、後でめんどくさいということはあっても、水辺まで行ってみたいという欲求の方が勝るようだ。
 そういう時に必ず頭をよぎるのは、ガラスの破片が落ちていないかということである。足の裏をざっくり切るという恐怖が、裸足になることを躊躇させる。
 磯で素潜りをして遊んでいたら、牡蠣の殻か何かで思い切り足の裏をザックリと切ったことがあった。激しい痛みと驚きでおぼれそうになる。何とか体勢を整えて傷口を見ると水の中で激しく出血している。そのまま流れる血が止まらなくなるのではないかという不安。早く岸へ上がりたいが、とても歩ける余裕がない。心拍の音とともに、さらに出血が増えるような感覚にパニックになるようだ。
 やっと岸に上がった後も、まだ遊んでいる友人たちとは一緒になれない疎外感。もう元には戻らない挫折感。恐らく今なら縫うほどの傷ではあったのだろうと思うが、血が止まるのを恨めしく待つしかなかったのである。
 今年も夏が来たわけだけれど、海に行くことがあるのだろうか。美しい海というのは自然であって、生身の人間はあまりに無防備に弱いということなのではあるまいか。
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物語を失った歌謡曲

2011-07-06 | 音楽


 偶然なんだが、最近「面影ラッキーホール」を知って、面白いのもあるが、これって以前聞いていたサザンのやりたかったことなんじゃないかな、などと思っていたら、この間町山智浩が同じようなことを言っていて、やっぱりそうだったんだと嬉しくなった。
 それでまあ、そのままサザンを聞くのも芸が無い気もするし、その上物語を想像してしまうのは何故か原由子の方なのだった。夫婦なんだからいろいろ話はしているはずだが、分かった上で歌わせ歌うということに凄さも感じる。
 スプリングスティーンなんかも短編小説みたいで泣けるそうだが、残念ながらそこまで歌詞が理解できない。尾崎豊がそのあたりを意識していたようだけど、やはり惜しかったなあなどと思う。
 「面影」は普通ではエグすぎてちょっと敬遠されるんだろうが、こういうものがもう少し広がると、また歌番組なんかを見るようになるんじゃなかろうか。いや、やっぱり無理かな。

パチンコやってる間に産まれて間もない娘を車の中で死なせた...夏.wmv


面影ラッキーホール「ゴムまり」




そんなヒロシに騙されて / 原由子


いちょう並木のセレナーデ  原由子





これはオマケ。懐かしいです。
恋はご多忙申し上げます★原由子

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言葉でたたかう技術

2011-07-05 | 読書
言葉でたたかう技術/加藤恭子著(文藝春秋)

