因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

ネットで観劇☆劇団肋骨蜜柑同好会『meetsCLASSICS No.3 走れメロス ~TOKYO20XX~ 』

2021-06-19 | 舞台番外編
*原作 太宰治『走れメロス』他 フジタタイセイ構成・演出(1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11)+こちらも 公式サイトはこちら サブテレニアンでの上演は13日終了。配信は28日まで

 2015年秋、劇団肋骨蜜柑同好会が「板橋ビューネ」参加した『散る日本』の観劇がきっかけとなり、meetsCLASSICSシリーズ№1『恋の手本~曾根崎心中』へ足を運んだのが2015年12月。もう5年半も前になるが、その印象は今でも強烈だ(シリーズ№2『安吾~散る日本/白痴』(2017年11月)は残念ながら見逃した)。
 
 古典作品を丹念に読み込み、その核をしっかり落とし込んだ上で、あるときは大鉈を振るう勢いでほとんど暴力的と感じるほど大胆に、あるときは彫刻刀で細かい模様を刻み込むごとく繊細に舞台化する劇団肋骨蜜柑同好会のmeetsCLASSICS第三弾は、太宰治の『走れメロス』である。

 演技スペース中央にランニングマシーン、左右はパソコンやら箱やらが置かれ、雑然とした印象である。開演前の場内には「宵待草」が流れている。現代風の舞台と大正歌謡のレトロなメロディがアンバランスであるが、いや「待てど暮らせど来ぬ人を」とは、メロスを待つセリヌンティウスの心情か。フジタ、嶋谷佳恵、藤本悠希の3人は色違いのジャージを着て、フェイスガードを付けている。

 公演は終了しているものの映像が28日まで配信されるため、どこまで記すべきかは悩ましいのだが、それも楽しみとしたい。

 『走れメロス』はギリシアのダーモンとフィジアスという古伝説によったシラーの『担保』という詩を題材に、親友である作家の檀一雄と旅をし、金が無くなったときの体験がきっかけになっているとのこと(新潮文庫『走れメロス』解説より)。「メロスは激怒した」。このあまりに有名な冒頭がどのように描かれるのかを待ち構えていると肩透かしをくらう。肋骨蜜柑同好会の「メロス」には手の込んだ助走がある。

 フジタタイセイは檀一雄の『小説 太宰治』を舞台に引き込み、『走れメロス』と『小説 太宰治』が交錯する構造を提示した。メロス役のフジタが太宰を演じ、嶋谷と藤本も基本ジャージ姿ながらさまざまに衣装や小道具を加えて『メロス』と『太宰治』の複数の役を演じ継ぐ(メロス役も途中で交代する)。ただひとり、メロスの親友役のセリヌンティウスは固定されており、しかも観客が演じるのである。リアル観劇予約の際、「セリヌンティウス席」なるものがあり、全く初めて見る「観客参加型」の趣向であった。ここに座った観客はセリヌンティウスとして演技することになるのだが、舞台に出て台詞を言ったり動いたりしないで済む方法がとられている。これがまことに上手くできていて、無理なく自然であり、いわゆる「観客参加」とは一味も二味も違い、まして「客いじり」などでもない絶妙な趣向なのである。

 さらにフジタはこのたびの東京オリンピックをも舞台に引きずり出したのである。メロス役をほかの俳優が演じ継ぎ、トーチこそ持たないものの、襷をかけ、聖火ランナー、聖火リレーのごとく、メロスはひたすらに走るのである。

 この舞台はフジタタイセイと肋骨蜜柑同好会による「走れメロス」論であり、小説家の太宰治論、ひいてはオリンピック論となり、コロナ禍に翻弄されるこの国の様相、演劇の作り手である彼ら自身を舞台に曝け出す。この1年あまり、どれほどの苦悩があったかは想像を絶するが、フジタタイセイは転んでもただは起きぬ演劇人であり、それに応える仲間たちである。

 久しぶりに『走れメロス』を読み直してみた。登場人物は皆ジャージを着て、フジタ、嶋谷、藤本の顔が代わるがわる浮かんでくる。その中でただひとり、セリヌンティウスだけ顔が見えない。おそらくわたしは、サブテレニアンの「セリヌンティウス席」に座ってしまった自分自身を想像しているのである。
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