吉澤兄一のブログ

お江戸のど真ん中、平河町から、市井のトピックスを日記風につづりたいと思います。

始末のつけ方。

2008年08月02日 | Weblog
 始末算用才覚という商人の言葉がある。あきないをする最低限の心得を言ったものだ。いろいろお客様や世の中の求めるものを観察、調査し、何をどのように品揃えし、どのようにご案内することが売り上げにつながるかを考え、計画を立て、販売や収益の目標を立てて”あきない”をすることが大切ということだが、一定期間を経たら始末することが大事だということだ。この始末は、試算表や決算や会計監査とともに、この間やってきた行為をレビューすることも含まれている。

 世の中のおかぁさん方は、よく「始末しなさい」と子供を叱ったものでした。何をどうしてもいいが、後片付けや後始末の大切さを教えたものだ。好き勝手やらせて、始末することを教えないことが悪いことだと自覚していたからだ。権利を主張する前に責任を果たすことが大事なのだと教えた。

 ふつうの人々や世の中に比べ、最近の世の中の指導者層の始末のつけ方はどうだろう。厚労省や社会保険庁のスキャンダルの後始末など、みんな揃ってフタするの姿だ。大分の教育委員会の姿などが、子供たちに与えた影響の始末もつきそうにない。この度の桐生第一高等学校野球部員の猥褻スキャンダルなど、始末できない大人を晒した。

 ベンチに入っていようがいまいが、離れた場所での行為だろうが、れっきとした野球部員がしでかした不祥事だ。校長先生が先行して”甲子園に行かせたい”は、ないだろう。高野連や世の中が”いうこと”を、指導責任の長たる校長が何の責任とりも表明せず”一人の不心得者で”という話はないだろう。一人のその子供や学校の生徒たちに対しても、そして被害を受けた女性徒に対しても、何の始末にもなっていない。

 野球部長を更迭しましたで始末できたとする前に、世の中や高野連の”なんとか出してやれ”を受けて、校長自身が辞職する姿をみせることが始末や教育というものではないか。自身の教育や管理が至らなかったということで、”自分の辞職"をつけて高野連や世の中に”子供たちへの対処”を委ねるのが始末の取り方だろう。教育者や公務員が、かように誇りや責務感を失くしてしまったことが悲しい。

 甲子園に出られた子供たちの暑く汗する活躍を期待することにしよう。
コメント
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