のんびり気軽にさんぽがてら。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。
笠置山、続いて吉野山を陥落させた幕府勢。
しかし、我らが「楠木正成」の守る千早城には翻弄され続け、それは容易に落ちることなく耐え続けたのです。
この意外な抵抗に、「後醍醐天皇(※写真)」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」が発していた令旨がその効果を発揮。
各地の武士らも次々に蜂起していったのでした。
元弘三年(1333) 四月二十七日
約二ヶ月もの間耐え続けていた千早城に、ようやく伯耆からの援軍が到着。
続いて、五月八日には援軍として差し向けられていた筈の「足利尊氏」が幕府勢から寝返り、「千種忠顕(ちぐさ・ただあき)」、「赤松円心」らの部隊と合流。
六波羅探題の「北条仲時」、「北条時益」らを追い払ってこれを攻略しました。
続いて五月二十一日には、鎌倉へと兵を進めていた「新田義貞」、尊氏の嫡男「足利義詮(千寿王)」らの軍勢が、ついにそちらを陥落させたのでした。
ちなみに、鎌倉幕府では無名だった義貞と違い、幕府で重用されていた足利氏の御曹司、当時は四歳だったという義詮の来援によって、武士らが自然と集合したそうなのです。
…なんだか悲しくなるようなエピソードですね。
こうした事態になり、千早城包囲軍もようやく囲みを解いて撤退。
六月五日になると、「後醍醐天皇」はめでたく京都へと迎えられたのです。
建武元年(1334)
こうして、「後醍醐天皇」は念願だった天皇親政を開始。
当時は四十六歳。
しかし…武士を廃して天皇親政を目指した「後醍醐」でしたが、倒幕の原動力となっていたのはご存じのとおりその武士たちなのでした。
この時点で大きな矛盾がありますよね。
(※そもそも「後醍醐」という名も、「醍醐天皇」の平安時代[897年頃]を目指してつけたと言われてます)
時間を過去へ戻すというのは、非常に困難なことだと思います。
だいたい武士らも北条氏の支配に不満を持っていただけで、天皇親政なんて望んでいないですからねー。
まず、論功行賞にていきなりそれが露呈しました。
簡単には、最大の功労者であった武士は無視され、公家や皇族にばかり地位や権力を与えたのです。
いちおう勲功第一とされ、従四位下・鎮守府将軍となった「足利尊氏」ですが…”新政権に尊氏なし”と言われているように、役職は与えられなかったのです。
(※距離をおくためにわざと敬遠したという説もある)
武士らが代表者・代弁者と慕うようになっていた尊氏がそうした状態だったため、彼らの期待は完全に裏切られてしまったのでした。
「朕(ちん)が新儀は未来の先例」
…要するに、自らのやったことが未来の模範になるだろう、とか広言していたらしい「後醍醐」でしたが、その政治は独裁的なものでした。
武士から徹底的に嫌われましたが、その独善っぷりは公家らの間でも甚だ評判が悪かったようなのです。
政策も思い付きのようなものが多く、破綻しては変更するというトンデモなものだったみたい。
いったい、どこからあんな発言が出てくるんでしょうねー。
ちなみに、我らが「楠木正成」さまは従五位河内守、検非違使(けびいし)、左衛門尉(さえもんのじょう)を任官。
摂津守を拝領し、河内、摂津という二国の守護となっています。
当初の身分から考えれば大出世というべきものですが…幕府の大軍を釘付けにし、全国武士の決起を促した活躍にしては、やっぱり乏しい褒美ですね。
⇒ つづく。
次回は「絶望した武士・尊氏を頼る」 (12/16)
[関連記事] 【歴史・その他】
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 「軍師」について
⇒ 海賊大将・藤原純友「承平・天慶の乱」[1 2 3 4]
⇒ 晴明神社 (京都)
⇒ 行こう!八王子城址 [ 前編 中編 後編 ]
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 箱根石仏群・記念館 (箱根)
⇒ 行こう!「関ヶ原ウォーランド」 (岐阜)
⇒ 三河武士のやかた 家康館 (愛知県・岡崎公園)
⇒ 源氏夢回廊 (滋賀・石山寺)
⇒ 石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)
⇒ 河村城址 (神奈川)
⇒ 戦国武将・動物愛称いろいろ(調査中)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都編)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都外地域編)
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
※次回、苦悩する「尊氏くん」にご期待下さい。
ひでるさんも調べていてちょっと意外なものでした。
南北朝時代を勉強中…ということで、時代の英雄「楠木正成(くすのき・まさしげ)」についてお送りしております。
