人が死ぬと感傷的になってしまうのは仕方がないことかもしれない。しかし、死というものは年齢を重ねると、着実に近づいてくる実感があるのも確かだ。ご高齢の人が時折、もういつ死んでもいい、というようなことを言うことがある。実際にそういう境地に達しておられるという人も皆無ではなかろうが、実は違うであろうことも分かる気がする。死ぬべき時が来ようとも、そんなに簡単に死にたくなるものでは無かろう。今やりたいことがあるからとか、いろいろ理由を考えないまでも、例えば単に腹が減ってしまっただけでも、食べて生きていることが楽しいような、それが生というものの本質だろう。
しかし死が自分自身に降りかかるだろう猶予というものが、やはりもう忍び寄っている。自分の人生は半世紀になろうとしていて、それはまだまだという人もあるが、少なくともこれまでの人生よりは長いはずもなく、また、自分の身内の死亡年齢などを勘案してみてみると、もうそんなに猶予は無い。具体的に言って70歳になれるとは考えにくい。要するにもう20年あるかないか。ひとが二十歳になるのはめでたいが、僕があと20年生きていくのは、もうめでたくも無い。考えすぎるのも良くないにせよ、その実感はただ寂しい。
では死ぬ前の準備をすべきなのか。これはもう始めていると言えばそう言えるが、しかし身辺を自殺前に整理していることとは違う。いつ死んでもおかしくは無いけれど、どの道死んだら自分で自覚などできないのだから、やるだけ無駄であるという思いもある。要するに何もする必要などない。残される家族には保険などもあろうが、勝手にやってもらうより無い。口出しなどできないのだから、残す必要もないのだ。
生きているうちに好きなことをしてしまうのも、だからそれなりに無駄のような気もする。そのような思い出は、死後に持っていけるものではない。今までに楽しかったことは、今は知っているだけのことで、だからそれで今がハッピーな訳でもない。若いころに楽しかったことが、今も楽しいとは少し違うだろうし。しかし今楽しいことが、積極的に何かやって、楽しいことということでもないように思う。自分のことでありながら自分のことですらないような気もする。それって本当に僕が生きているということなんだろうか。
結局は打ち切ってあまり考えなくするより無い。特にそれで鬱になるということも無いけれど、考えなければどうだっていいことだ。それって既にあんまり生きてないようなものかもしれないけれど、あんまり活発にやって生きてる実感を味わうような時代は、すでに終わりを遂げているのかもしれない。