本日も平安末期から鎌倉時代に活躍した武士「土肥実平(どひ[い]・さねひら)」さまです。
湯河原駅に像がある、湯河原の英雄・実平さま。
実は挙兵以前から常に「源頼朝」を支え続けた、忠義の将であったのです。
「石橋山合戦」にて大敗北した頼朝でしたが、実平の機転あって危機を脱出。
真鶴から安房(千葉県)へ渡海した一行は鎌倉へ入る頃には一大勢力となっており、平氏の軍勢を「富士川合戦」にて破ったのでした。
さらに、足場を固めるべく進出した常陸・佐竹氏討伐でも実平は攻略に貢献していたのです。
元暦元年(1184)
頼朝に先んじて入京していた従兄弟「木曾義仲」討伐の西上軍にも参加した入京。
続いて平氏追討の軍勢にも参加し、「源義経」と共に戦っております。
西国へと出発した頼朝勢。
播磨・三草山にて平家勢を破った合戦こそが「三草山合戦」です。
大手からの「源範頼」は総勢五万騎、搦め手の「源義経」は我らが「土肥実平」も含めて一~二万騎ほどでした。
平家の軍勢は福原に陣を張っておりました。
しかし…
二月四日は「平清盛」の法要を執り行うということで休戦。
二月五日、六日も陰陽道では日が悪かったため、こちらも休戦となったのです。
…このあたりはいかにも平安後期の武士らしいですね。
平家軍の中将「平資盛」らは、七千騎ほどの軍で三草山の西へ布陣しておりました。
これに対し、搦め手の義経はその東へ着陣。
両者の間はわずか十二メートルほどという、かなりの近距離でした。
実平らと評定を開いた義経は、ここで夜襲を決定。
しかし、決戦としたのは”当時の感覚では休戦と定められていた”、五日夜半だったのです。
そんな日に、突如襲撃した義経勢。
休戦としていた平家勢は完全に不意を突かれて当然ながら大混乱に陥り、なんと五百もの武士が討ち取られるという大敗となってしまうのでした。
ちなみにその後の七日に行われた合戦こそが、あの有名な「一の谷合戦」なんですね。
ここで義経は一万騎を二手に分け、自らは一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立って逆落とし。
七千余騎を引きつれた実平も塩屋口にて活躍しております。
その直後、実平は戦功によって備前、備中、備後という三国の守護(惣追捕使)へ任命されました。
なお、同じ際に「梶原景時(かじわら・かげとき)」は播磨、美作という二国であったため、その信頼度合が伺えます。
山陽道を守る実平は、主力である「源範頼」の進軍を支援したのです。
文治元年(1185)
長門「壇ノ浦合戦」でも源氏軍の重鎮として活躍。
「梶原景時」と共に頼朝代官として、範頼・義経というそれぞれの遠征軍に加わっております。
文治五年(1189)には奥州征伐に参加。
幕府創成期頃に、軍監、追捕使、宿老として多くの功績を残しました。
初期から変わらぬ忠誠心を持って頼朝を支え続けた武士として、その信頼はすこぶる厚かったのでした。
こうして戦場での活躍が目立つ実平ですが、領民の評判も上々だったようです。
建久二年(1191)では鎌倉にて奉行をするなど名前が見えますが、実はその後の生没については不確かなのでした。
湯河原にある「城願寺」は実平の創建と伝えられ、境内には一族の墓があります。
なお、彼の嫡男「小早川遠平(こばやかわ・とおひら)」は戦功によって安芸の沼田荘の地頭職を与えられ、そちらに移って子孫は繁栄。
…そう、彼が戦国時代に毛利氏と共に活躍した「小早川家」の祖先だったのですよ。
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※映像ではこちらがオススメです。
義経は絵になりますよねー。
湯河原駅に像がある、湯河原の英雄・実平さま。
実は挙兵以前から常に「源頼朝」を支え続けた、忠義の将であったのです。
「石橋山合戦」にて大敗北した頼朝でしたが、実平の機転あって危機を脱出。
真鶴から安房(千葉県)へ渡海した一行は鎌倉へ入る頃には一大勢力となっており、平氏の軍勢を「富士川合戦」にて破ったのでした。
さらに、足場を固めるべく進出した常陸・佐竹氏討伐でも実平は攻略に貢献していたのです。
元暦元年(1184)
頼朝に先んじて入京していた従兄弟「木曾義仲」討伐の西上軍にも参加した入京。
続いて平氏追討の軍勢にも参加し、「源義経」と共に戦っております。
西国へと出発した頼朝勢。
播磨・三草山にて平家勢を破った合戦こそが「三草山合戦」です。
大手からの「源範頼」は総勢五万騎、搦め手の「源義経」は我らが「土肥実平」も含めて一~二万騎ほどでした。
平家の軍勢は福原に陣を張っておりました。
しかし…
二月四日は「平清盛」の法要を執り行うということで休戦。
二月五日、六日も陰陽道では日が悪かったため、こちらも休戦となったのです。
…このあたりはいかにも平安後期の武士らしいですね。
平家軍の中将「平資盛」らは、七千騎ほどの軍で三草山の西へ布陣しておりました。
これに対し、搦め手の義経はその東へ着陣。
両者の間はわずか十二メートルほどという、かなりの近距離でした。
実平らと評定を開いた義経は、ここで夜襲を決定。
しかし、決戦としたのは”当時の感覚では休戦と定められていた”、五日夜半だったのです。
そんな日に、突如襲撃した義経勢。
休戦としていた平家勢は完全に不意を突かれて当然ながら大混乱に陥り、なんと五百もの武士が討ち取られるという大敗となってしまうのでした。
ちなみにその後の七日に行われた合戦こそが、あの有名な「一の谷合戦」なんですね。
ここで義経は一万騎を二手に分け、自らは一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立って逆落とし。
七千余騎を引きつれた実平も塩屋口にて活躍しております。
その直後、実平は戦功によって備前、備中、備後という三国の守護(惣追捕使)へ任命されました。
なお、同じ際に「梶原景時(かじわら・かげとき)」は播磨、美作という二国であったため、その信頼度合が伺えます。
山陽道を守る実平は、主力である「源範頼」の進軍を支援したのです。
文治元年(1185)
長門「壇ノ浦合戦」でも源氏軍の重鎮として活躍。
「梶原景時」と共に頼朝代官として、範頼・義経というそれぞれの遠征軍に加わっております。
文治五年(1189)には奥州征伐に参加。
幕府創成期頃に、軍監、追捕使、宿老として多くの功績を残しました。
初期から変わらぬ忠誠心を持って頼朝を支え続けた武士として、その信頼はすこぶる厚かったのでした。
こうして戦場での活躍が目立つ実平ですが、領民の評判も上々だったようです。
建久二年(1191)では鎌倉にて奉行をするなど名前が見えますが、実はその後の生没については不確かなのでした。
湯河原にある「城願寺」は実平の創建と伝えられ、境内には一族の墓があります。
なお、彼の嫡男「小早川遠平(こばやかわ・とおひら)」は戦功によって安芸の沼田荘の地頭職を与えられ、そちらに移って子孫は繁栄。
…そう、彼が戦国時代に毛利氏と共に活躍した「小早川家」の祖先だったのですよ。
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義経は絵になりますよねー。