風音土香

21世紀初頭、地球の片隅の
ありをりはべり いまそかり

以前から考えていたこと

2005-09-27 | 風屋日記
私は、とりあえず両親が教員の家庭に生まれ、
カギっ子(むかし共働き家庭の子はそう呼ばれてたのさ)だったものの、
伸び伸びと野や林や川で真っ黒になって遊んで育ち、
地域ではそこそこの高校に、こう言っちゃなんだけどすんなり入り、
大して勉強もしなかったけど、まぁそれなりの大学に現役で入り、
何だかんだはあったものの結局帰郷して就職。
最初の仕事の経歴を生かして現在の仕事に。
現在に至り、会社でもまぁまぁ楽しく過ごせている。

その間、これはと思う人と結婚し、
生まれた息子2人も元気にすくすく、真直ぐに育ち、
2人とも高校は私や家内の後輩となってくれた。
高校でも野球や仲間との付き合いを思いきり楽しみ、
それなりに楽しい毎日を送っている。

何の不自由もない。
明日のメシを心配することもなく、人並みの生活だ。
私としては100%満足できる毎日を送っていると思っている。
たぶんこれは「幸せ」と呼べるものなのだろう。
生まれてからこれまで45年間、健康で幸せに生きてきた。

でもね、ふと考えることがある。
私はこの幸せな毎日を手に入れるのに何か努力したのだろうか。
私や家族の健康だって、子ども達が伸び伸び育っていることだって、
いや、もっと根源的に、3度のご飯を食べられるのだって、
あるいは毎晩暖かい蒲団の上に寝、明日の心配がないことだって、
手に入れるために、または維持していくために
私は何か懸命に頑張っているのか?
そういう毎日を黙って手に入れたことに後ろめたさを感じなくていいのか?
このままこんな毎日が、少しずつ変化はあるにせよ、続くのだろうか。
幸せは、日常は、ある日突然断たれることだって充分にある。
見えない落とし穴があちらこちらに口を開けている。
これまでは偶然それらを避けてきた・・・とはいえないだろうか。
生まれて死ぬことはこの世の必定。
それを忘れた振りをしてなんとなく毎日を送るのではなく、
今生きていることに、笑顔で生活できることに、
心から感謝しながら精一杯生きる必要があるのではないか。
「永遠」なんてのは幻想に過ぎず、どんなことでもいつかは終わる。

「その日の前に」重松 清
この本を読んで、改めてそういうことを深く感じた。

次に読みたいと思っているのは
「蒲公英草紙」恩田 陸
日露戦争から第二次世界大戦の時代を生きた女性の日記。
自分を取り巻く世界がどんどん変わっていく中で、
いつまでも変わらない自分の思い。
これもまた永遠という言葉を感じさせられる内容らしい。
楽しみ。
コメント (3)
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