ナイトクローラー/ダン・ギルロイ監督
男はたまたま事故現場で映像を取るパパラッチの存在を知る。面白いと思ったか、警察無線を買いビデオ機材を中古で買って自らパパラッチのまねごとをする。行動力のたまものか運も手伝って、過激な映像を撮ることに成功し上手く報道番組に売り込むことが出来たのだが…。
平穏な生活をしている一般市民の足元に、恐ろしい事件や事故が日常的に忍び寄っている、というイメージを求めて、このような事件報道の映像が売り買いされている現実があるらしい。テレビ局はもちろんそういう事件を日々追って報道している訳だが、人員は限られているし、事件がどこで起こるかなんて、予測不可能だ。たまたま現場の近くにいた人がカメラをもっていて、その事件を撮影していたとしたら、その映像を買ってニュースに流した方が効率がいいし、いわゆるニュースバリューの高いものとなる訳だ。たまたま映像を撮ることに成功した一市民はもちろんいるだろうが、しかし現実はかなり違う。これらの事件を専門で追っているフリーの報道クルーという存在がちゃんとあるのだ。彼らは映像をテレビ局に売り込むことが専門だから、完全にプロである。テレビ局だって、局の倫理を厳格化すると、事故現場に踏み込んで撮影すること自体が、危ういことになる可能性もある。そういうグレーラインを踏み越えた先にある映像は、なかなか手に入るものでは無い。だからそういう映像であればあるほど、外注であるからこその非常に都合のいい関係であるということになるのだ。
この世界に新規参入した男の物語だが、この男がかなり変わっている。素直にいうと病的なところがある。映像を撮るためにやる手段が、ことごとくグレーラインに接触するのだ。しかし彼は映像を撮ることに憑りつかれているように見える。危険を厭わないばかりか、どんどん危険になりそうな設定に踏み込んでいくような感じになっていく。恣意的に犯罪者が警察とぶつかるような配置を考えたりするのだ。グロい映像や迫力ある映像を撮る現場にいるためには、警察無線を傍受するだけではとても間に合わない。さらに大掛かりなクルーを抱える組織には、とても太刀打ちできない。個人が撮れるスクープの為には、限りなくやらせに近い設定を作り上げるしかないのだ。
とても嫌な気分になる映画だ。しかしそれが人々の欲する娯楽の為なのだ。嫌なものを好んで観ている大衆のニーズがあるからこそ、彼のような生き方がある。もっとも彼は、その大衆に対して特に注意を払っているようには見えない。究極に合理的に生きていることに、ある種の満足感があるかのようだ。残念ながらこの種のプロフェッショナルが尊敬されることは無かろう。それなら倫理問題だが、特にそこに立ち入った映画でもない。放り出された観客は、嫌な気分を抱えて現代に生きていくより無いということであるのだろう。