 戦後すぐ苦学しながら会得した、日本人の側から見た異文化の合理性の理解の過程が分かる。著者の性格がそうだったのか、生きる上の必要性でそうなったのかは良く分からないが(たぶん両方)、合理性とは何なのかを考える上で非常に面白い本だった。議論に負けたことが無いと豪語するだけあって、その論理は明快で気持ちがいいくらいだ。しかし、著者も断っている通り、議論に勝つというのは、勝つということを重要視している社会でのことであって、正しいから正しい方が勝つということではない。日本社会では言い負かして勝つことが必ずしも勝利で無いということを考えると、日本で暮らす中では、逆に苦い思いをしていることも多いのではなかろうか。いや、そもそも日本の社会の中では必ずしも必要な技術では無いから、上手く使い分けておられるのかもしれない。
 僕も屁理屈家だから、自分の主張が正当だと思った瞬間にムキになるところがある。負けてしまうということはそう無いとは思うが、上手く相手に伝わらなくなって堂々巡りに陥ってしまうことは度々だ。もともと議論に向かないことだったと反省することもあるし、もう少し上手く言えなかったものかと後悔することもある。しかしながら最終的には、論理を駆使して議論に勝つということについては、よく考えてみるとくだらないとは感じている。いろいろレトリックの本などを読んで自分なりに理論武装した時期もあったけれど、だからと言って真実が必ずしも勝つわけではないということが却って分かってしまって、いつの間にか興味を失ってしまった。僕が知りたいのは合理的な選択や、よりふさわしい好ましさであるはずなのだけど、人々の感情は必ずしもそのような結論に達しないことを感じるばかりである。それは仕方の無いことであるとは思う反面、非常に不幸なことのようにも思える。そして、そう感じている自分自身が何より不幸なのだ。迷える子羊をただ眺めているのもつらいし、付き合わされるのも苦痛だ。
 外国人との付き合いもそれなりにあったから、著者の語る体験にはデジャヴの様なものが結構あった。まったく同じ様な体験ではないにしろ、相手が主張する論理や無理解の仕方が、実に大陸的で面白い。そして多くの日本人たちは、この屁理屈にびっくりしたり辟易させられてきたはずなのだ。
 しかしながら裏をかえすと、逆に外国人の多くは日本人の考え方にびっくりしたり、がっかりしたりしているだろうことは間違いなくて、彼らは実感として日本人は二面性のある卑怯な面を持つ人種だと感じているようだ(本当に耳が腐るほど聞かされてきたことだ)。もちろん言葉の壁の問題があるとはいえ、もっとそれ以前に、誤解を生んでいる習慣の壁がある。そのことは簡単に説明できることではないにしろ、しかし最終的には相手は自然に理解できることではない。僕らが聞かされてきたことと同じように、それらに対してはその都度、またはそれ以上に反論を重ね、また自らも主張し続けなければならないことなのかもしれない。ちょっと無理ッぽい気がしないでもないけれど、日本という国際的に巨大化して影響力のある国である必然性からいっても、今後は最も重要性の高い考え方なのかもしれない。平たく言うと損得の問題かもしれないし、最終的には責任の問題でもありそうだ。
 国際化だとかグローバリズムという問題に対して、多くの日本人は反射的に日本人の側が相手を理解して受け入れる方にばかり力を注ぎがちなのだけど、別段植民地であるとかいう立場であるわけではないのだから、日本文化や日本の正当性の発信の方に力を入れなければ、相互理解には到底つながりはしない。つまりは理解されないものは居ないものと同じような扱いしか受けられない。実際のところは様々な国際会議のメンバーに呼ばれるほどの重要な立ち位置にありながら、どこか蚊帳の外に置かれている現実を感じている日本人は多い筈で、やはり相手に期待するだけのだんまりはどこに行っても通用していない美徳なのである。通用しないのなら美徳では無く悪徳である。
 しかしながら、今のままの日本ではいけないということはよく分かるにせよ、日本人というのがいつまでも損をするばかりだとか不幸なのかということには少しばかり保留がある。現在の日本の繁栄は、たまたま幸運を手にしているということは確かにあるのだけれど、日本の特殊な考え方を育んでこられたことは、ある意味で大陸の様な厳しい環境に無かったためだとも考えられる。日本にだって酷いことはたくさんあることはもちろんその通りだし、不合理なこともたくさん残されてはいるだろう。しかし、だからと言って諸外国に酷さはまた格別のものがあって、そう簡単に心休まる状態にはなれるものではない。本人がある程度強くなければ快適で無い社会(それだから公平なのだろうが)に身を置かなければならない個人のことを思うと、日本のお気楽さというのは得難い幸福なのである。お気楽ではあるが、このままで維持できるのかは甚だ疑問ではあるのだけれど…。
 人間というのは文化的背景で随分と考え方が違うものだというのは、ある程度の文化人ならどこの国の人でも知っていることである。しかしながら例え知っていても、そう簡単には理解できるかはまた別なのである。そういうことを説明していく力強さやたくましさは、やはり必要な技量なのであろう。本当に日本人が卑怯であるなら改めたらいいことなのだけれど、単なる誤解なのだから説明してやんなくちゃ、というごく単純な出発点なのであろう。
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偏食と雑食

