因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

因幡屋通信67号をお届けします

2021-02-22 | 舞台
 昨年の春以来、わたしたちは薄い布で顔半分を覆って人とは距離を取り、触れること、親しく交わることを控えています。劇場という空間(密閉)に多くの人が集まり(密集)、時と場所を同じくして生まれる世界の創造(密接)という演劇は「三密」そのもの。終息の出口の見えない心重たき日々が続くなか、昨年出会った忘れられない舞台について記しました。
  因幡屋通信は今回もブログ公開といたします。どうか最後までお読みくださいませ。

転んでも負けるな 
              ―フジタと肋骨蜜柑の演劇讃歌―
 劇団肋骨蜜柑同好会第14回公演
 フジタタイセイ作・演出『2020』
 12月3日~13日 サンモールスタジオ

 ◇その沿革 出会いから『2020』まで ◇

 劇団肋骨蜜柑同好会は2010年、筑波大学劇団SONICBOOMのメンバーを中心に旗揚げされた。劇団の名称には奇抜で不可思議なものが少なくないが、「肋骨蜜柑同好会」は意味やつながりが全く想像できない点で群を抜く。主宰で作・演出を担う主宰のフジタタイセイが無類の骨好きで、「中でもやっぱり肋骨が好き」、「劇団を作るなら肋骨という言葉を入れたかった」。そしてたまたま近くに居た後輩に「肋骨」に続く何かを聞いたら、「秒速で蜜柑」と返答されたというエピソードに拍子抜けするが、自分が好きなものと、その思い入れの強さに全く呼応しないものを躊躇なく組み合わせるあたり、フジタの大胆な創作姿勢の一端が現れているとも言えよう。
 その舞台に初めて出会ったのは、旗揚げから5年後の2015年のことだ。板橋のサブテレニアンで開催された演劇フェスティバル「板橋ビューネ2015」に参戦した『散る日本』である。坂口安吾の将棋観戦記『散る日本』を原作に、将棋の名人戦の模様とそれを記録する「私」の様子をリーディングらしき形を取りながら、途中からプロレスの試合顔負けに大暴れしたり、「脚色」どころか「換骨奪胎」という言葉も追いつかないほど破天荒な舞台に圧倒されるばかりであった。
 それからわずか2カ月後、劇団の本公演として上演されたのが、近松門左衛門の原作に現代の男女の恋愛感覚を投影したmeets CLASSICS No.1『恋の手本~曾根崎心中~』である。熱量が低く、恋に淡白な現代の若者たちが「曾根崎心中」を演じる過程を劇中劇風に見せる趣向で、恋が人を狂わせるように、物語の人物を演じることによって、本人すら気づいていなかった心の奥底の埋火が燃え立つ様相を見せる。今は閉館したpit北/区域のロビーや階段なども使い、狂おしくも鮮烈な舞台にすっかり魅了された。以来ほぼ毎回楽しみに足を運ぶようになり、新作公演はもちろん、過去作品の改訂版や平成から令和改元の27時間通しのイベント、フジタが他劇団公演へ主役で客演するなど、活動は年を追うごとに勢いが増している。
 なかでも第11回公演『ダブルダブルチョコレートパイ』(2019年8月@千歳船橋/APOCシアター)は白眉であった。ある豪華客船の別棟に乗り合わせた男女それぞれの物語を交互上演する趣向で、登場人物の入り組んだ相関関係や、見えないところで別の物語が同時進行する緻密な構造は、「奇抜な趣向」という表現では追いつけるものではなく、「演劇とは方法論ではなく存在論である」というフジタの言葉の具現化であると思われた(えびす組劇場見聞録第62号劇評掲載)。
  そして劇団が創立10周年を迎えた2020年、コロナ禍によって第13回公演『草苅事件・第二版』は、上演予定であった下北沢駅前劇場ロビーでの物販を行うにとどまった。その無念を晴らすごとく、12月の第14回公演『2020』は、前半に5分、後半に10分の休憩をはさみ、150分の長編となった。フジタが初めて挑んだ「演劇による演劇」である。

 ◇『2020』◇

 肋骨蜜柑同好会や日本のラジオ(屋代秀樹作・演出)の作品の舞台として「田瓶市」(たがめし)という架空の町がしばしば登場するのだが、やがてまことしやかに「田瓶市観光情報局」というサイトが開設された。観光地としての見どころや名産品の紹介など、まるで実在の自治体の体裁をとりながら、1年に一度町中の電力供給が停止する「停電の日」があるなど怪しげな情報も巧みに織り込み、虚実ないまぜの町として奇妙な存在の仕方をしている。
 『2020』の舞台も田瓶市である。そこには結成から10年目を迎えた「林檎の会」という劇団があり、もとは地元の演劇サークルだったのだが、立派な建物で劇団員が共同生活を営む様子や、観客動員が飛躍的に増加する活動が世間の注目を集めるようになった。一方で劇団員になった息子の消息がわからないなど不穏な噂もあり、週刊誌のライターとカメラマンが取材に赴く。林檎の会はさらなる飛躍を目論み、「2020計画」なるものを進めているらしい。
 劇団員たちは白い上下の制服を着て、愛情省や豊富省、文化芸術庁などと呼ばれる省庁に所属し、運営業務をこなす。腰に赤い布を巻いた「婦人会」の女性団員は、劇団の会長から「個人レッスン」の声がかかると、その夜はベッドでのお勤めを行う。規則違反者や方針に添わない者は「ダメ出し」と称して暴行され、最悪の場合は「卒業」という名のもとに粛清、つまり殺害されることもある……等々、劇団とはもはや名ばかりの、ほとんどカルト教団と化した彼らの様相は禍々しく猟奇的で、四半世紀前に日本を震撼させたオウム真理教のことを否が応でも想起させる。カメラマンは何を思ったのか劇団に入団し、取材に気乗りしなかったライターは彼らの闇に切り込もうとする。劇団員のあいだに恋も生まれ、林檎の会から姿を消した劇作家・金城の未完の作品『2020』の存在を知った恋人たちは、愛する人を絶対に裏切らないと誓って劇団の告発を試みる。金城の『2020』は劇団の現在と未来を予見する進行形の物語で、「演劇についての演劇」がさらに複雑な色合いを帯びはじめる。

