吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

生きものの生きている姿をじっとみることが大事。

2018年06月05日 | Weblog
日月移ろう自然をそのまま受け入れることが、理解の一歩。自然の四季や四季の自然が好き。自然や自然の四季に親しむ仕草のひとつとして、わたしは俳句を勉強し、日々詠んでいる。思いつきを即詠しているが、うまく詠めない。俳句にならない。


拙いと思いながらも、一日1~2句詠んでPCに入力ファイルしている。一年に400句ほどを5年つづけているので、トータル2000句ほどになっているが、”俳句らしい”と思うものは100句ほどもない。


このような自分だが、まだマシ。50年ほど前の自分とは、”関心ごと”が大違いなのだ。そのころの自分は数学が不得意なくせに、統計学や数理統計理論をかじり のめり込んでいた。社会人一年生の1965年頃は、むかし広尾にあった統計数理研究所の講座に通った。1968年ごろは、林知己夫先生の数量化理論に傾倒していた。


このような自分が、ある(日本規格協会)先生に出会ったことで 変わった。西堀栄三郎先生だ。「君の学究というか勉強は、ダメ。」「昆虫採集した小学生が、標本づくりしている姿だ、・・・」。捕集し、注射して殺した虫や蝶の大きさや足や羽の数や大きい順などで並べて昆虫標本などを作っているのと同じ。それで、何の真実や論理を導けているのだ。


蝶でも虫でも、生きて飛んでいたり生きて蕗の葉などを食べている”その姿”をじっくり観察せよ。「生きものや人々が、生きて暮らしているその姿をじっと観察すること」が、生きものや自然を理解する道だと。今は、少しでもこの教えを後輩や若い人たちにつなごうと、日々過ごしている。


だから、生命誌研究館の中村桂子先生の「ちょっと一言」(2018年3月1日)”生物学は学問じゃないの?”に共感、賛同。JSTの「大学生の学問へのイメージ」の学問項目に”生物学”が入っていなかったことへのコメントなのだが、自然、生命、人間について考える”生きものをみつめる”生物学は、学問や科学の中心だと思います。


これが、本日のわたし晒しのブログの事由でした。多謝。
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