風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

個人

2017-11-16 | 生活の風景
ちょっと前にもここで書いた
「世界は、ひとりの複数形でできている」という
TVCMのキャッチコピーが好きだ。
昭和天皇は「雑草という植物はない」と言ったそうだが
人間にも「その他大勢」という人はいない。
ひとりひとりがその人の人生の主人公であり、
その全人格が何かのカテゴリーにひとくくりすることはできない。

にもかかわらず、
どうも昨今「人のかたまり」で論じられることが多いと思う。
「喫煙者はマナーが悪い」といわれることがある。
非喫煙者と同様、マナーが良い人もいるが、悪い人もいることは確か。
「与党は・・・」「ネトウヨは・・・」「日教組は・・・」
「ムスリムは・・・」「北朝鮮は・・・」「ゆとり世代は・・・」云々
良い人も、そうでない人も、尊敬できる人も、がっかりな人も、
そして考え方に同意できる人も、同意できない人もいる。
バーナード・ショーは
「金曜日に結婚すると不幸になるのは本当ですか?」と聞かれ
「もちろんです。金曜日だけが例外ではありません」と答えたらしいが、
それは皮肉屋である彼独特の言い方であり
そういう人もいるし、いつ結婚しても幸せな人もいるということだろう。
その言い方を真似てみると
「喫煙者はマナーが悪いというのは本当ですか?」
「もちろんです。喫煙者だけが例外ではありません」ということになる。
置き換えてみると
人をカテゴライズすることのバカバカしさがわかるだろうか。

「韓国人は日本人が嫌い」・・・本当か?
日本人だって韓国の友人がいる人もいるし、彼の国が好きな人もいる。
それは相手の国だって同じことだろう。

「共産党は危険だ」・・・本当か?
国のことを真剣に考えている人もいれば、そうでない人もいるというのは
どこの党でも同じことだろう。
当然思慮深い人もいれば力ずくという考え方の人もいる。
これも与党を見ていれば同じだとわかる。

「日本人の美徳は素晴らしい」・・・本当か?
本当にみんながみんな素晴らしい美徳の持ち主なら
凶悪な事件など起きないだろう。
一方で心温まるエピソードもよく聞くが、それは他国でも同じこと。
第一、長い歴史の中で純粋な日本人ってどれだけいるのだろうか。
日本人とはどんな定義になるのだろうか。

人をかたまりで考え、それを敵と味方に分けるという考え方は
味方組織のモノサシの硬直化につながっていく。
その結果多様性を認めない組織になっていき
生まれつき茶色い髪を黒く初めろ・・・なーんていう
バカバカしいことにつながっていく。

社会はあくまで個人の集まり。
多様性」の時にも書いたように、ひとりひとり違うのだ。
なんらかの枠で、人をかたまりとして考えるのは
「ひとりの複数形」という考え方ではない。
エスカレートしていくと異論を認めず、
「敵対グループを殲滅」と簡単に変わってしまう危険性がある。
戦前のように。
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11月15日

2017-11-15 | 生活の風景
今日は家人の誕生日。
平日だし、例年通り特別なことはなにもないけど、
ともかく誕生日おめでとう。
20代半ばからこの歳までいろいろお世話になってます。
これからお互い老境に入っていくけれど、
これからもよろしく。

坂本龍馬と同じ誕生日。
龍馬さんは没日もこの日。
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「わりなき恋」

2017-11-14 | 読書


テレビでも紹介されたらしく、いろんな意味で話題になった本。
悪い方では、不倫に否定的な方々からの「倫理的にどうなのか」とか
「セレブな生活をひけらかしているだけで非現実的」だとか
若い読者からは「還暦間近の男と古希間近の女の醜悪な関係」だとか
果ては、実話が元になっているらしく
モデルとなった男性を推測したゴシップだとか・・・(^^;
まぁ版元との絡みで、いろいろ裏ではあったようだけど
そんなことはどうでも良いし、興味もない。

純粋に小説の1作品として気になり、手に取ってみた。
有名女優である作者がどんな小説を書いたのかという興味だった。
まぁ純粋な小説の作品としてはそれほどでもない感じ。
読み始めてすぐに結末が予測できる展開。
実話が元だからなのか、客観的な表現というよりは感情が先に立ち、
作品の世界に作者自身が酔ってしまっているような描写。
恋する相手の(だからこそか?)過剰なまでの美化。

