*フジタタイセイ脚本・演出 公式サイトはこちら 千歳船橋/APOCシアター 12日まで(1,2,3,4,5,6,7,8,9)
先週「ビター篇」を観劇し、上演台本を一気読みしたら、もう1本を見ないわけにはいかないと矢も楯もたまらず今夜の「ミルク篇」に駆け込んだ。ネガとポジという単純な構成ではなく、たとえば歌舞伎狂言には外伝ものというジャンル(例「仮名手本忠臣蔵」の外伝として「東海道四谷怪談」)があるが、それでもない。ビター篇とミルク篇は同じ時間軸で展開している物語なので、前後編でも番外編でもない。
敢えて言えば男優版の「ミルク篇」が表であり、「ミルク篇」における引っ掛かりや棘や毒、謎らしきところのいつくかの答かと思われるものが女優版の「ビター篇」にあるという見方がまずは有効であろう。といってミルク→ビターの順でなければ、本作を理解できないわけではなく、実際自分は結果的にビター→ミルクの順になったが非常に刺激的な体験であり、さらにミルク→ビターなら、どんな印象を持つかを想像する楽しみすら覚えている。ただどちらか一篇ではもったいない。片方だけでは舞台作品として不十分ということではなく、ミルクとビター合わせ味わうことによって、観客の心のなかで、より複雑で恐ろしく、切なく変容する物語であるからなのだ。
これはフジタタイセイによる天地創造の創世記であり(前説の電話の台詞「もう六日目だよ」)、男女が別々にされたノアの箱舟の物語だ。ならばビター篇で新種の細胞を投与され、ミルク篇に紛れ込んだネズミは何の象徴か。絶望が蔓延しはじめた船の乗客たちは救済されるのか。
予備知識がほとんど無い状態でのビター篇の観劇があってこそ、今夜のミルク篇に集中して臨めたのだが、この集中をビター篇に持てなかったことが情けなく、しかし考えても答の出ないこと、わからなくなることにぞくぞくする。たぶん自分は甘く苦い二つの物語に出会えたことが嬉しくてならないのだろう。夏が去って涼風が吹きはじめるころ、もしかするとまた別の感情が沸き起こるのではないか。それが楽しみでもあり、恐ろしくもある。ますますフジタタイセイと肋骨蜜柑同好会からは目が離せなくなった。
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