「過剰に論理的に『なぜ演劇なのか』を問い続ける。問い続けたい。問い続けられますように」という劇団サイトに記された理念を改めて読み直す。
 コロナ禍にあって、演劇が社会に必要であることを多くの演劇人が訴え、表現の場と仕事の場を一度に失った自分と仲間たちのために奔走している。どうアピールすれば、衣食住に直接繋がる産業ではない芸術の必要性が伝わるのか。
 それには演劇が素晴らしいこと、救いや励まし、癒しを生むこと、人が生きていく上で欠くべからざる糧であることを具体的、客観的に示さなければならない。しかしその成果の数値化は困難であり、どう評価するかは受け手によって異なる。好き好きと言ってしまえばそれまでで、そもそも演劇に興味のない人、必要がない人の方が圧倒的に多く、誰にでも水や食料、住まいと同じように心の養い、魂の充足の必要性を説くことはむずかしい。
 それでも「とにかく自分たちは演劇が好きだ、演劇を作り続けたい」というまっすぐな情熱を表現することはできる。
 だが『2020』は、あろうことか劇団がカルト教団と化してしまった話である。劇作家や演出家、劇団の主宰という立場が専制君主的になりがちであり、権力を握った者と、それにおもねる者の支配下においては、劇団員は自己を無くすことによって身の安全を図る。そこに自由な創造活動は存在しない。『2020』は一種のメタ演劇であり、バックステージものでもある。昨年夏に上演の東京夜光公演『BLACKOUT~くらやみで歩きまわる人々とその周辺~』が描いたのも演劇創造の現場であるが、屈託や葛藤など一筋縄ではゆかない作り手の心情を描きながら、最後にはそれらが清々しく昇華されたことに対して、『2020』は、演劇を作る側の自分たち自身を足蹴にし、嫌悪を感じさせるほどに激しく突き放したところがある。物語の猟奇的な展開や痛ましい結末だけでなく、まっすぐに「演劇が好きだ、演劇を作りたい」と言えない、いや言わない、頑ななものが感じられる。
 演劇の作り手から「こんなご時世だから、お芝居を観て元気を出していただきたい」、「劇場にいるあいだだけでも、コロナのことを忘れて楽しんでもらえれば」といった言葉がよく聞かれる。感染対策のために現場にどれほどの負荷があるのかは想像し尽せない。そのなかで、「少しでも楽しんでほしい」という混じりけのない、切なる願いであろう。
  しかし『2020』はそれに対して「否」をぶつけてくる。劇団というコミュニティが暴走し、「毎日健康、演劇は世界を救う」とスローガンを掲げ、「明日も頑張りましょう」の挨拶を欠かさない彼らが殺人も辞さない狂気集団に変容する惨状は、演劇が不要不急どころか、社会悪になりかねない危険性まで見せてしまうのだ。
「演劇は素晴らしい」「人間にとって必要なものだ」ではなく、「もう演劇なんか、絶対やらないで」と言って仲間を殺害する劇団員や、リーダーとしての創造意欲はとうに消え失せ、マスコミへのアピールや選挙活動も流されるまま、女性劇団員との「個人レッスン」に溺れる夫に、「どうして演劇やらないの」という妻の嘆きは、「演劇」という経済効率が良いとは言えず、成果は上げにくく、認められているかどうかのわかりにくい、それゆえに魅力の尽きない宝を知ってしまった人の叫びであろう。
 『2020』は厄介な作品である。演劇創作の現場の人にとっては自らの恥部を晒されたようであろうし、受け手としても心が弾むものではない。
 恋人と引き離され、「ダメ出し」に屈した女性団員が、最後に「これはわたしの遺書でありラブレター」だと激しいモノローグを放つ。彼女は恋人が暮らす楽園が「そこらじゅう不要不急の物事で雑然としていて、音楽が溢れ、面白くも無い演劇が上演される」ようにと願う。
 「林檎の会」から消えた劇作家の金城はフジタ自身を投影させたものであろう。追い詰められ、表現を封じられたその未来において、自分たちの作る舞台は「不要不急の物事」、「面白くも無い演劇」であると言い放つのは謙遜や自虐ではなく、自分たちの創作が万人受けせず、明るく笑ってしばし現実を忘れるどころか、現実を突きつけ、さらなる悪夢を予感させるものであること、そこから生まれるものを見据えようとする冷静で客観的な視点であり、心意気である。
 彼女は「転んでも負けるな」と繰り返す。上演台本には、4回めが「コロんでもまけるナ!」と書かれていた。フジタタイセイが客席に、この世に向けて発した宣戦布告であり、血反吐を吐くような演劇讃歌である。
  初日をネット視聴して、これをリアルに観劇するのはいささか辛いと思われたが、何かに憑かれるように劇場に足を運んだ。客席でまともに浴びる毒気は想像するより強烈だったが、フジタはまず自らに檄を飛ばし、客席の自分もまたそれを確と受け取ったことを実感できたのである。
る。
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