とはいえ、
この作品の存在意義はそういうところにあるのではないと思った。
誰しもがそうだと思うが、
いくら歳を重ねても、いくつになったとしても、
さまざまな経験を積み重ね、体は衰え、分別がわかるようになっても、
生まれた時からその人自身の意識は変わらない。
私だって、心の中は高校生の頃や20歳ぐらいと何も変わっていない。
人は見た目で存在するわけではなく、ひとりの人格として存在している以上、
その瞬間、瞬間の行動はおそらく若い頃と何も変わらない。
50を過ぎようと、還暦を過ぎようと、80を過ぎようと。
ただ少しずつ捨て去るものが増えてきて、諦めに支配されるだけだ。

だから、「落ちる」ものである恋に年齢は関係ない。
もちろんメンタルな恋も、フィジカルな恋も。
この作品の読むべきところは、
そういう描写から一切逃げていないことだと思う。
歳を重ねたのちの恋物語などいくらでも書くことができるだろう。
しかしここまで書ける人はどれほどいるだろう。
女性として持ち続けている少女のような心と、
相反して衰えてしまった体とのギャップ。
主人公はそれに悩み、とうとう病院にまで通うのだ。
そんな心の内の描写に、この作品の存在意義はあると思う。

男は衰え枯れる。
いかに艶やかな気持ちだけ持ち続けたとしてもそれが現実だ。
だが女はいくつになっても女なのだなと
改めて本作を読んで実感。

「わりなき恋」岸恵子:著 幻冬舎文庫
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気仙沼逍遥

2017-11-13 | 
昨日は朝イチでヤッセコーヒーにご案内いただき
モーニングセットでまったり。
近くの月立小学校旧校舎はそそられる建物。
私が入学した当時の花巻北高桜雲台校舎を思い出す。
あの校舎も煙突が教室ごとに突き出していたっけ。
この場所、現在も住民ベントなどに使われているらしく
この日もそば打ち体験教室の子ども達の声が外まで聞こえていた。
校庭には、すでに住人がすべて出てしまった仮設住宅が
まだぎっしりと建っていた。







ヤッセコーヒーは
静かな渓谷沿いの田園地帯にポツリとあるオシャレなカフェ。



トトロのメイちゃん達が建っていたようなバス停(その名も「崖の尻」!!)や
おどろおどろしい映画に出てきそうな古社なども周辺にある。
立派な竹林があったり、渓流の水がとても綺麗だったり
ロケーションは抜群にいいところだった。
地図で見ると、気仙沼と陸前高田と一関(旧室根村)の境目あたり。

    ⭐︎      ⭐︎      ⭐︎

その後、昨夜からたくさんお話を伺っていた唐桑半島が見たくなり
ちょうどカキまつり中とのことでさっそく行ってみることに。





焼き牡蠣のおもてなしと、昼食用の牡蠣めしGET。
ステージの大漁うたも素晴らしい。思わず動画撮影。

唐桑の景色も堪能できた。
浜沿いはすべて津波にやられて集落が消失してしまったらしいし、
その後の、現地ニーズとマッチングしていない復興支援の残滓など
いろいろ考えさせられることもたくさん見たが
それはそれとして、とにかくどこから見ても絶景ばかり。
すぐそばに気仙沼大島も見える。
リゾートや海水浴場ではない
生活臭が残る漁師の浜の風情に憧れるんだよなぁ。















今度はドライブに行ってみるべく、帰宅後様子を家人に話したら
「唐桑半島って景色がいいところだよねぇ。昔行ったことあるなぁ」
え?誰と行った?(笑)
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40年

2017-11-13 | 
生まれ育った実家を離れ、大学に入学したのはおよそ40年前。
(1979年だから、正確には39年近く前)
40年!!
ほぼ明治という1時代と同じ長さ。
昭和で言えば、
昭和天皇即位から戦争を挟んで、高度経済成長の頃まで。
終戦から数えると、バブル経済が始まる昭和60年まで。
長いなぁ。半世紀に近いからなぁ。
あの頃のことは、思い出せばついこの前のように思えるけど。
大学時代に友人たちは、それだけ長く付き合ってきたことになる。

思えば遠くへ来たものだ。
ということで、今日のエントリーのカテゴリーは「旅」
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まちの形

2017-11-12 | 
私はどうやら方向感覚に優れているらしく
初めて訪れるまちも地図なしで歩けることが多い。
特にわかりやすいのは城下町や宿場町。
「まちのヘソ」があるからだ。
港まちもわかりやすい方かもしれない。
まちの形は人の流れによって作られるものだから。