2011-07-04 | 

 マダガスカルにゴールデンバンブーレムールというキツネザルがいる。名前にバンブーの文字がある通り、竹しか食わないらしい。パンダは笹だし、コアラはユーカリだから別に驚くことは無いのかもしれないが、かなりの偏食家である。その上この竹には毒があるらしく、ほかの動物は食おうにも食えないものらしい。解毒のために食後に土を食うとも紹介されていたが、まるで落語の「うわばみ」である。ちょっと違うか。
 そのような特殊な能力を得たことで、競争なく食料を確保できるのだという解説だったが、本当にそうだろうか。むしろリスク分散の観点から雑食性であった方が有利なような気がするのだが。
 アフリカの「シクリッド」と呼ばれる淡水魚には1800種の仲間がいるらしい。何でも口が特殊で雑食性であるために、進化の過程で様々な種類に変化しえたのだという。なるほどとは思うが、人間も雑食だから将来的に種類が増えるということなんだろうかと考えてしまった。まあ、犬なんかは人間が作ったということもあるけど、いろいろいますね。雑食性というのは分家するものらしい。でもまあ同じく雑食性の熊の種類が特に多いとは思えないし、なんとなく怪しい。
 さて、好き嫌いなく何でも食べろとは子供のころに言われたものだけど、いろいろ食べるのがめんどくさい時がある。今の境遇は幸い自分で考えなくても食事にありつけるので特に感じ無くなったけれど、独身時代には食事のことを考えるのがめんどくさくて仕方なかった。ラーメンならずっとラーメンでいいとつい考えてしまう。実際にそうしてしまって、太っている癖に栄養失調に陥る学生などは居たようだ。だからその気持ちはよく分かる。具合が悪くならないと、そのめんどくささを克服しようなんて思いもよらない。知りあいに一切野菜を食わないという猛者がいるが、特に不健康というわけではない。彼にはライオンの血でも混ざっているのだろう。
 栄養のバランスを取らなければ人間が生きていくには一般的には不都合らしいが、もしそういう不都合が無いという前提があるのなら、いったい何を食べ続けたいだろうか。そういう問いに対しては、恐らくそれはその人の一番好きなものであるということが予想されるわけだが、ところでじゃあ一番好きな食べ物は何だといわれると、非常に困惑してしまう。自分には一番好きな食べ物は無いんじゃなかろうか。
 また、好きだからといって、やはり一種類だけを食べ続けるのは嫌なような気がする。めんどくさがり屋のくせに一つのものだけではやはり嫌なんて、自分でもなんて我儘なんだろうかと思う。
 少なくともパンダやコアラにはとてもなれそうにない。そしてぜんぜん彼らが羨ましくない。もちろん彼らだって、人間の好みなんて知ったこっちゃ無いのだろうけれど。
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酔わないと悪夢を見る

2011-07-02 | 散歩

 雨と聞いていたけど落ちてこないし、朝散歩に出なかったので思い切って外に出た。時たま霧の様な雨が落ちてきて、ミスト冷却の様な涼しさもある。それでもやはり気温は高いのだろう、すぐに汗が噴き出して閉口した。
 昨夜はつれあいの方が寄り合いがあって送り迎えを仰せつかる。その代り木曜の休肝日に許しが出て飲んだ。月曜にも飲んだので、今週はちょっと儲けた感じだから仕方ない。週末だからゆっくりするという感覚はもともとないし、出来れば平日のように毎日が過ごせるほうが心地よい。特別はめったに必要なものではない。
 息子たちは試験があるということで大人しく勉強している。まったく偉いものである。よく見るとあんまり集中して無いようにも感じるが、まあ彼らの人生だからお好きなようにしたらいい。でもまあ結果が出るのは楽しいようで何よりである。
 最初は録り置きの映画を観ていたが、いつの間にか息子が「もののけ」を観だしたようだ。ついつい観てしまうもので、しかし改めて変な映画である。基本的にはナウシカでもあり、311後の世界観で考えるとまた違った感慨もあったりする。という具合にいろいろ考えさせられはする。まあ、そういう仕掛けもあってこんな変なスジになったのであろう。
 そんなような具合に夜は過ごして、今朝はもちろん二日酔いも無し。今週は何故か疲れが残っていて、毎朝目覚めがなんとなくつらかった。今朝も散歩を期待する杏月ちゃんがしつこく起こすので仕方なく起きたけれど、もう7時前で新聞を取りに外に出ただけだった。と、今になって思い出したが、そう言えば酷く悪夢にうなされて夜中に目覚めたようだった。えーと、確か空からべったりした物が降って来て人々がパニックになる。誰かが「ああ、もう駄目だ」と悲痛な声をあげていた。僕もなんだか逃げまどっていて、やはりこれはもう駄目かもしれないなどと思ったら目が覚めた。何のことは無い、もののけの連想の様な気もする。それにしてもあの得体のしれないものは何だったのだろう。目覚めても怖さは抜けなくて、本当に背中の方が寒かった。
 フィニッシュに坂道を登りきってまた下りになる。下から吹き上げる風に少しばかり霧の発生前の湿りの様なものが感じられる。部屋に戻りエアコンの前に立つが、なかなか汗は引かなかった。
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忘れられた人々

