本日は平安末期から鎌倉時代に活躍した武士「土肥実平(どひ[い]・さねひら)」さまです。
…えー、知ってます?
ひでるさんは名前程度しか知りませんでした。
なにゆえこの方なのか、というと…湯河原駅にて像を写真で撮ったから(笑)
まぁ、鎌倉時代(源平合戦)学習中ということもあり、取り上げてみることとしたのです。
相模国足下郡土肥郷を領していた「土肥実平」は桓武平氏「村岡良文」の子孫。
ここで武士団を形成する「中村宗平」の子です。
もともとの名乗りは「土肥次郎」ということで次男。
父「中村宗平」、および弟「土屋宗遠」と共に源氏方の有力御家人として活躍することとなるのです。
永暦元年(1160)
平家との争いに敗れた源氏勢。
父「源義朝」は謀殺され、嫡男「源義平」は捕えられて斬首処刑。
そして合戦に参加していた、当時十四歳の三男「源頼朝」も道に迷っているところを捕縛され、六波羅の「平清盛」によって助命され、伊豆へと流刑にされてしまったのでした…。
配流となった罪人「源頼朝」
援助を受けてようやく生活できるという有様であったようですが、さすがは源氏の貴種。
この時に監視であった北条氏の娘「北条政子」と結婚しているほか、その前には「伊東祐親」の娘「八重姫」に手をつけているなど、その行動は比較的自由であったようなのです。
そんな彼の屋敷に出入りしていた武士の一人が、今回の主人公「土肥実平」であったのです。
…要するに、挙兵前からの知り合いだったんですね。
治承四年(1180)
以仁王の令旨を受けた頼朝はついに平氏追討のため挙兵。
実平はそれにも当然従い、「石橋山合戦」に参加しております。
初戦にて平家方の「山木兼隆」を襲撃してこれを討ち取った頼朝勢。
ここで大いに気勢を上げたものの、増水によって頼みの三浦勢の進軍が遅れていた隙を突かれてしまったのです。
頼朝は平氏方「大庭景親(おおば・かげちか)」の軍勢三千騎と石橋山にて激突。
ちなみに、この際の頼朝勢はたった三百程度でした。
さらに後方にはやはり平氏方であった「伊東祐親」の軍勢も進出しており、完全に挟み撃ちという状態だったのです。
善戦した頼朝勢ですが大軍によって蹂躙され、ほどなく敗走。
形成不利を見てとった実平は、ここで兵の分散を進言したと言われています。
「それぞれ別れてこの窮地を脱し、再挙を期す」
頼朝と行動を共にした実平は自らの領国であった土肥郷・椙山(すぎやま)は「しとどの窟」へと招き、数日間身を隠してその危機を救うのです。
⇒ つづく。
次回は「常陸・佐竹氏討伐に出陣する実平さま」
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※温泉と言えば…コチラですね。
トキメキです。けっこうあちこちにあって、驚きました。
…えー、知ってます?
ひでるさんは名前程度しか知りませんでした。
なにゆえこの方なのか、というと…湯河原駅にて像を写真で撮ったから(笑)
まぁ、鎌倉時代(源平合戦)学習中ということもあり、取り上げてみることとしたのです。
相模国足下郡土肥郷を領していた「土肥実平」は桓武平氏「村岡良文」の子孫。
ここで武士団を形成する「中村宗平」の子です。
もともとの名乗りは「土肥次郎」ということで次男。
父「中村宗平」、および弟「土屋宗遠」と共に源氏方の有力御家人として活躍することとなるのです。
永暦元年(1160)
平家との争いに敗れた源氏勢。
父「源義朝」は謀殺され、嫡男「源義平」は捕えられて斬首処刑。
そして合戦に参加していた、当時十四歳の三男「源頼朝」も道に迷っているところを捕縛され、六波羅の「平清盛」によって助命され、伊豆へと流刑にされてしまったのでした…。
配流となった罪人「源頼朝」
援助を受けてようやく生活できるという有様であったようですが、さすがは源氏の貴種。
この時に監視であった北条氏の娘「北条政子」と結婚しているほか、その前には「伊東祐親」の娘「八重姫」に手をつけているなど、その行動は比較的自由であったようなのです。
そんな彼の屋敷に出入りしていた武士の一人が、今回の主人公「土肥実平」であったのです。
…要するに、挙兵前からの知り合いだったんですね。
治承四年(1180)
以仁王の令旨を受けた頼朝はついに平氏追討のため挙兵。
実平はそれにも当然従い、「石橋山合戦」に参加しております。
初戦にて平家方の「山木兼隆」を襲撃してこれを討ち取った頼朝勢。
ここで大いに気勢を上げたものの、増水によって頼みの三浦勢の進軍が遅れていた隙を突かれてしまったのです。
頼朝は平氏方「大庭景親(おおば・かげちか)」の軍勢三千騎と石橋山にて激突。
ちなみに、この際の頼朝勢はたった三百程度でした。
さらに後方にはやはり平氏方であった「伊東祐親」の軍勢も進出しており、完全に挟み撃ちという状態だったのです。
善戦した頼朝勢ですが大軍によって蹂躙され、ほどなく敗走。
形成不利を見てとった実平は、ここで兵の分散を進言したと言われています。
「それぞれ別れてこの窮地を脱し、再挙を期す」
頼朝と行動を共にした実平は自らの領国であった土肥郷・椙山(すぎやま)は「しとどの窟」へと招き、数日間身を隠してその危機を救うのです。
⇒ つづく。
次回は「常陸・佐竹氏討伐に出陣する実平さま」
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トキメキです。けっこうあちこちにあって、驚きました。