昨日1日で気仙沼の市街地もだいたい掴めた。
・・・が、そのまちの形は6年前の津波によって
大きく変わってしまったのだという。
港から続いていたらしいかつての市街地は消え、
味のある古い建物が
歯抜けになってしまったまちに点在するのみ。
被災直後に付けられた「残して良い」という○マークが
建物の壁やシャッターにまだ残っているところもあり、
そのリアルさを目の当たりに言葉がでなかった。
大船渡線、気仙沼線が交差する鉄道の要衝だったが、
一関からの大船渡線が気仙沼まで届くだけで
あとはもう線路すらない。
「線路だったところ」が残っている風景は悲しい。

港から離れた市役所〜気仙沼駅のあたりは
津波被害を免れたらしく、いい感じの街並みが残り、
無くなってしまったまちと対照的だ。
災害により変わったまちの形はわかりにくく、
そのコントラストは残酷だ。



かつての市街地から移転した店が集まった
仮設商店街や飲み屋街があちらこちらで目につく。





地形により天然の良港になっているから
それでもまだ、
もしかしたら被害は軽減されたのかも知れないが、
現地の人の当日の話は生々しくて重い。
生死がほんの偶然によって分けられた日。









さすがは港まち。
内陸の人間はなかなか食べることがない
美味しいものをたくさんいただいた。
ご馳走さまでした。



まちの形は変わってしまったけれど、
そこに住む人たちは今を、これからを生きている。
また新たなまちの形が徐々に形成されていくのだろう。
旧市街地のかさ上げ工事が続き、
まだまだ時間はかかるのかも知れないが、
変わりゆくまちをまた見に来たいと思う良いまちだった。

それにしても、旧市街地に残っていたあのレトロな建物。
これからも残していって欲しいなぁ。
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気仙沼へ

2017-11-11 | 
初めて足を踏み入れる地に今から出発。
天気があまり荒れなきゃといいなぁ。
今日もだけど、寒気が入るという明日特に。
仕事だけど、美味しいものも食べてこよう(^^)
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芸術への興味

2017-11-10 | 文化
◎文学
私という人間を形作ってきたもの。
小学生の頃から本とともにあったと言っても過言ではない。
10代の頃は物書きを目指していたほど。
詩や短歌、俳句をはじめ、小説もノンフィクションも読んだ。
今も「書く仕事」や「書かれたものを編集」する仕事をしているから
「物書き」の世界には近いところにいるけれど
そして書くことはじめ、そういう仕事が全く苦痛ではないけれど、
一時憧れていた「小説や童話を書く」ことは20歳ぐらいの時に諦めた。
「書く」というスキルと、「ストーリーを作る」という能力は
全く別のものだとわかったから。
これからも「書くこと」「読むこと」「書かれたことを編むこと」は
死ぬまで続くと思うけど、物語は作れない。

◎音楽
文学が直接的に自分を形作ったものだとしたら
音楽はその外側で環境を形作ってきたものだと思う。
常に周囲には音楽があったし、積極的に聴いてもきた。
自分が経てきた時代ごとにBGMとして音楽があり
自らも時々演奏する側にも回ってきた。
好きなジャンルも多様だし、あまりこだわりもないが、
志向としては「民族性」「根源性」「素朴さ」がキーワード。
だから楽器ひとつひとつの音がミックスされたオーケストラものや
コンピューターミュージックはあまり聴かないかな。
高校時代、野球部に入ろうか迷ったことがあったけれど
どうせ入らなかったのなら吹奏楽部に入れば良かったと今思う。
心置きなく楽器を習得するには一番いい時期だったなぁ。
いま自分が演奏側に回る時、一番のこだわりは楽器演奏よりも歌。
ロックでも、ブルースでも、ジャズでも、民謡でも、
とにかく、いろんな歌を歌ってみたいなぁ。