2011-07-01 | 映画
忘れられた人々/ルイス・ブニュエル監督

 子供というのは純粋であるといわれる。もちろんその通りだとは思う。しかしその純粋さが悪の道に入るとどうなるか。いわゆる不良少年なのだが、これがどうにもタチが悪い。弱さと狡さが混在して、そうしてヒネていて、救いがない。いや、救えないことも無かったのかもしれないが、踏み外した道はそれなりに険しく、後戻りできないらしい。誤解もあるが、信用も失い破滅に向かっていく。唖然とするくらい救いが無く、ただ悲しい物語だ。悔やんでも悔やみきれないやりきれなさが後に残り、呆然としてしまった。なるほど、だから名作と名高いわけか。
 何が悪いということをあげつらうことはできる。何より仲間が悪いし、環境が悪い。母親も悪いし(おそらく母親の愛情を欲しかっただけなのだ)、この映画に出てこなかった過去の(たとえば父親)人達が悪いのかもしれない。理解ある大人も出てくるが、妙にくせのある人々が渦巻いており、単純ではない。主人公は不良だが、しかしどちらかといえば真っ直ぐで一途なところも見てとれる。ある意味では要領が悪く、損をしている感じだ。本来は不良に向かないのかもしれないが、自ら湧き出してくる反抗を抑えることができない。結果的には酷く不良なのである。
 僕自身はまともな不良とはいえないまでも、はぐれ者とのつきあいはそれなりに経験がある。結局はうまく溶け込めなくて、その中からもはぐれてしまったようなものだけど。しかし覚えがあるのは、仲間うちでも頻繁に裏切りがあったということだった。彼らは簡単に嘘をつき、ふざけて馬鹿をやり、そうして関係無い弱い人達をさげずんでいた。簡単に言うとそういうことに嫌気がさしてしまった。不良なら一人でもできるので、離れてしまったのだろうと思う。まあ、才能が無かったわけだ。その中には竹馬の友のような奴がいて、本当に毎日のように家に寄って遊んだものだったが、結局は大人になる直前あたりで疎遠になった。なんとなく寂しかったが、損なわれたものも大きかった。随分して酒屋で顔を見たが、結局一緒には飲まなかった。住む世界が違ってしまったのだった。
 当然ながら映画の状況とはぜんぜん違う。しかし激しいいらだちや反抗心は似たようなものがある。仲間の裏切りもどこかで見たことがあるようなものだ。決定的に違うのは恐らく深い貧困で、過去のメキシコという国の病理である。彼らは子供といえども働かなくてはならなくて、そして腹をすかせ、馬小屋などで寝るのだ。大人たちもすさんでいて、ある意味では自分の身を守っているかもしれない。
 最終的には信頼されようとする大きなきっかけを得て、そのことが破滅の大きな曲がり角になってしまう。信頼を得るための仕掛けが、むしろ大きな罠に思えるほどだ。後になって思うと、反抗と癇癪で殺してしまった鶏に復讐されたのかもしれない。
 この映画にどれほどの意味があるのかは正直言ってよく分からない。人間は悲しい生きものだということだけは、言えるとは思うのだが…。
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ターンしたところ

2011-07-01 | 雑記
 ああ、もう半年が過ぎたのか。つい最近正月だったような気がする、とつれあいも言う。分からないではないが、いくらなんでもそこまでかな、と思うが…。
 半分すぎたとなると折り返しのイメージがある。僕は水泳は得意じゃなかったが、プールでターンをしたイメージだ。もう一度力が湧いてくるような、またはその必要を自覚するような感じだろうか。
 年齢から考えて統計的な数字と実感からして、すでに人生のターンの時期はとうにすぎてしまっていて、後は死ぬばかりという感じかな。同じくつれあいはそう言う。体が弱いから弱気であるとはいえ、まあその方が愉快かもしれない。どの道いつかは死ぬわけで、いつまでも死なないと思うより平和だ。準備なんかしないで突然死にたいものである。事故なんかが理想かもしれない。電源がぶちっと切れるように終わるといいのにな。
 とはいえ、特に死に急ぎたいわけでもないので、後半戦もがんばりましょう。夏は苦手だけどいつかはちゃんと終わる。そうしたらすぐに正月になっちゃうんだよなあ…。
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