カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

漬物

2009-12-01 | 
 スタッフのお婆さんの手作りの漬物を昼飯のときに頂く。甘辛の漬け方が絶妙で、たくあんはもちろんナスやら奈良漬やらも旨い。
 これなら売れるよ、と正直に褒めながら頂いたのだが、後で聞くとご近所の市で実際に人気商品なんだそうだ。
 なるほど、道理で。おみそれしました。
 僕らも習いにいって商品開発しようかな…。
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踏み絵に対するシコリのようなもの

2009-12-01 | culture
 踏み絵っていうのは、教わった時には深刻なんだかよく分からない問題だった。江戸時代の話らしいから、その時代の鎖国というやつは、日本の後進性ゆえに起こったことだったかのような印象もあった。それは先生の教え方だったかもしれないし、僕が勝手に捉えたことかもしれない。
 しかしキリストの絵を踏んだから転んでしまう(信仰を捨てる)という比喩の方が、よく考えるとなんだかおかしい。その後の隠れキリシタンの歴史などを考えても、そう簡単にそのような信仰を捨てるということはありそうに無いことである。そうであっても踏むことができない信仰心というものはなんなのだろう。つらい拷問の末、殺されることがほぼ予想されるのに、あえて殉死を選んでしまうというのはなんなのだろうか。徳の高い信仰心というのはそのようでなければならないのだろうか。
 当時の迫害を思うとき、やはり後世の人間としては、その野蛮な迫害を行った側の残忍さを憎むような気がする。
 しかし、ふと思うのだが、踏み絵を踏んだら許されるという信仰に対する取り締まりというのは何なのかと、改めて考える必要があるんじゃないか。踏んだ人にはお咎めなし(少なくとも殺されはしない)で、踏んだ人は激しい拷問と死罪である。あまりのバランスの悪さ。むしろ(心の中に)信仰があったとしても、踏んでしまえばその場は許されるということなのではないか。そういう了解事項を提示しているという考え方なのではないか。
 本音と建前があるということを最初から了解した上での裁きだったとしたらどうなのだろう。それに対しても真っ向従わない宗教というものに対して恐怖心を抱くというのは、はたして当時でなくとも感じることなのではないか。
 もちろん時代が違うので今との比較は無意味だが、踏み絵という馬鹿げたものでも踏まないという行為に対して、テロリストに対する恐怖を持ったというのが当時の迫害なのではなかったか、という気がするのである。初めて見る原理主義者という存在。一神教の新しさに対する違和感。
 そのような一途さは、現代の宗教以外にもよく見られる光景のような気もする。多様なものが一つに収斂されるような力強さ。時には命がけだという精神性。肉体より精神が優先される現代性。
 今の人たちは踏み絵を踏んでも殺されることはない。もちろん信仰心が試されることもないのだが、何か自分の誓いのようなものに対して、妙に忠実なものこそ尊いという感覚は持っていそうな気がする。少なくとも踏み絵を踏んで後悔する程度は、何かを信じているのではないか。本当に信じるものがあるのなら、踏み絵を踏んでもいいという、そういう多様性は認められないものなのだろうか。
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生活改善しすぎ

2009-12-01 | 散歩
 5時半に起きて散歩。
 手袋もいらない暖かさ。真っ暗だけど快適、快適。星座もきれい。朝の時間を独占する贅沢さ。一種の王様気分だろうか。
 薄明かりが差してきて急激に冷え込む。放射冷却というやつなんだろう。体はポカポカしているけど、手先がかじかんでくる。

 職場で二三仕事のチェックを済ませると、なんだかもう疲れて眠たくなってきた。
 張り切りすぎてもいけませんね。ちょっとペースを落とそうっと。
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