◎美術
見るのは昔から好き。
絵画ならモジリアニやクリムト、ビュッフェなどクールなもの。
浮世絵も好きだし、版画やリトグラフなども詳しくはないが、嫌いじゃない。
現代美術はよくわからないけれど、想いが伝わってくるものもある。
しかしながら、自ら手がけることはないかな(^^;
子どもの頃の美術の時間も、描きたい想いだけあって
実際に描けるスキルとのギャップにがっかりしたものだった。
小学校低学年の頃、先生について絵を学んだのだが、
自分が描く絵に先生からどんどん手を入れられるのが嫌で
(こんなもん、自分の絵じゃねーやと思っていた 笑)
ついぞ身につくことはなかった。
高校の選択事業でも美術じゃなくて音楽選んだしね。
繰り返すが、美術全般的にきらいじゃない。
仕事柄デザインやディレクションに携わることもあるけれど
(自分でできなくても)イメージだけはあるから大丈夫。
デザインは芸術的表現じゃなくマーケティングだしね。

◎書
今一番やりたいことかもしれない。時間と気持ちの余裕さえあれば(^^;
昔から好きだったのだが、お茶の世界に触れるようになって
より興味が出てきた気がする。
お茶道具の名物を見に行って、箱書きの方に惹かれたこともあり(笑)
大仰にお軸を書くなんてところまでは望まないけど
茶会記や箱書きなどをさらっと書けるようにはなりたいなぁ。
仕事しなくても食えるような立場になれるなら
真っ先に書を習うかもしれない。
まぁお金の問題もさることながら、この仕事が好きだから
そんな日が来るとは思えないけど(笑)

◎演劇
大学時代に、かじったというより触れたぐらいだけど、
今はあまり身近じゃない。
古典芸能も含め、観るとたぶん面白いんだろうけどね。
優先順位は今のところあまり高くはないかな。

◎舞踏
ごめんなさい。
神楽はわかるけど、
他は一番わからない世界かもしれない(^^;
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晩秋・初冬

2017-11-09 | 生活の風景
一昨日が立冬。
北国の紅葉も終盤を迎え、
いよいよ雪の季節が始まる。

















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つばめ食堂

2017-11-08 | 食べ物・お店


棚田と山の間を縫って山道を走っていくと
ヨーロッパのような可愛い白い建物が見えてくる。
ここがつばめ食堂。



山といっても花巻の市街地から車で10分ほど。
宮沢賢治記念館からは車で5分ちょい?
心地いい風が吹き抜ける丘の上に店はある。





窓の外には棚田の風景。
空が広い。



この日はコーヒーを。
日差しも風も、そして風景も気持ちいい。
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多様性

2017-11-07 | 世界・平和
人間はひとりひとり違う。
容姿も、性格も、生活環境も、思考も、出自も、育ちも、仕事も。
すべて一致するという人間などどこにもいない。
そういう人たちがともに共生する社会だからこそ
「多様性を認める社会」というのはごく当たり前のことであって
今さら大上段に掲げることではない。
ひとりひとりが幸福を追い求め懸命に生きている。

問題はその許容範囲をどう考えるかだろう。
「障がい」という言葉があるけれど
それだって「違い」「個性」と捉えるべきことだし
国籍や民族や宗教や肌の色はもっとそうだろう。
誰かを排除すというのなら、自分がいつか排除される恐れもある。
(これはイデオロギーのことを言っているのではない)
たくさんの人間がひしめき合って生きているこの星の上で
「自分が一番」「自分だけ良ければ」「自分が正しい」という論理は
共生を否定し、他を貶めることに相違ない。
相手の立場に立って考え、妥協点を探りながら
長い間人間たちはこの星の上でともに生きてきたし、
これからもそうあるべきだろう。
排除し、殲滅し、囲い込み、虐げた歴史を反省し学びながら。

LGBTだって、結婚しても旧姓を使いたい人だって
心身に不自由を抱えた人だって、他国籍を持った人だって
誰がいつそうなるかもわからないごく普通の人たちだし、
この社会を構成する人間のひとり。
ともにこの社会を生きる構成員という
当たり前の意識を持たないと社会は成り立ってはいかない。



「高等教育を無償化」という政策を掲げて勝利した与党が
選挙が終わってしまったら「無償化する大学を選別する」とのこと。
学生が何をもってその大学を選んだのか、何を学ぼうとしているのか、
そんなことも全く考慮なしに・・・ということだろうか。
誰もが偏差値だけで大学を選んでいるわけではなかろうに。
この方針は弱者切り捨て、地方切り捨てにつながる気がしてならない。
専門学校は?短大は?
もしその方針の理由が「財源」ということならば
裏付けなしにそういうことを選挙で訴えた人や党こそ糾弾されるべきだ。
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「焼け跡のハイヒール」

