カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

トラディショナル・ファーストフード

2008-12-24 | 

 昼につれあいが居ないということで昼飯はおにぎりだった。家で食べたとはいえ、なんとなく遠足気分になって、二男と一緒に黙々と食べた。茶碗の中のご飯が冷えているとなんとなく侘しいものだけれど、おにぎりは特に温かくなくても侘しくないのは何故だろう。それに当然ながらちゃんとおいしい。つまりご飯は特に温かくなくてもおいしいということなんだろうと思う。もちろんレンジもあるから温めるぐらいは手間ではないが、冷たいままおいしいのにわざわざ温めて食うこともない。そんな風に普通にすごく美味しい冷たいおにぎりは、偉大だなあと思うのであった。
 さて、しかしおにぎりは親近者が握ってくれるので安心して食べられるということがあって、実はあんまり得意ではないというか苦手な食べ物である。手間の上ではこの上なく手軽なんだから、厭うことなどないではないかと思われるかもしれないが、最近はおにぎりといえばコンビニものが流通して、家庭の味がおにぎりということが少なくなったように思う。そういう意味でもなんとなくおにぎりの地位が下がったような感じがしないではない。ちなみにコンビニのおにぎりはようやく開け方をマスターしたので、不器用だからとかそういう意味で苦手なのでもない。
 小さい子供の頃にはどういうわけか、いろいろと寄り合いというのか、人の集まる行事が多かった。人が集まると炊き出しがあって、お母さんたちがワイワイやって吸い物とか煮ものなどのようなものをつくっていた。出前で何か頼んであるという場合も多かった(たいてい皿うどん)のだが、炊き出し班が何かをつくるということは必ず必然的に行われていた。お母さん方が炊き出しをするので、当然小さい子供たちも一緒に台所というか、炊き出しの料理をしている中に騒然と一緒に遊んでいる。そうしていろんなご婦人方の料理する所作を逐一観察させられることになる。母親が料理を作るというのは見慣れた風景だけれど、他のお母さんが料理を作るというのは当然見慣れていなくて、なんとなく目新しいというか、少しばかり興味もあったものかもしれない。包丁を使ったり鍋を覗いたりという動き自体は同じようなものかもしれないが、やはりなんとなく勝手が違うような気がしたものだ。
 まあそこで、「家政婦は見た」ではないが、その料理風景を見たことが、僕にとっては不幸なことだったのだと思う。他のお母さんの食材の扱いが、なんとも不潔に思えたのだ。かまぼこの切れ端を床に落としても拾って鍋に入れるし、代わる代わる味見するのにも同じお玉にみんな口をつけたりしている。そうして圧倒的にショックだったのは、手のひらを舐めながらおにぎりを握る人がいたことだった。僕はすっかりげんなりしてしまって、すべての食欲が失せていくのだった。
 やっと大人の男たちが集まって、誰かが乾杯の音頭をとって無事に宴会が始まると、子供は酒を飲むわけにはいかないから、とにかく並べられた飯を食えということになる。御近所の知った顔のおばさんがやさしくというか強引に皿にいろいろ盛ってくれて、「さあっ」といって勧められたものを拒否できるほどの意志の力が、まだ小さい頃には備わっていなかった。誰だってそうだろう。
 しかし、あれほどの拷問はそうあるものではない。食いたくなくても食わなければ何をされるか分からない(実際は何もされないだろうが)。思い切って歯をくいしばって何とか口の中に入れて、もぐもぐさせてグイと呑み込む。涙が流れるような思いでやってひと皿平らげると、「あら、お代りあるわよ」と更におにぎりが山盛りになった皿が目の前に置かれるのである。これを食べなければ逃れられないが、流石にキリがない。泣く勇気があれば大声で泣いていたことだろう。
 まあ、だからといって引きこもりになったわけではないけれど、その当時は流行ってなかったので知らなかっただけなのかもしれない。しかしおにぎりに対する不信感はしっかり残って、今だに座敷宴会などでおにぎりが並んでいると、なんとなくギョッとしてしまうのであった(まあ、酒を飲むと食えるのだから不思議だ)。
コメント
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