随一という戦功を上げ、数年のうちにこの世を去ることとなった、”歴史に残る戦術家”の活躍をご覧下さい。
笠置山、続いて吉野山を陥落させた幕府勢。
しかし、我らが「楠木正成」の守る千早城には翻弄され続け、それは容易に落ちることなく耐え続けたのです。
この意外な抵抗に、「後醍醐天皇(※写真)」の嫡男「大塔宮護良親王(おおとうのみや・もりながしんのう)」が発していた令旨がその効果を発揮。
各地の武士らも次々に蜂起していったのでした。
元弘三年(1333) 四月二十七日
約二ヶ月もの間耐え続けていた千早城に、ようやく伯耆からの援軍が到着。
続いて、五月八日には援軍として差し向けられていた筈の「足利尊氏」が幕府勢から寝返り、「千種忠顕(ちぐさ・ただあき)」、「赤松円心」らの部隊と合流。
六波羅探題の「北条仲時」、「北条時益」らを追い払ってこれを攻略しました。
続いて五月二十一日には、鎌倉へと兵を進めていた「新田義貞」、尊氏の嫡男「足利義詮(千寿王)」らの軍勢が、ついにそちらを陥落させたのでした。
ちなみに、鎌倉幕府では無名だった義貞と違い、幕府で重用されていた足利氏の御曹司、当時は四歳だったという義詮の来援によって、武士らが自然と集合したそうなのです。
…なんだか悲しくなるようなエピソードですね。
こうした事態になり、千早城包囲軍もようやく囲みを解いて撤退。
六月五日になると、「後醍醐天皇」はめでたく京都へと迎えられたのです。
建武元年(1334)
こうして、「後醍醐天皇」は念願だった天皇親政を開始。
当時は四十六歳。
しかし…武士を廃して天皇親政を目指した「後醍醐」でしたが、倒幕の原動力となっていたのはご存じのとおりその武士たちなのでした。
この時点で大きな矛盾がありますよね。
(※そもそも「後醍醐」という名も、「醍醐天皇」の平安時代[897年頃]を目指してつけたと言われてます)
時間を過去へ戻すというのは、非常に困難なことだと思います。
だいたい武士らも北条氏の支配に不満を持っていただけで、天皇親政なんて望んでいないですからねー。
まず、論功行賞にていきなりそれが露呈しました。
簡単には、最大の功労者であった武士は無視され、公家や皇族にばかり地位や権力を与えたのです。
いちおう勲功第一とされ、従四位下・鎮守府将軍となった「足利尊氏」ですが…”新政権に尊氏なし”と言われているように、役職は与えられなかったのです。
(※距離をおくためにわざと敬遠したという説もある)
武士らが代表者・代弁者と慕うようになっていた尊氏がそうした状態だったため、彼らの期待は完全に裏切られてしまったのでした。
「朕(ちん)が新儀は未来の先例」
…要するに、自らのやったことが未来の模範になるだろう、とか広言していたらしい「後醍醐」でしたが、その政治は独裁的なものでした。
武士から徹底的に嫌われましたが、その独善っぷりは公家らの間でも甚だ評判が悪かったようなのです。
政策も思い付きのようなものが多く、破綻しては変更するというトンデモなものだったみたい。
いったい、どこからあんな発言が出てくるんでしょうねー。
ちなみに、我らが「楠木正成」さまは従五位河内守、検非違使(けびいし)、左衛門尉(さえもんのじょう)を任官。
摂津守を拝領し、河内、摂津という二国の守護となっています。
当初の身分から考えれば大出世というべきものですが…幕府の大軍を釘付けにし、全国武士の決起を促した活躍にしては、やっぱり乏しい褒美ですね。
⇒ つづく。
次回は「絶望した武士・尊氏を頼る」 (12/16)
[関連記事] 【歴史・その他】
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度
⇒ 「軍師」について
⇒ 海賊大将・藤原純友「承平・天慶の乱」[1 2 3 4]
⇒ 晴明神社 (京都)
⇒ 行こう!八王子城址 [ 前編 中編 後編 ]
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 箱根石仏群・記念館 (箱根)
⇒ 行こう!「関ヶ原ウォーランド」 (岐阜)
⇒ 三河武士のやかた 家康館 (愛知県・岡崎公園)
⇒ 源氏夢回廊 (滋賀・石山寺)
⇒ 石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)
⇒ 河村城址 (神奈川)
⇒ 戦国武将・動物愛称いろいろ(調査中)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都編)
⇒ お寺バンザイ! (たまに行くならこんな寺・京都外地域編)
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
NHK「その時歴史が動いた」 武乱世を制するリーダーの条件~湊川の戦い 足利尊氏、苦悩の決断~ [DVD]NHKエンタープライズこのアイテムの詳細を見る |
※次回、苦悩する「尊氏くん」にご期待下さい。
ひでるさんも調べていてちょっと意外なものでした。