2017-11-06 | 読書


盛田隆二さんの作品はほとんど読んできたが
最新作の本作品はもしかしたら最高傑作ではなかろうか。
盛田さんご自身のご両親の若いころ、
戦前から戦後のかけて2人が出会うまでの物語。

冒頭と最終章だけ見るとまるでエッセイのようにも読め、
ご両親が幼いころから、過酷だった戦時中の描写のリアルさなどは
あたかも近くで寄り添うように、実際に目にした実録にも見えるのだが
それこそリアリズムの名手と言われる盛田さんの真骨頂。
様々な方から聞いた話と、資料などで綿密に調べた上での
優れた想像力の賜物だろう。

子どもが目にする両親の姿は大人になった姿。
しかも(特に男の子は)ある程度生活基盤ができるまでは
自分のことで精一杯だったりするので
実際に両親に改めて向き合う時には親はもう老境に差し掛かっている。
例えて言えば、マラソンで40kmあまりを走ってきたランナーの
途中のレース展開や戦う姿を知らずに
競技場に入ってきた姿だけを見ているような感じ。
しかしどんな人にも歴史はある。
たくさんの歴史と経験がその人を形作っている。
自分の親は親である前に、
長い人生を歩んできたひとりの人間なのだということを
人は歳を重ねるごとに自分とも照らし合わせ、改めて認識するのだ。
私も本書を読み、改めて自分の両親の来し方を思った。
なにしろ私の両親は盛田さんのご両親とまったく同い歳だから。

タイトルにもなった、お母様が闇市で買った「赤いハイヒール」は
もちろん戦後手にした「自由」の象徴でもあるのだろうが
一方で、これまで家のため、国のために苦労を重ねてきたお母様が
初めて自ら歩み始めようとする「自分の人生」の象徴ではないだろうか。
だからこそ大切にしまっておいたその靴を
あの時初めて履き、1歩を踏み出したのだろう。

それではお父様にとっての「自分の人生の象徴」は?
それは最終章を読めばわかる。
子どもが見ている両親は、あくまで親として表から目にする姿。
実際の、両親2人の間のことは当事者にしかわからない。

盛田さんのご両親の来し方を一気に読んだ後
お2人の人生の最後を読むと、さらに胸に迫るものを感じる。
本書読了後、もしまだ未読であれば
父よ!ロンググッドバイ」(双葉社)を合わせて読むことを
強くお薦めする。

「焼け跡のハイヒール」盛田隆二:著 祥伝社
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SECOND WORKERS STORY 2

2017-11-05 | 世界・平和




co-ba花巻主催のイベントに参加。
この目的はco-ba花巻を運営する花巻家守舎の目的である
(co-ba花巻のある小友ビルの)
「半径200m以内を大人がチャレンジできる街にする」に沿い
これからチャレンジしようとしている人たち向けに
チャレンジしてきたゲストの話を聞いてみようというイベントだ。
もちろんもうチャレンジしているプレーヤーも参加していたし、
(というより、フットワークが軽いからこそチャレンジもできる)
市外からの参加者もそれなりにいたので、
集まった全員がそのエリアでのチャレンジを目指すわけではないが、
それでも昨夜の最年長は私。
これだけ若い人たちがこういうイベントに興味を持つことは
とても嬉しいし、素晴らしいことだと思う。
これからの動きに期待。
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着物の一日

2017-11-04 | マチココ




マルカンビル1階マーブルカフェさん、
Joe's Loungeさん、茶寮かだんさん、
東和町カフェくるみさん、Nightjarさんに
この日だけの特別対応をしていただき、
なおかつマーブルカフェさん、茶寮かだんさん
そしてNightjarさんには
着物での営業もしていただきました。
ありがとうございました。

私自身も1日着物で市内あちこち歩きましたが、
嬉しかったのは我々の呼びかけに応えていただき、
何人か着物姿の方を見かけたこと。
そして何よりも、私自身が着物で街を歩いていたら
すれ違った方々がみんな笑顔で会釈してくれたことが
一番嬉しいことでした。

着物はみんなの笑顔を呼ぶ。
まだまだ街中が着物でいっぱいになるには
時間がかかることとは思いますが、
少しずつこの動きが広がっていけばと思います。
確かな手応えを得た第一歩でした。
これからも同じような企画を続けていければと思います。
ご協力いただいた方々に深く感謝いたします。
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今日です

2017-11-03 | マチココ


Machicoco Presents 着物散歩DAY
私も1日着物であちこち歩き回ってます。
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